第35話 バタフライエフェクトって、数式を図形化すると蝶の形なんだって

 局所的なバカ娘台風が去った後、わたしの手元には相応のお見舞金が残った。病院に勤めていた時にもらった初任給くらいは入っていた。


 欲しくはない。お金は欲しいがこういうのは欲しくない。しかし棗(なつめ)とかいうあのメスザルの両親が、わたしがお見舞いを受け取ることで精神の安定が計れるというのなら、仕方がない。

 これで壊れたベッドでも買おうと思い、お昼休みに伊織ちゃんへ連絡を入れた。

 



 サロンの仕事を終えて家路についた。マンションが見えてきたところでわたしの足は止まり、目を覆った。

 マンションの敷地には林の入り口のような木に囲まれた小道がある。細い白樺のような木でなかなか涼しげで避暑地についたような気持ちにさせてくれる。


 その小道の入り口に異形の者がいた。


 淡いブロンドのストレートロングのウィッグにとめられた小さな帽子から降りた白いベールで顔を隠し、袖口が大きく開いた立襟のレースブラウスに淡いピンクのベル型チュチュのような膝上二〇センチくらいのジャンパースカートを着て、ピンクのストッキングに包まれた細いあしはヒールのついたロングブーツに包まれている。

 そしてそのものは真っ黒な地にピンクの花柄が散りばめられた日傘をさし、両足を約90度の角度で開いたポジションで姿勢よく立っていた。


 異形の者というと絶対に怒られるし、そもそも顔を隠さなくてもすごくかわいいのだけどなぁ。

 やっぱり空間に対する違和感がすごいよなぁ。

 深夜にここに立たれていたら、絶対に絶叫する自信がある。


 気持ちを立て直して、歩みを進めると彼の前に小さな人影がいることに気がついた。

 姿勢よく立っている伊織ちゃんを見上げている人影はうちの向かいの部屋に住む女子小学生のえっちゃんだ。


 「うぁ〜 」

 「あら。」


 伊織ちゃんがわたしに気がついた。


 「まさか家の前で待たれるとは思わなかった。」

 「ちょっと中途半端な時間が空いたのよね。」

 「ねえねえ、お姉さんの友達なの?」

 「……そうね。」

 「どうして間が空いたのかしら?」

 「別に。」

 「お姉さんもキレイだけど、伊織ちゃんもキレイだよね。」


 キラキラとした瞳で伊織ちゃんを見上げるえっちゃんもなかなかな美少女だ。

 お父さんがロシアのお仕事をして、お母さんがベラルーシ出身の人らしい。一度お会いしたがきつめの美人で、えっちゃんのことをエリーチカと呼んでいた。どっかで聞いたと思ったら、向こうではありふれた愛称らしい。


 「そ、そうね。……ねぇ、もう名前で呼ばせているの? 」

 「だってお姉さんじゃないもの。」

 「ねえねえ、お姉さんもこういうお洋服着るの? 」

 「わたしは着ないね。えっちゃんは元気だし、人と仲良くなるのが得意だね。」

 「うん! 」

 「でもいくらキレイだからって、知らない人と話し込んじゃダメだよ。赤ずきんっていうお話を知ってる? 中にはおっかない人もいるからね。」

 「でもあれは狼じゃん、伊織ちゃんが赤ずきんじゃない? 」

 「あら、ありがと。でもね。知ってる? 最近の赤ずきんってね、怖いのよ。」

 「えぇ? 」

 「こんな風に、ね!! 」


 急に大声をあげた伊織ちゃんは両指を曲げた、がぉーのポーズで、ベールからのぞく口が裂けたかのように大きく開いて、えっちゃんに覆いかぶさった。 


 「ギャーッ!! 」


 えっちゃんは走って逃げ出した。


 「あははははは!」


 大笑いしている伊織ちゃんの背中を叩いて、わたしは中に入るように促した。

 エントランスのロビーではまつりちゃんの後ろに隠れたえっちゃんがこちらを伺っていた。

 心配そうな表情のまつりちゃんになんでもないよと手を振って、伊織ちゃんにさっさと行くように手を引っ張った。

 家に入り、リビングのソファに伊織ちゃんを座らせて、わたしは棗という小娘の話を彼にしていた。


 「とんでもないクソガキね。」

 「お母さんはめちゃめちゃエロかったけどなぁ。残念だわ。」

 

 わたしはため息をついてベッドを見せに連れて行った。

 

