第23話

 市ヶ谷駅は中央線を構成する駅の一つだ。東京に来たばかりの頃はどっちが中央線でどっちが総武線なのか覚えるのに苦労したものだが、何のことはない、東京駅に向かうのでなければ、どこで乗ろうとどこで降りようと、中央総武緩行線に乗ればいいだけの話なのである。

 そんなわけで、中央総武緩行線だ。僕とパンツスーツ姿の彼女は津田沼行きの電車に揺られていた。

「……あの、名前まだ存じ上げていないんですけど」

「人にものを尋ねる時はまず自分からじゃないの? 私もまだ君の名前知らないんだけど」

 よくよく考えてみれば、確かに彼女は僕をつけてきただけなのであって、それ以外のことは全くの無知に等しいのだった。あくまで彼女の言葉を信じればの話だが。

「櫻井崇人です」

「中津川綾音。なんだ、ほとんど同じじゃん」

「嘘は真実の中に紛れさせた方がバレにくいですから」

 強がってしまった。どうにも彼女――中津川に会話のペースを握られてしまう。加藤や丸山に感じたそれとは違う、ある種異様な雰囲気を中津川は纏っていた。

 電車は帰宅ラッシュ真っただ中で、到底座ることは適わなかった。二人して吊革につかまる。

「……」

 で、果たして先ほどの中津川の発言は信用に足るものなのか。このままときわ台とは別の教会に連れ込まれる可能性がないとは言い切れない。というより、まずその可能性を疑ってかかるべきなのであって、決して言われるがままにこうして電車に乗るべきではないのだろう。だというのにのこのこと中津川についてきてしまったのは、若さゆえの過ちということで、ここは一つ勘弁してもらいたい。

 と、不意に中津川が口を開いた。

「小六の頃にさ、校外学習で初めて東京に来たんだ」

 ほらアレ、と中津川は電車の外、窓の向こう側の景色を指さす。夜なので暗闇以外に見えるものなどほとんどないのだが。

「江戸東京博物館。赤いエスカレーター、うっすらと見えない?」

「言われてみれば……」

 両国駅からすぐ近くの所にある、名前の通りの博物館である。僕も存在くらいは耳にしたことがあった。

「なんかもうすんごくてさ、バスが走る首都高は広いし、周りの建物は高いし、めっちゃ人いるし……あの赤いエスカレーターなんて、マジで永遠に続いてるんじゃないかってくらい長かった。そのエスカレーターの入り口近くには薄汚いおっさんがいてね、ギター引いてたの。ギターだよ? 路上ライブだよ? 群馬じゃ考えられないよね。私も友だちもどうしたらいいかなんて分からなくて、おやつ用に持ってきたサッカーボールを模したチョコと、使い古した短い鉛筆と小さな消しゴムを置いて逃げるようにして帰ったんだけど……帰りのバスでその友だちと興奮しながら語り合ったもんだよ、大人になったら絶対東京に住もうね! ってね。楽しかったなあ……」

「はあ」

 窓の向こうを焦点の合わない目で中津川は見つめていた。過去に思いを馳せているのだろうが、偶然その場に居合わせたほかの乗客たちにとって、その姿はかなり奇怪なものに映ったことだろう。無論僕も例外ではない。

「櫻井くんも思わなかった? 初めて東京に来た時、まるで別世界に迷い込んでしまったかのような、そんな、何ていうか、新鮮な気持ち」

 江戸東京博物館は既に電車からは見えなくなってしまっていた。錦糸町駅に止まる。

「そりゃあ、まあ思いましたよ。飲食店に入っても券売機しか見ませんし、それに」

「コンビニのレジに列が出来るんだもんねー。なんか床には『ここでお待ちください』とか書いてあるし」

 錦糸町駅を出る。まだ中津川からどこの駅で降りるのか教えてもらっていないのだが、まさか津田沼までは行くまい。そもそもたかが電車賃とはいえ、そこまでお金を使いたくはないのだが。

 そこで、唐突に、

「でもさあ……」

慣性の法則によって体勢を崩されながら、中津川はもったいぶるようにして口を開いた。

「東京、飽きない?」

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