第5話 バク転はカッコイイ
「っていうか、ジェニーズってバク転できなきゃいけないんじゃないの?」
「は?何それ」
夜、テレビに流れるAファイブの映像を見ながら踊る泰一の後ろに座っていた文子が言った。
「聞いたことあるよ。ジェニーズはまずはバク転できなきゃいけないんでしょ?唯我バク転できないの?」
「……しようと思ったことなかった」
「ったく、この無気力野郎が。ちったあ何かやってみろ!」
すごくムカついた。言葉づかいの荒い女は苦手だ。文子はごろんと横になって頬杖をついている。このぐうたらブス!優里子とは大違いだ。
「俺、倒立できるよ!」
泰一は壁に向かって走り出し、まるで側転するように倒立した。足も手もぐんにゃり曲がってはいるが、ちゃんと倒立していることに驚いた。
「唯我兄ちゃんもやってみてよ!」
「どうせできないよ。ぷぷぷ」
俺は泰一に言われ、文子に笑われ、柄にもなくやる気を起こした。見てろよガキども!そうして壁に向かって足を上げた。
「どうだ!俺だって倒立くらい」
すると文子がスマホでパシャッと写真を撮った。それを見てまた笑った。
「ふはははは!唯我、ぐにゃぐにゃだよ!」
文子が撮った俺の倒立は、髪がだらんと下がって、顔が真っ赤になって、手足が曲がっていた。俺としては綺麗な倒立をしたつもりだったのに、全くイメージと違う姿にショックを受けた。文子はきゃはははと腹を抱えて笑うし、笑う文子を見て泰一も笑う。俺はとても恥ずかしくなって顔が熱くなった。
「どいつもこいつもうるせえ!」
「うるさいのはお前だ!唯我!」
その時、ペチンと頭を叩いたのは、いつの間にか後ろに立っていた優里子だった。
「何時だと思ってるの!もう消灯時間。皆も早く寝なさい!」
文子と泰一は「ええ?」と言いながら優里子に急かされて部屋を出て行った。俺は思わず「はあ」とため息をついた。
「何ため息なんてついてるの?」
「倒立が泰一よりできてなくてショックだった……」
「倒立?どうして倒立?」
「文子にバク転できないのかって言われて、泰一が倒立するって言って、俺もできると思ってやった」
「それでうまくできなかったのね。ああ、そういえば、ジェニーズってバク転できなきゃいけないって聞いたことあるなあ」
「は?」
「え、違うの?」
俺は、文子の情報は優里子が言ったんだなと思った。余計なこと言いやがって。
「俺、できねえよ」
「バク転かあ。難しそうだよね。でも、バク転できる人って小学校ではヒーローよね。すごいことだもの!それに、バク転できたら単純にカッコイイよね。迫力あって!」
カッコイイ。カッコイイ。
その言葉が俺の中で響いた。優里子にとって、バク転はカッコイイんだ。俺はそれまで沈んでいた気持ちが一気に持ち上がるのを感じた。
「わかった。俺、倒立とバク転ができるジェニーズになるよ」
「え?う、うん!頑張れ!」
俺は珍しくとてもやる気になった。
****
次の日、教室には夏休みのしおりが配られた。
「夏休み中の目標を書いて下さい。目標を書く欄の下には、目標を達成するための方法や計画を具体的に書いて下さい。明日までに先生に提出してくださいね」
教室からは「はあい」という間抜けな返事が響いた。俺はとても真剣に考えた。休み時間には、学校の図書室から借りてきた体操の本を机の上で広げた。そこに載っている方法をしおりに一生懸命書きこんだ。すると、前の席に座る大沢がじっと見て、話かけてきた。
「バク転ができるようになる?あら、唯我にしては意外な目標」
「うるせえな。こっちは真剣に書いてるんだよ。邪魔すんな」
「はいはい。でも、できるようになったら見てみたいな。唯我のバク転」
俺は「だからうるさいって」と言おうと顔を上げたが、目の前の大沢の顔が期待にあふれキラキラしていたので、言うに言えなくなってしまった。
