第30話 女の敵はいつでも女という自己撞着
シャクリ
シャーベットを噛み砕いてしまって、落ちそうなったところを慌てて拾った。
「あっ。えっ? だれ? 」
「あんたこそだれ? 」
問いに問いで返された。
よく見ると女の顔はまだ若い。足元には大きな、例えばそう、部活にでも使うような野暮ったい紺色のスポーツバッグがパンパンに膨れ上がって転がっていた。
「えっと……」
誰と言われるとひどく難しい質問で困ってしまう。
この子はきっと寺田さんの関係者だ。親戚とかと言って誤魔化すわけにもいかないだろう。だけどルームシェアさせてもらっていますと言っても信じてもらえるだろうか?
そんなことを考えていると女は急に目を見開いて、次に汚いものを見るような目でこちらを睨みつけた。
「不潔!! おじさんが頼んだ宅配なんとかなんでしょ!! 汚らしいわ!! 」
「え? 宅配なんとか? 宅配? 寺田さんの会社は…違うんだっけ。あれは海だし。えっ? マジでなに? 」
「とぼけないでよ!! そんな、そんな淫猥な姿で他人の家をずうずうしく歩けるような女の人が普通の人なんかじゃないでしょ!! 」
「えっ!? 」
初対面の若い女に面と向かって淫猥と言われるとは思わなかった。
風呂上がりだから薄着なのは自覚しているが、これくらいのルームウェアは普通に着るだろう。
まあ、これで外を歩く勇気もMっ気もないけど。
「出てけ!! 」
「出て行けと言われても……」
わたしはここに住んでいるんだと言おうとしたところで、慌ただしく寺田さんがリビングに駆け込んできた。
えらく急いでいる様子はわかるが、ライトグレーのテーラードスーツのジャケットに乱れもなく、相変わらずの粋な男っぷりだ。
「棗(なつめ)!! 」
「おじさんの不潔!! 」
虚を突かれたような表情で棗と呼ばれた女の顔を見つめた寺田さんは彼女の目線の先を追いかけた。
「や、やぁ。おかえりなさい。」
うまく笑顔が作れないわたしに気がついた寺田さんは肺の奥から息を吐き出し、そして久しぶりに右手で目を覆った。
棗と呼ばれた若い女が再度、大きな声をあげて寺田さんをののしった。
「おじさんが男なのは理解してあげるけど、その手の売女を家にまであげることないじゃない!! 気持ち悪い!! 」
「棗、お前は何を言っているんだ? 」
「あ〜 いいかい、寺田さん。このおん…ゴホン、この子はわたしのことを宅配なんとかって勘違いしているようなんだ。」
寺田さんはわたしの要領を得ない話を一瞬で理解できたようだった。そして顔が青ざめたかと思うと、首まで紅潮して両手で拳を作った。
「だ、だめだよ。寺田さん。なんのことかわからないけど、落ち着いて!!」
ハッとした表情になった寺田さんはその拳で自分の太ももを強く叩きつけた。
そして詰めていた息を吐き出し、目を閉じた。
わたしは彼のそばに寄り添って、右掌を背中に当てた。
「寺田さん、ゆっくりと6まで数をかぞえて。」
「ろく? 6? ああ6秒か。1、2、3、4、5、6。」
「そしたら深呼吸をして。」
寺田さんは言われた通りに大きく息を吸って、肺の奥から空気を吐き出した。
「落ち着いた? 」
「ええ、少しは。アンガーコントロールですか?」
「そう。よく知ってんね。」
なにが行われたのかよくわからず、状況においてけぼりされた若い女に再度寺田さんは向き合った。
「棗。……義姉さんから棗が家出をしたと電話があった。心配しているぞ。それに勝手にわたしの家の鍵を持ち出して、黙って上がり込んでいるとはどういうことなんだ。」
「だって!! 」
「それにだ。それになにをどう勘違いしたのか事情はわからないが、棗はわたしの大事な友人を思い込みで罵ったんだぞ。」
「だって! だって!! お母さんもお父さんもおばあちゃんもわたしのいうことを全然聞いてくれないし、もうあの家にいるのが嫌だったの!! それに……」
