第3話 決意!ジェニーズJr 小山内唯我
俺の頭の中には施設での思い出が浮かんだ。騒がしい朝食、温かい日差しが照らす小さな広場、誰かの歌声が響く風呂場、たくさんの寝息の聞こえる夜。それが全て、無くなるということか。
「施設が、無くなる……」
学校で想像したことを振り返った。俺がジェニーズになるなんて考えられない。だけど、俺がジェニーズにならないと施設が無くなるかもしれない。俺の返事だけで、ガキたちの居場所が無くなるかもしれない。施設長ともガギどもともお別れしなきゃならない。優里子とも。嫌だ。嫌だ。だけど……!
すると、施設長がゆっくりと話し始めた。
「私はこの施設の代表です。そして、この施設の子どもたち皆が、私の息子であり、娘も同然なのです。その中でも、唯我は生まれて間もない頃からずっと育ててきた子です。唯我からすれば、こんな思いは邪魔なものかもしれないが、特別なのです。唯我は、私たち施設の大事な子どもなのです。それを、この話はまるで施設のために唯我を事務所に”売れ”と言われているようだ。さすがに今回のお話だけは、とても受け入れがたいのです」
施設長の手に力が余計に入って少し震えている。とても優しい施設長からは、いつもとは違う攻撃的な雰囲気を感じた。俺はそんな施設長を見るのは初めてで、話の重さというものをようやく実感した。
何より、施設長の言った「売る」という言葉はさすがにショックだった。俺は施設のために売られるのかもしれない。そう思ったら、少しだけ不安になった。
すると、頭にポンと秋山千鶴の手が落ちてきた。見ると、とても優しそうに微笑んでいた。
「また来ます。まだしばらく時間が必要なようだし。お返事をお伺いできる時は、いつでも事務所までご連絡ください。失礼いたします」
秋山千鶴は立ち上がり、応接室の扉の前まで行くと振り返り、「また会おうぜ、唯我」とウインクをした。扉が開くと、外から優里子や他の女職員たちの「キャー」という叫びが聞こえた。カツンカツンという足音がリズムよく響き、消えていく。
応接室には、俺と施設長の二人きりになった。突然静かになった部屋は、とても広く見えた。それは俺の不安をふくらませた。
「そんな簡単な問題じゃないの!」
優理子の言葉が頭の中で聞こえた。俺はようやく理解した。優理子や駿兄が俺に言おうとしていたこと。俺は本当に「孤独の子」になっちまう。
しかし納得できなかった。とても大事な話だからこそ、どうして早く話してくれなかったのだろうか。話してくれれば力になれるかもしれないのに。話してくれれば、この施設のこれからのことを皆で考えることができたかもしれないのに。施設長、駿兄、優理子。
「どうして、何も話してくれなかったんだよ……」
「唯我、突然の話でごめんよ。君には、小さい頃から大人の都合ばかりを押し付けている。本当にごめんよ」
施設長は申し訳なさそうに言った。その態度が俺をイライラさせた。
「そんな言葉、いらねえよ」
「唯我」
施設長が俺に手を伸ばしてきた。施設長の手は誰より優しい手だと知っている。だから触ってほしくなかった。俺は施設長の手を乱暴に振り払った。
「何で何も言ってくれなかったんだよ!俺がガキだからか?俺が理解できないと思ったからか?」
「違う。落ち着て聞きなさい、唯我」
「俺が!……孤独の子だからか?だから一人で勝手な返事はさせられねえってか。施設長には、この施設のガキどもを面倒見る責任があるもんな。勝手は許せねえもんな。なあ!」
その時、施設長の手が俺の頬に飛んできた。あまりに強くて俺はそのまま床に倒れた。横にあった椅子もガタンと音をたて俺と一緒に床に転がった。その音を聞いて、優理子が部屋に入ってきた。優理子は「唯我!」と俺の体を抱き上げた。
「お父さん、手を出すのはあんまりだわ」
「聞きなさい、唯我」
「うるせえ……」
「聞きなさい」
「聞かねえ」
「聞きなさい」
「聞かねえよ!」
優理子のことなんて忘れて、俺は乱暴に優理子を突き放して立ち上がった。
「聞いたところで答えは一緒だ!なってやるよ、ジェニーズに。それで全部解決だろう!」
「違うわ。唯我、話を聞いて。もっと考えて!」
「一人で正解も考えられないバカで悪かったなあ!ジェニーズになるよ。それでいいんだろ!?」
「ちょっと唯我。唯我!」
俺は頭に血が上っていた。もう何も考えられなかった。施設長の顔も、優理子の顔も見ずに俺は足音をわざとらしく立てて、扉を乱暴に閉めた。
残された施設長はしばらく部屋をうろうろして、椅子に腰を下ろしても貧乏揺すりが止まらなかった。床から体を起こした優理子は、施設長の様子を伺い、そして部屋の扉を見つめた。
「唯我……」
****
俺のわざとらしい足音を聞きつけ、駿兄が追ってきた。
「おい、唯我。止まれ。止まれ!」
俺は無視した。寝室には、もう眠っている頃の充瑠と面倒をみる佳代がいる。そこに入ってしまえば駿兄は手出しできない。俺は足を早めたが、駿兄の長い腕が伸びてきて、高い肩まで抱き上げられた。俺は手足をバタバタと動かして抵抗した。
「離せよ駿兄!」
「ダメだ。来い」
「嫌だ。嫌だー!」
駿兄は自分の部屋に俺を強引に連れてくると、ベッドの上に落とした。落ちたわりに何にも痛くなかった。それくらいベットは柔らかかった。腹ばいになって、ベットに張り付いてしまったみたいに手足を伸ばした。絶対顔なんて上げるもんか!