「……わかったよ」
「ホント?」
「ただし、1回きりな」
「うん。楽しみにしてる!」
嫌な約束をしてしまったと後悔したが、もうしょうがない。できるようになるしかないんだ。優里子の「カッコイイ」の声を思い出して顔がほてった。
施設に帰ってから居間で借りた本を広げた。本にはあらゆる体操の技が載っている。倒立から前転、倒立からブリッジもできる。側転にも技があり、ロンダートからバク転して着地する絵を見ているだけですごいと思えた。俺は皆で過ごすことの多い居間の壁に向かって倒立の練習をした。壁に足をつくだけでも体の全体重を支える両腕は折れそうになった。苦しくてたまらない。
「あ!唯我兄ちゃん!」
俺を見つけた泰一が手を伸ばし、俺の足を持った。泰一は強引に俺の足を動かし、まっすぐにしようとしていた。
「まっすぐだよ!まっすぐにするんだよ!」
「やめろ泰一!倒れるって」
「あ、ほらほら!見て!」
感覚としては背中も足も腕もとても曲がっている気がした。泰一は嬉しそうに広い壁に向かって走っていくと、閉じていたカーテンをザザーと一気に全部開けた。そこには一面鏡が現れ、俺の倒立姿が写った。手から足の先まで一直線に伸びていて、まるで借りてきた本の見本のようだった。
「ね?まっすぐだよ!」
「まっすぐってこんな感じなのか……。俺の思ってた感覚とは違うんだな」
その時、智樹がレッスン室の鏡に写る姿を確認しながら踊っている姿を思い出した。その視線は、鏡に写る体をなぞるように動いていた。
「そうか。自分の思う姿と、誰かに見られている姿は違うんだ。だから智樹は鏡に向かって練習してたんだ」
鏡をまじまじ見て確認してから足をゆっくり下ろした。
「それに、鏡に写っている自分を見ても、確認している時は恥ずかしくない」
「智樹って誰?」
「ジェニーズJrの超イケメン」
****
「え、ダンスの練習?」
「智樹はいつもどうやってダンスの練習してるの?」
レッスンの休憩中に智樹に聞いてみた。事務所のレッスンでは必ず一緒になるし、何より智樹はダンスが上手だ。
「そりゃ、憧れの先輩のを見るのが一番いいと思うけど。ライブのDVDとかで振りを覚えてさ。俺はいつも、ウォーミングアップに青春隊の”疾風”を踊って、次にジェットスターの曲をやるよ。それぞれのグループ人数分の振り付けをやるって感じ」
「人数分?」
「例えば青春隊なら3人だから、3人の振り付けをやる。ジェットスターは8人組だから、8人それぞれの振り付けをやる。そんな感じ」
「Aファイブなら5人組だから」
「そう。5人の振り付けをやる。覚えちまえば30分で終わるぜ。でも、そこから細かい動きの練習だとかやっていかなきゃいけないだろう。だから時間があれば飽きるまでやるって感じ」
「飽きるまで……」
それはとても果てしない時間のように思えた。
「やってれば楽しくて時間なんて忘れちまうもんだよ。それに、半分は遊び感覚だから楽しいし」
「遊び感覚」
「まあやってみなよ。ジェニーズに絞って練習するなら、ジェットスターが一番いいよ。ジェットスターはダンスパフォーマンスを売りにしてるから、練習には持って来いだよ。余裕ができたらジェニーズだけにこだわらないで、他のダンスグループとかのを見たり、踊ってみるのがいいよ。要は楽しんだもん勝ち!気楽に行こうぜ」
ニッと笑う智樹の爽やかな笑顔にだまされるが、智樹ほど真剣にダンスをする奴はいなかった。「気楽に」なんてどこから出た言葉だろうか。
「あと唯我は体すげえ固えから、まずは柔軟体操を毎日した方がいいぜ」
「オカマコーチにも言われた」
「大事なことだからだよ。続ければ結果は出るさ」
その時、「続き始めるわよん!」というオカマコーチの声があり、レッスン室の男たちは立ち上がった。