寺田さんの血縁らしい若い女は憎しみの目をわたしに向けた。
「こんな淫らな姿をした女がよりにもよって、おじさんの情婦だなんてわかるわけないじゃない!! 」
「おい、思春期特有のかわいらしい家出だと思って、黙って聞いてやれば、さっきから淫猥だの淫らだの、情婦だのってどういうことだ!! どうせ宅配なんちゃらだって、いい意味で使ってないだろう!?」
小娘の憎しみに満ちた蔑みの眼差しと情婦と吐き捨てた言葉にわたしは激昂した。
「お前みたいなあまちゃんに罵られるような後ろめたいことなんざ、これっぽっちもしたことなんかないぜ。どうせメスガキってことを武器になんでも言うこと聞いてくれる甘いおじちゃまにいい子いい子と慰められたいなんて、ゲスい考えで出てきたんだろ。生え揃ってないようなガキがおぼこいふりして、上品ぶった面したって、やっぱりメスはメスだよなぁ! 」
わたしの煽り台詞に小娘は目を向いて反論した。
「な、なんですってー!! 男にすがるしか能のないような淫売のくせにー!! 」
「青いケツを振っておじちゃまにすり寄ってくるようなメスガキがわたしに罵っているつもりでもなぁ、吐いた唾は全部、テメェの頭の上に降りかかっているんだぞ!! まだ制服を着て学校に通っているようなもの知らずが、女を罵る言葉だけはいっちょまえだなぁ! テメェの吐いている罵詈雑言の一言一句、知ってて言ってんだろうなぁ!! ガキがそうそう口からひり出す言葉じゃねえぞ!! 」
官能小説でも読み込んでいるのかと思われるような小娘には似つかわしくない悪口にこちらは言葉の量で圧倒してやった。
すると、口元を震わせた小娘が動いた。
「こ、この……メスブターッ!! 」
寺田さんの脇をすり抜けて、小娘がわたしの面前まで駆け寄ってきた。
あぁ、般若のお面って、本当に写実的だよなぁ。
振り上げられた右手がわたしのほおをぶった。
本人にすれば、かなり強い力だったのだろうけど、あいにくバレエ仕込みの体幹の強さはわたしを打ち倒すところまで行かなかった。
ほおが痺れたように熱い。
わたしは軽く顎を上げて、小娘を見下ろした。
「ガキはすぐ手が出るな。言葉で勝てないから暴力か? よっぽどお育ちがよろしいようで、羨ましいですわね。」
「この!!」
また小娘の腕が振り上げたところで後ろから寺田さんが大きな手によって捕まった。そして小娘はそのままソファまで引きずっていった。
ポイっと投げ捨てられたように小娘はソファに寝せられた。
「棗、そこで自分が行ったことを反省しているんだ。」
「おじさん!!」
「お前が自分で喧嘩をふっかけて、手を出したんだぞ。これ以上何かするんだったら、おじさんは許さないぞ。」
小娘はうつ伏せになって肩を震わせて泣き崩れた。
眉間にしわを寄せた寺田さんは次にわたしの目の前までやってきた。
わたしは口の中に溜まった血の混じった唾をテッシュの中に吐き捨てた。舌で触ると頬の内側を噛んだみたいだ。
「煽り過ぎたとは思うが、反省はしていない。」
「……ええ。大丈夫ですか? 」
そっと伸ばした右手の指がわたしのほおに触れた。
「ァツッ! 」
慌てて引っ込めたその手を見つめている寺田さんは、わたしを痛がらせたことよりも触れてしまったことに後悔しているような、そんな気がした。
「冷凍庫に保冷剤が入っています。いま持ってきますので、お部屋の方に戻っていますか? 」
「いや。逃げたようで癪に障る。ダイニングの椅子に座って待っている。」
「わかりました。」
寺田さんはため息をついて、水に浸したタオルを固く絞り、それで保冷剤を包んで手渡してくれた。
「すまんな。自分がアンガーコントロールできていないな。」
「いえ。あれは棗が悪いと思います。出合いしなに初対面の女性に言う言葉ではありませんし、吉屋さんはそのような女性には見えませんよ。」
