第28話

「私たちはどうしたって掃除をするトルストイなんだよ、櫻井くん」

「気でも狂いましたか」

「あんな宗教団体に入ってる時点で、とっくにおかしな人の一員さ」

 ですよねー。

 僕と中津川はちゃぶ台を間に挟んで向かい合っている。加藤とガストで話をした時のことをうっすらと思い出した。丸山と車中で話をした時は、丸山が運転席、僕が左後部座席、加藤が右後部座席という形だったので、それほど真正面から向かい合ってという感じはしなかった。やはり相手の顔を見つめながら話し合うというのは、相手にペースを握られてしまうと、あっという間にその勢いに飲み込まれてしまう。

 おまけに、中津川は加藤以上に何を考えているのかが分からなかった。裏に何の企みも感じさせないことが逆に思考を乱す。加藤は僕自身について色々な質問をするだけで自身のことについては一切を語らなかったが、中津川は自身のしょうもないあれやこれやを語るだけで、僕についてはあまり質問をしてこなかった。まるで、僕に関しておおよそのことは既に把握していると言わんばかりに。

 決して、かつて加藤が僕を評したとおりに僕が女性と話すのが苦手というわけでは、ない。ないはず。絶対ない。

「ある日トルストイは、掃除の最中に長椅子の埃を払ったかどうかを思い出せなくなった。そして、無意識のうちにした行動は、何もしなかったことに等しいと、無意識のうちに過ごした生活は、全て存在しなかったのと同じであるという事実に気づいた……って日記に遺している」

「……じゃあ、僕たちが掃除をするトルストイだっていうのは」

「どんなに東京がすごかろうと、いずれは飽きるし、興味も失せる。私だってもう通勤するたびにスカイツリーや江戸東京博物館を見て興奮なんかしないし、もっと言えば最近はそもそも見てすらいない。そうして、スカイツリーも江戸東京博物館も無意識の世界に押し込められて、ついには東京での毎日自体が無意識の世界に埋没しちゃう……老人が時間の経つのを早く感じる理由って、絶対代わり映えのしない日々を送っているからだよね」

 中津川は片肘をちゃぶ台に乗せて、そしてその上に顎を乗せた。どこを見るでもなさそうなその目は、どこか憂いを帯びているようで、僕はここに来て初めて彼女のそんな表情を目撃した。

「それってさ、人生を無駄にしてるってことだよね。無意識のうちに過ごした生活は、毎日は、人生は、全て存在しないっていうのと同じなんだから。ひどくない?」

「……ええ」

 つまりは、こういうことだろうか。新小岩の投身自殺が起こった現場にどうしてああも多くの人が惹かれたのか、僕がどうして加藤の勧誘を断らなかったのか、どうして木曜日の二十時に市ヶ谷駅まで足を運んでしまったのか……どれもこれも非日常を味わいたいという好奇心によるものであることは分かっていたが、その好奇心を形作る基になったものとは、素になったものこそが、生活を生活たらしめ、毎日を毎日たらしめ、人生を人生たらしめたいという欲求によるものだったということか。人生を無駄なものではなく有意義なものとするために、人生を決して空虚なものにはしまいという根源的な欲求のために、僕たちは好奇心を発生させていたというのか。

 そうだとするならば、それは……それはなんて、納得のいく考えだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る