 「あらまあ、張り替えられないこともないけど、元のお値段と修理じゃ割に合わないわよ。それにこれで寝るたびにうなされそうな気がするわ。で、どうすることにしたの?」 

 「うん。ほんとはあれが欲しかったんだよ。テーブルと椅子。お風呂上がりって部屋にゆくじゃない? 下手に脱衣所に居座って、寺田さんが帰ってきても困るし、実際にあったし。」

 「あらあら、ベタなラッキースケベね。そういうのわたし好きよ。」

 「うるさい。寺田さんはなんとなく気がついて回避したぞ。流石に年の功だと思った。」

 「つまんないわね。」

 「うるせーなー。ともかく、ベッドを買うしかないの。今はリビングのソファで寝てるの。」

 「はいはい。わたしとしてはこれがおすすめよ。」


 リビングに戻り伊織ちゃんのカバンから取り出したタブレット端末を操作して、見せてくれた画像は繊細な彫刻を施された紫檀で作られたベッドで四隅の柱が伸びて上で繋がっていた。


 「ここに蚊帳を吊るすんだけど、レースにするとあら、お姫様ベッドに早変わりよ。」

 「お姫様ベッドはともかく、確かにいいなぁ。でもそれなりなんでしょう? 」

 「まあね。」


 伊織ちゃんが提示した金額は頂いたお見舞金をおおきくオーバーしていた。


 「無理。」

 「でしょうね。予算はどうなのよ。」

 「これくらい。」


 わたしは指で伊織ちゃんに示した。彼は首を横に降り、タブレット端末の画面を指でスワイプしてある画像で止めた。

 

 「こんなところかしら。」

 「納得。でもマットレスとか付属品をつけなきゃいけないでしょう? 」

 「そちらは贅沢を言わないなら、傷物とか型落ちなんかである程度おまけしてあげなくもないわね。中古だとさらに安くなるけど嫌でしょ?」

 「ほんと? あと中古はちょっと嫌だ。」

 「もともと向こうの人はマットレス使わないんじゃないかしら? 敷き布団も記憶にないくらいなんですけど。うん。なんか畳みたいなのを敷いているわね。」

 「そうなんだ。」

 「暑いからじゃないかしら? 」

 「それはそれでなんとなくよさげだけど、跡がついちゃうよね。あと畳でもいいけど、冬は地獄よ。」

 「あぁねぇ。」


 しばらく話をしていたが、そろそろ夕ご飯を作らなくてはいけない。

 今日はゴマサバの味噌煮と空心菜と豚コマの炒め物だ。味噌煮はいたって普通につくる。空心菜と豚コマの炒め物は隠れていない隠し味にナンプラーを使う。

 ちなみに伊織ちゃんは料理が一切できないので、キッチンのカウンターでわたしを見守っている。


 「ねえ、中原くんはどうしたの? 」

 「出張よ。今日は独り寝なの。」

 「お互い様ですね。」

 「愛想も素っ気もない子ね。」

 「ご飯は食べて行けるんでしょ? 」

 「あら、いいの? 」

 「もちろん。これでダメなら、寺田さんのおかずの量が二人分になっちゃう。」

 「そんなことはダメよ。いい男を太らせてはダメなのよ。」

 「伊織ちゃんから見てもいい男なんだ。」

 「あれはなかなかよ。なんで独身だったのかしら? 」

 「社畜のこころがみんな悪いねん。」


 料理ができたところで、伊織ちゃんには失礼してシャワーを浴びに行った。

 もう誰にも遠慮することがないので、レースキャミソールと黒のかぼちゃパンツのルームウェアでリビングに出てくると、寺田さんが帰宅していた。

 ベールを下ろしたゴシックなロリータファッションの男の娘である伊織ちゃんと楽しそうに話をする彼の様子はごく自然な感じでわかっていたこととは言え、意外な光景だった。


 「やっぱり寺田さんはかわいい男の子が好きなん? 」

 「もうその冗談は聞き飽きましたよ。」

 

 寺田さんとベール越しの伊織ちゃんの顔は呆れ果てていた。

 テーブルの上にご飯を並べ、労働の汚れを流してリラックスした寺田さんとわたしが並んでその向かいに伊織ちゃんが座った。

 ゴマサバは美味しくないという人も多い。

 確かに油は少ないような気もするが、味は安定しているし、わたしは好みである。


 「よく寺田さんのご家族の方を納得させることができたわね。」

 「ああ、それ、わたしも知りたい。」

 「特に説明はしませんでしたよ。兄たちも自分の娘の棗がしたことで動揺して、吉屋さんのことを深く尋ねることもできなかったでしょうし、聞きたくても聞けなかったでしょうね。」