駿兄は部屋の小さな冷蔵庫から少しの氷を取りだし、タオルに包んで俺の真っ赤な頬に当ててくれた。ヒヤッとした時、それまで忘れていた頬の痛みを思い出した。ツンとして、冷たさが少し染みる。なのにじんじんとする内側が熱くてたまらない。
「痛かったろ。ああ見えて、施設長は桃太郎みたいに力持ちなんだぜ」
「桃太郎って、何だよ。訳わかんねえ」
振り払ってしまった優しい手を思い出す。そして力強くて大きな手のひらが飛んでくる中で、一瞬見えた施設長のとても悲しそうな、苦しそうな顔を思い出した。すると目からポロポロと涙がこぼれた。
施設のルールで、中学生になると一人部屋が与えられる。その部屋は、施設を卒業する高校3年生までずっと使い続けることができる。俺を含めて、施設のガキたちは中学生になるのが楽しみでしょうがないのだ。
駿兄の部屋のベッドはふかふかで、それまで沸騰しそうなほど熱くなっていた頭から、ゆっくり血が引いていく。すると、俺はとても嫌な気持ちになった。施設長にも優里子にも、何てひどい態度をとってしまったのだろう。鼻がツンとして涙が目に浮かんだ。
「施設が閉設されるのは、お前のせいじゃないよ。もともと、とても少ないお金で何とかやっていたみたいなんだ。施設長は一生懸命、市とか役所とか、いろいろな偉いところに支援の申し入れをしたみたいなんだけど、いい返答はしてもらえなかったんだって」
「でも、俺がジェニーズになるって言えば、支援を受けられるんだろう?施設を無くさなくて良くなるんだろう?」
駿兄は横になる俺の頭を撫でた。とても大きくて、とても温かい。
「簡単な話に思えるか?」
答えられなかった。「そうだと思う」と言うことが正解なのかがわからなかった。駿兄はそのまま話をゆっくりと続けた。
「施設長も優里姉も俺も、お前に”話を聞け”って言ったろう?それはな、お前が本当にジェニーズになりてえのかってことを考えてほしかったからだよ」
「俺が、本当に?」
「そうだ。施設のことは関係無しに、お前の一番したいこと、夢なのかって」
「夢……」
「唯我、将来の夢ってあるか?」
それまで考えたことがなかった。将来のことを考えることさえ思いつかなかったくらいだ。だけど考えてみた。俺が将来やりたいこと。やりたいこと……。
「バカとアホに、仕返しがしたい。それくらい」
「バカと、アホ?」
「クラスメイト。すっげえバカとアホに、毎日毎日ケンカを売られるんだ。だからいつか、あいつらの喉をカッターで切り裂いてやるんだ」
まじめに答えたつもりだった。だが駿兄は「プハッ!」と吹いて笑った。
「何だそれ、唯我!あはははは」
「わ、笑うな!考えてるところなんだよ!仕返しの仕方を!今日、秋川千鶴に言われた。ジェニーズになれば、そんなことよりももっとすごい仕返しになるって」
「そうか!まあ、暴力的な仕返しよりは平和な方法だ」
「駿兄にはあんのかよ。夢」
あははと笑っていた息をゆっくり落ち着かせてから、拳をぎゅっと握って言った。
「俺は、早く大人になって金を稼ぐ!」
「……はあ?」
「そして、この施設を金銭的に支えるんだ!」
両手を開いて見せる駿兄はニッと笑っていた。
「駿兄、前は大学に行くって言ってなかった?」
「ああ、前まではな」
駿兄は後ろの大きな本棚に視線を向けた。そこには赤い背表紙に難しい漢字が縦に並んでいるぶ厚い真っ赤な本が並んでいた。駿兄は振り返り、ニコッと笑った。
「だけど、俺が高校を卒業して、この施設も卒業した後、施設が閉設になったなんて聞いたらすげえ寂しいじゃん。皆のことも心配でたまらいし、きっと後悔する。何ですぐ働かなかった。何で施設を助けてやれなかったって。だから、高校を卒業したらすぐ働くんだ」
「それが夢?」
「俺の夢は、施設を支える一人の大人になることだ。一生かけてやりたいって思ってる」
「一生かけて」という言葉が胸に残った。駿兄には、「一生かけて」と言い切れるほどやりたいことがあるんだ。俺の「一生かけて」やりたいことって何だろう。
****
「やあ、唯我」