その夜、風呂上がりの足で職員室を覗いた。優里子と施設長、他の職員が少しいて、静かに机に向かっていた。ノックをすると優里子が出てきた。
「唯我、どうしたの?」
「頼みがあるんだ」
「何?」
「ジェニーズのDVD。ライブ映像のやつ。あれば借りたいんだけど」
「ああ、それなら心当たりがあるわ。呉羽(くれは)さん!」
すると職員室の奥から「はあい」と返事があった。呉羽と呼ばれた体格のいいおばさんは優里子の横まで歩いてきた。
「唯我がジェニーズのDVDを借りたいんですって。何かお貸しいただけませんか?」
「おやすいご用よ!何がいい?唯我君」
体格が全体的にぷにぷにしていて、頬がもちみたいに柔らかそうにくっついている呉羽おばさんは、ガキたちの間では「クレアおばさん」と呼ばれていた。とても気の優しい人だが、ジェニーズオタクであることを、俺はそれまで知らなかった。
「青春隊と、ジェットスター。他にもあれば」
「わかったわ。明日持ってくるから待っててね」
俺は頭を下げ、「ありがとうございます」と呟いた。クレアおばさんは「はあい」と優しく返事をし、俺の頭を撫でると職員室の奥へと帰って行った。
「なあに?唯我。夏休みだからって気合入れてるの?」
優里子がしゃがみ、俺と視線を合わせて笑った。いつもより近い距離に少しドキッとしたが、俺は平然を気取って「うん」と答えた。
「あら、素直ね」
「俺は夏休み中にはバク転ができるようになるって決めた。ダンスも頑張る。そうじゃなきゃ、レッスンにも追いつけない」
「へえ、珍しいわね。唯我がこんなに何かにやる気を見せてるなんて。どうしたの?可愛い女の子にでも見せるの?ふふふ」
可愛いは違うが、大沢とも約束しちまったし、あのブスの文子を驚かせたいし。
「そんなところ」
「えー!誰?ねえ、クラスの子?ねえ誰?」
優里子は目をキラキラさせて迫って来た。声も大きくて、いつもより威圧的だった。
「う、うるさいなあ!お前だよ!」
俺ははっとした。つい言ってしまった。しかし、優里子は「は?何が?」と首を傾げていた。それがとてもイラついた。
「お前がバク転はかっこいいって言ったんだろ!!」
「ん?私、そんなこと言ったっけ?」
「言ったわ!もういいよ。何でも」
優里子が覚えててくれていなかったことを、俺だけが覚えていたことが恥ずかしかった。顏がほてるので、優里子から顔をそらした。その場を走って逃げたくなったが、いつのまにか優里子の大きな手が俺の両手をがっちり掴んで離してくれなかった。
「それから、夏休み中は誰もいない時間に居間を使わせてほしいんだ。あそこなら大きな鏡もあるし、テレビあるし。ダンスのいい練習場所になるんだ」
「なるほど」
「ガキたちがいる間はダンスの練習にならねえし……。夜はできないのわかってる。チビが上で寝る時間に音は立てられねえ」
「だったら朝がいいんじゃないかしら。唯我は朝強いから少し早く起きても平気でしょ?」
「うん」
「したら毎朝5時には鍵を開けておくことにするわ。だから唯我の好きなように使ってよ」
「うん。サンキュ」
優里子はしばらく黙って、そっぽをみる俺をじっと見つめていた。俺はまだ顏がほてっていたので振り向けなかったが、大きな綺麗な目で見つめているであろう顏を見たい気持ちが抑え切れず、ついチラッと優里子を見てしまった。目が合うと、優里子は優し気に微笑んだ。
「私、すぐ不安になるからうるさい時もあるだろうけど……。何だかんだで、唯我の踊るステージ、早く見てみたいな」
「……俺の?」
「うん。バク転もダンスも頑張って。私、あんたのこと一番応援してるんだから!」
優里子がニコッと笑う顔を見ると、それまでになくやる気が出た。やってやる。俺は、優里子のために頑張るんだ!