 「ああ、被害者であることを表に出してごり押ししたってことね。寺田さんもやるわね。」

 「そんなことはありませんよ。」

 

 ふふふ、くくく……


 黒い二人の笑みを見なかったことにして、わたしはご飯を口に運んだ。

 夕食会が終わり、リビングのソファに移動して二次会が始まった。

 寺田さんはクラッシュアイスを細長いグラスの口まで突っ込んで、そこにジンとレモンの絞り汁を注いだもの。

 伊織ちゃんはトニックウォーターに甘いワインを垂らした飲み物を手にリラックスしていた。

 わたしといえば後片付けをしながら、二人は買い置きしてある缶のナッツを皿に開けて、おつまみに出した。

 

 「ひとまず、寺田さんはこれからうるさいことを言われないようになったんじゃなくって? 」

 「……ええ、まあ。でもそれは副次的な結果ですよ。吉屋さんが今回、遭われたような災害のような出来事のことを考えれば、申し訳ないですね。」

 「固いわねぇ。だからこそ安心してユリちゃんを預けていられるんですけどね。」


 お皿の片付けが終わって、グラスに氷をたくさん入れたトニックウォーターを片手にリビングに戻ってきたところで、不穏当な話題が聞こえてきた。


 「ちょっと待て。わたしにはなんのことか、さっぱりだ。」

 「ユリちゃんは気にしなくっていいのよ。」

 「でも、わたしに関わりがあるんだろう? 気になるさ。」

 

 寺田さんは眉間にしわを寄せていたが、やがて重たい口を開いた。


 「吉屋さんは、うちの義姉にとても気に入られたようですよ。今回の件もそうですが、家の中や食事のこと、それにお客様への気遣いなどで、若いのにとてもよくできたお方だとお褒めの言葉をいただきました。」

 「あのお義姉さんなら、わたしも大好きだ。めちゃくちゃ美人だし、カワイイし。」

 「……うちの地元で分家といっても長男の嫁をこなしている人ですよ。本家のこのマンションのオーナーやその母親にも気に入られているというだけで別格です。」

 「おい、何だか面倒な予感がするぞ。」

 「いまは大丈夫です。」

 「で、なんで寺田さんはうるさいことを言われないで済むんだ? 」

 「鈍いわねぇ。ユリちゃんが寺田さんのお相手として、お義姉さんがたに見初められたから、寺田さんは結婚をせっつかれなくなったってことよ。」

 「おい寺田。どういうことなんだ。」

 「だから副次的な効果と言いましたでしょう。恨むなら棗(なつめ)を恨んでください。」

 「お前、自分の姪を売る気か!? 」

 

 寺田さんは無言でグラスを傾けた。伊織ちゃんに目を向けると目元を隠すくらいにベールをあげて、ストローで酒を飲んでいた。


 「伊織ちゃん、ストローで酒を飲むなよ。死ぬぞ。」

 「ほとんどアルコールなんて入っていないから大丈夫よ。」

 

 すました顔で伊織ちゃんはこくりとまたトニックワインを飲んだ。


 「わたしが状況をコントロールできるような事態ではなかったことはわかってください。

 棗は吉屋さんをターゲットにして外さないし、吉屋さんは吉屋さんで兄夫婦の前で母性的な鷹揚さを見せるし、その後の会食でも気の利くところを義姉に見せてしまうという失態をしてしまいましたし。」

 「おい、会食の前の空気を寺田さんだって覚えているだろう!? 小娘の両親は自分の娘だと思っていた野生のメスザルの情けなさで泣くし、寺田さんは始終難しい表情を崩さないし、当の本人は反省という言葉を知らないほどのサル頭だけど、聞けば昼から正座をさせられていたっていうじゃねぇか! わたしが帰った時点でもう6時間近くになっていたし、ほぼほぼ拷問だぞ。そんなん中で帰宅したわたしの身にもなってみろ!! 」


 寺田さんはソファから降りて、わたしの足元にひざまづいた。


 「本当にすまん。」

 「やめて!! 心が痛い!! あと恥ずかしくて死にそう!! 」

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