その日も秋川千鶴が放課後の通学路に立っていた。秋山千鶴がサングラスを上げウインクするのを見ると、優里子が顔を真っ赤にして照れている姿を思い出し、とてもイラっとした。
「あんた、暇なの?スーパーアイドルなんだろう?」
「そうだね。超がつくほどご多忙だよ。それでも来るということは、我々ジェニーズが唯我をとても必要としているということだよ。わかる?」
「わかりたくない」
あの夜から1週間も秋川千鶴と通学路で話をしている。だんだんと気持ちがゆるんできている気がした。秋川千鶴は首をかしげ、とても軽い声で言った。
「小4のくせに、何に悩んでるの?言ってみなさい」
心臓がビクンと音を立てた。何故わかる!?
「ほら、眉間にしわをよせちゃダメ」
笑顔でぐりぐりと人の眉間を押してくる。これがとにかく痛くてたまらないので、つい秋川千鶴の手を払った。
「俺は、一生かけてやりたいことを考えなきゃ、ジェニーズをやるかどうか返事ができないんだ」
「は?なんだそりゃあ」
「ジェニーズになることが一番いいって思う。だけど、俺自身が本当にジェニーズになりたいのか、わからないんだ……」
秋川千鶴は俺の前にしゃがみ込み、長いまつ毛の下から俺をまっすぐ見た。
「一生かけてやりたいことねえ。もっとシンプルに考えろよ」
シンプルに考える。それが今の俺には難しい。俺のことを下から見つめる秋川千鶴の顔をよく見た。見れば見るほど、肌も髪も女みたいにキレイで、なのに首や肩には優里子にはない筋肉の筋が見えるし、目には男らしい強い力が感じられる。
「どうしてあんたはジェニーズをやってるんだ?儲かるから?女からモテるから?」
すると、秋川千鶴は立ち上がり、両手を広げ、空に向かって言った。
「どちらもステキで、僕はそれを大事にしたいと思ってる!」
空の彼方にまで通りそうな明るい声で言う秋川千鶴は、スポットライトを浴びて一人舞台に立っているようだった。俺には無駄にキラキラとして見えた。秋川千鶴は俺に笑顔を向け、話を続けた。
「けれど、それ以上に魅力的なすごいものを手に入れられる」
「何?」
「躍動する力!心臓がバクバク動いて、体の中の熱が動き回る。すげえ気持ちいの。あはは!わかんねえって顔してるなあ、唯我。そうだな。何て言えばいいかな……。生きているってすばらしいなと全身で感じられることがすばらしい、みたいな」
「何だそりゃ」
「一度それを感じてしまったら、もう戻れない。それが快感になればなおさらだ。そういうものを、やりがいと言うのだよ。あの少年たちのやりがいは、唯我をいじめることなんだろう」
「あの少年たち」とは、バカとアホのことだ。この一週間、秋川千鶴が一緒に通学路を歩くので、バカとアホは俺にちょっかいを出せないまま、遠くからついて来ることしかできなかった。
秋川千鶴は後ろに振り返り、バカとアホがギクッとして電柱に隠れる姿を見て、ふっと鼻で笑った。
「それがどれだけ格好悪いことで、どれだけ人を不幸にすることか、少年たちは早く気づくべきだ。唯我、俺はね、誰かを幸せにできる場所を作りたいんだ。それができるのが、ジェニーズなんだ」
「幸せにできる、場所……」
俺は知らなかった。「場所」って作れるんだ。
「お前の大事な場所はどこだ?唯我」
秋川千鶴にそう言われ、最初に思い浮かべたのは施設の居間だった。皆が集まって、それぞれ好きなように過ごしてる。ガキたちの声で騒がしいのに、とても落ち着けて、とてもあたたかい。そこは俺にとって、とても大事な「場所」だ。
「俺は、施設が無くなるのは絶対嫌だ。俺に守れるなら、守りたい」
俺にとって施設は家で、うるせえガキたちは家族なんだ。施設長も、優里子もそうだ。俺はガキたちといられる「場所」を守りたい。駿兄みたいに、施設に恩返しできるような大人になりたい。大人になっても、優里子と一緒にいたい。
自分の中でもやもやしていたものが、ぎゅっと固まったような気がした。俺が一番したいことは、ずっと皆といられる「場所」を守ることなんだ。
「ジェニーズは、そのための力をくれるのか?」
「もちろんだとも」