****
夏休みに入ると、手元にたくさんのジェニーズDVDが届いた。ガキたちもジェニーズのDVDは喜んだ。
DVDの中には秋川千鶴がいた青春隊をはじめ、Aファイブや他のいろいろなグループのDVDがあった。その中に「JET☆STAR」と英語で書かれたDVDを見つけた。表紙に写るジェニーズ8人は文句のつけようがないイケメン揃いだった。キラキラしたオーラが放たれているのを感じ、思わず目を細めた。
泰一からは「Aファイブ見たい!」と文句を言われたが、強引にジェットスターのDVDを入れ、いざ再生すると、全員で見入ってしまった。
秋川千鶴のいた青春隊とはまた違うキラキラしたステージがあった。何より、このグループの動きの全てがすごい。ダンスもそうだが、軽やかなバク転やバク宙に感動した。
「ほら唯我。バク転バク宙はジェニーズには必須だよ。ま、あんたにはできないわねえ」
「文子、俺は夏休みの目標として、バク転ができるようになると決めたんだ。悪いが、今の俺は1か月後にはいないぜ」
「はあ?生意気な唯我」
いちいち可愛い気のない女。見てろよ文子。今にその顔、ブスな驚き顏にしてやるぜ!
次の朝、居間には既に冷房がかかっていた。窓のカーテンを開くと朝日が差し込んだ。灯りをつけなくても十分明るい。次に壁にかかるカーテンを引き、鏡を全開にした。
俺は早速クレアおばさんに貸してもらったDVDを取り出し、カセットに入れ再生した。
映像に青春隊の3人が映る。キラキラ光る紙吹雪の映像には見覚えがあった。
『準備はいいかー?』
『ついて来いよお前ら!!』
聞き覚えのあるセリフが聞こえた。それは初めてレッスンを受けた時に見た映像だった。DVDのケースを見ると、そこには「1、疾風」と書かれていた。
「あ、これが”疾風”か」
それは智樹がウォーミングアップに踊ると言っていた曲だった。まずはこれを覚えて踊れるようになるんだ。まずは1曲。そうしてどんどん曲数を増やしていこう。
画面いっぱいにスーパーイケメン秋川千鶴の若い顔が映った。テレビいっぱいに映る秋川千鶴は、その大きな目で俺をぐっと見つめた。
「やれるもんならやってみろ」
頭の中に、秋川千鶴と別れた時、最後に聞いた言葉を思い出した。
やってやる。なんならライブの舞台で踊れるくらいダンスできるようになってやる!
こうして俺の夏休みが始まった。毎朝5時半に起き、居間を開け、DVDでダンス練習。少し疲れたところで倒立とバク転をするためにブリッジの練習、柔軟体操をした。
事務所のダンスレッスンには、参加できるレッスンには必ず行った。そこに必ずいる智樹にバク転ができるか聞いたらその場でやってくれた。俺の頭の中には頬を赤くして「カッコイイ」と熱い眼差しを向ける優里子の顔が浮かんだ。少し腹が立ったが、智樹なら100歩譲って許そうと気持ちを落ち着かせた。
すると、レッスン室でバク転をするのは禁止だったらしく、オカマコーチがプンスカしながら智樹を怒った。俺も一緒に誤ると、オカマコーチは怒りながらもバク転の練習の仕方を教えてくれた。
****
夏休みの最後の日、ダンスのレッスンを終えた後、智樹を呼び止め、オカマコーチを呼び止め許可をもらい、一度だけ飛んでみた。
「いやん!唯我ちゅわん!」
「唯我、お前いつのまに?」
二人が茫然と立っている。夏休み前の倒立のように、自分の想像する形と違ったのだろうか。言葉も出ないほどひどかったのか。
「……どうだった?」
「すげえよ唯我!超イイよ!!」
「美しいバク転だったわん!カッコイイじゃないのん。唯我ちゅわん!!」
智樹は驚いた顔で、オカマコーチはキラキラした大きな目で俺の顔面に近づいて来た。これは大成功だ。
俺は優里子の「カッコイイ」と言う笑顔の優里子を想像した。頬がぽわんと温かくなった。
「頑張ったわね、唯我ちゅわん。ちょっと、Jr担当に私からも言ってみようかしらねん」
ふんふんと鼻歌交じりでオカマコーチが言った。
「何を?」
「あなたの初ぶ・た・い♡うふん」
オカマコーチが真っ黒なまつ毛をパチンと閉じるのがとても変な顔だった。しかし、それよりもオカマコーチの言葉は衝撃だった。
「俺の……、は、初舞台!?」
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