俺は顔を上げ、歩き始めた。秋川千鶴は少ししてから俺の後ろをついて来た。
「秋川千鶴、俺は、ジェニーズになりたい!」
****
施設に帰ると、秋川千鶴と一緒に応接室に案内され、そこに施設長と優里子がやって来た。施設長は握る手に力が入り、優里子は相変わらず不安げな顔をしている。真剣な雰囲気が応接室の中の空気を縛り上げていた。俺は背筋をピンと伸ばして、大人たちのピリピリとしたプレッシャーに負けまいと胸を張った。
「施設長、優里子。俺は、ジェニーズになるよ」
「唯我、それがどういう意味かちゃんとわかって言ってるの?」
優里子は驚いた顔をして前のめりになった。真剣な顔つきの施設長は俺をまっすぐ見て言った。
「唯我、話しただろう。唯我がジェニーズになるということは」
「何度も聞いた。何度も考えた。だけど、俺のやりたいことのために、ジェニーズになるって決めた」
「やりたいことって何?」
優里子の心配そうな顔を見ると、俺は少しだけ不安になった。だけど、この決断を俺は決して曲げないと決めた。
「俺、この施設が一番大事だ。皆といられるこの場所が無くなっちまうのは嫌なんだ。だから、俺は守りたいって思った。施設長だって、ここを守りたいから、金が無くても何とかして頑張ってきたんだろう?」
「唯我……」
「施設長が、俺にこの話しなかった理由が何となくわかった。優里子が、俺に簡単じゃないって言った気持ちもわかった。それは、施設長や優里子、駿兄が、俺が一番したいことを叶えてほしいと思ってくれていたからだ。施設長、優里子。俺は、俺の全部かけてもこの施設を守りたい。ガキたちを守りたい。それが一番やりたいことだ!それを叶える力になってくれるっていうなら、俺は、ジェニーズになりたい!」
施設長は肩がダランとしていて、ぼうっとしている。前のめりになっていた優里子は唖然としていた。二人の様子を見ると、悪いことをしたような気持ちになったが、隣に座る秋川千鶴は俺の頭を撫でまくった。
「すげえ奴だよ、お前」
ようやく手を離すと、俺の長い髪の毛が静電気で立ち上がった。
「施設長、優里子さん。ジェニーズは、希望と夢を与える人間たちのことです。唯我君の強さの根源は、幼少期から暮らし続けるこの施設の家族たちへの愛情です。その強さは、これから先一生変わらない」
秋川千鶴は姿勢を戻し、施設長をまっすぐ見つめた。
「確かに、人によってはこのような一方的なお話を、施設長のように”我が子を売る”ように感じられる方もいらっしゃることでしょう。ですが、我々は唯我君にはジェニーズの精神を受け継ぎ、その灯をさらに輝かせるような、スターになる素質があると思えるのです。唯我君の金色のつぼみを、我々に育てさせていただきたい。いづれ、唯我君の開かせた大輪は、大勢の人の希望に、夢になりえるのです!唯我君を我々に受け入れさせていただけるのであれば、この秋川千鶴の名に懸けて、唯我君を立派なスターに育てて見せます!」
施設長の苦々しい表情とは反対に、秋川千鶴の表情はとても輝いていた。夢とか希望とか、そういう眩しいものが溢れて見えてくるようだった。
自分の意見を否定している相手に向かって、自分の気持ちを堂々と言う姿はまっすぐで、その言葉の一つ一つに未来が見えるような気にさせる。それはとても勇気がいることだ。誰かにそうやって力を与えることができる人間が、この世にはいるんだと思った。
****
その夜は、秋川千鶴を囲って施設の皆で夕飯を食べた。泰一も文子もテンションが高くて食事がボロボロとテーブルや床に落ちては優里子に怒られた。怒鳴り声にビックリした充瑠がギャアギャア泣き出し、佳代が抱っこしてあやして、隣で優里子が謝っていると、今度は笑い声が上がった。夕飯がいつもより美味しく感じられた。楽しかった。
秋川千鶴は施設の皆と記念写真を撮ると、すぐに黒い車に乗ってしまった。俺と優里子は施設の前で秋川千鶴を見送った。
「唯我、次会えるのを楽しみにしてるよ」
「次は、いつ会えるんだ?」
「俺はスーパーアイドルだから多忙なんだ。いつかわからない。けれど、唯我が同じジェニーズにいるって言うなら、また会えるよ」
「そうか。俺、あんたのことすごいと思った」
「え?」
「生まれて初めて、誰かをすごいと思った。俺もあんたみたいになれるかな?秋川千鶴」
「ははは。俺みたいに?」
すると車の窓から乗り出した秋川千鶴は、ニコニコ顏を崩さず俺の胸倉を掴んで引き寄せた。顏がものすごく近くて驚いた。秋川千鶴は小さい声で言った。
「なれるもんなら、なってみせろ」
目の前に迫る秋川千鶴は、まるで俺を試すような表情だった。トンと突き放されると、ニコニコ顏に戻っていた。俺は少し秋川千鶴が恐ろしくなった。
「では、またいづれお会いできる日を楽しみにしております。優里子さん」
「は、はい!」
最後に投げキッスすると、優里子は全身ゆでだこみたいに真っ赤にして、頭から煙を上げた。俺は少しイラっとして、優里子を睨んだし、秋川千鶴を睨んだ。車の窓が完全に閉まる寸前、秋川千鶴は俺にウィンクした。最後の最後まで、こいつはイケメンだと思った。これがアイドルなんだと思った。
黒い車は、夜の道を静かに走って消えていった。秋川千鶴は車の中ですぐにケータイ電話を取り出すと、事務所社長のジェニー荒木田に電話をかけた。
「社長、秋川です。立並児童養護施設を出たところです。先方より、というよりも小山内唯我本人から、よろしくと返答をもらいました。彼には素質があります。きっと素敵なアイドルになります」
『オーケー。全国ツアー前日にすまなかったね。全ては君のおかげだ。ありがとう』
「全国ツアーが終わったら、2日だけお休み下さい。そろそろ大型連休がほしい」
『2日が大型連休なのかい?』
「それ以上は暇で死んじゃいます。スーパーアイドルは多忙で結構なんですから」
電話を切ると、秋川千鶴は満足そうに微笑んで、外の光を目で追った。
****
それから一週間もたたずして、俺は学校の放課後にジェニーズ事務所に向かった。初めてのことだったので、優里子が保護者としてついて来た。事務所の待合室でスーパー美人な眼鏡のキャリアウーマンと対面した。
「それでは、唯我君はこれからレッスンが始まるから、動ける服に着替えて3階の第1スタジオに行って下さい。そこで16時からジェニーズJrの子どもたちのレッスンを一緒に受けてもらいます。早く行って。一人で!」
「は?はい!」
俺は急いで着替えて3階のレッスン室に向かった。緊張した。一般の会社に入るのも初めてだし、レッスンというものを受けるのも初めてだった。心臓の音が頭にまで響いてくる。俺はゆっくりと第1スタジオと書かれた扉を開けた。
スタジオの中は壁が全て鏡張りで、同い年くらいのガキから高校生くらいの大きな人までが、各々準備体操等して過ごしていた。スタジオに入った俺に鋭い視線が向けられる。正直に言うと、俺はものすごくビビったのだった。
「もしかして新人?」
扉のすぐ隣に腰かけていた人が声をかけてきた。俺は頭を振るだけで精一杯だった。その人が手で示した方を見ると、一人だけ完全に大人の男の人が立って腕を伸ばしていた。
「まずはコーチにご挨拶。次に年長者から挨拶して回ってこい。元気にだぞ。あと5分で始まるかんな」
俺は「はい」としか言えず、即行コーチに挨拶をしに行った。人にちゃんとした挨拶なんて初めてした。それから急いで年長者の人から順に挨拶をして回った。時間はすぐに経ち、全員が起立してレッスンが始まった。
「新人、挨拶!」
全員の前まで走り、背筋を伸ばした。
「小山内唯我です。小学4年生です。よろしくお願いします!」
スタジオには「お願いします!」という男たちの大きな声が響いた。最初に声をかけてくれた人と目を合わせると、その人は俺にウィンクした。髪は短髪で、目も大きくて首筋がすっと伸びたイケメンだった。
挨拶を終え、すぐにその人の横までダッシュした。とにかく早く落ち着きたかった。
「俺、
「よろしく」
ニコッと爽やかに笑った智樹はとにかくイケメンで、いかにも人気のありそうなジェニーズJrだった。
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