「わたしの姿を見てそう思ったようだが……」
「そうよ!! そんな男好みの猥褻物のような格好しているんだもん!! 」
「棗!! 」
振り向きざまに寺田さんらしからぬ鋭い怒声が部屋に響き、また小娘はさめざめと泣きはじめた。
わたしはと言うと自分の姿を見下ろした。
「なぁ、寺田さん。」
「なんですか?」
「そんなに、すけべな格好をしているか? 」
「……よく似合っていますが、かなり蠱惑的な…いえ、女性らしいファッションというか。」
「目ぇ逸らすなや。はぁ〜 そういえば初めての日に全部見せたような気がする。その時に着ていたものと比べれば、大人しいかな。」
初日の紗の着物よりも薄くなったTシャツを思い出して忌々しくなったが、すぐに記憶を投げ捨てた。
「で、どこの子? 」
「地元に住む兄の娘です。」
「オーナーの子供? 」
「いえ、オーナーはまた別です。彼女は本家の長女です。うちは分家筋でそこの後継ぎである兄の次女です。」
「あ〜 細かい話はいいわ。なんで鍵を持ってたの? 」
「わたしは独居ですから。もし何かあった時のために一番近い肉親の兄夫婦に一つ持たせていたんです。」
「何かあった時って、そんなにやばいことしてんか? 」
「どういう想像をしているのか聞きませんが、交通事故とか急病とかそんな感じですよ。」
「なるほどなるほど、そういう可能性があったな。で、それを勝手に持ち出したと。家出して東京のおじさんを頼るくらいに姪と仲がいいのか? 」
「年に数回会う程度ですか。兄の子供の中では懐いてくれている方ですね。うちは義理の姉と子供達で休みに東京へ遊びに来た時の定宿代わりですね。だから思いついたのではないでしょうか。兄は農家をしているので、ほぼこっちには来れませんし。」
「いや、寺田さんちの細かい設定は知らない方がわたしとしては無難だから。そうか、かっこいいおじさんを若い女に取られたように思ってしまったのか? 」
「フザケンナ!! 」
ニヤニヤ笑いながら煽ると面白いように釣れる。
不機嫌な表情で振り返り、姪を睨みつけた寺田さんはわたしにも困った表情を見せた。
「悪い、悪い。でも、このまま家に帰しても感情的にこじれているし、お互いの名誉を傷つけられるより、きちんと説明したほうがいいと思う。」
「ですよね。まさか、姪が新幹線に乗って家出してくるとは思いませんでしたよ。」
「わたしも家出していたようなもんだけど、それは成人してからだしなあ。とりあえず、その小娘の家に電話をしてあげなよ。」
「はい。」
「小娘!?」
わたしはもちろん、寺田さんも小娘に関わることなく、電話の子機を取りに向かった。そしてわたしの横にまた腰を下ろして、兄夫婦の家に連絡をとった。
「もしもし、龍彦です。……ええ、家に来ていました。どうやらわたしの家の鍵を持ち出していたみたいですね。大丈夫です。元気ですよ。
……ええ。元気すぎるというか。わたしの友人と多少トラブルになりまして。……いえ。棗の方が彼女に突っかかって、怪我をさせてしまいました。……大丈夫ですとは言い難いのですが、大ごとにはしていません。
棗が彼女のほおを強く叩いて、赤く腫れ上がったのと……」
寺田さんがこちらを見たので、口を大きく開いて切ったところを指差した。
「口の中を切ったみたいですね。……いえ、病院にゆくほどではないようですね。いまは冷やしてもらっています。……ええ。本当に。それから、わたしの口からはとても言えないような罵りを彼女に浴びせかけましてね。本当にどこであんな言葉を覚えたのか? ……あぁ、本で? ……うん。……うん。……いえ、彼女も大人ですから。穏便に済ませてくれるそうです。わたしは、……ええ恥ずかしい思いをしましたよ。
……今週いっぱいはわたしも仕事が忙しくって。ほら、ニュースでもやっていたでしょう。海峡閉鎖。……あっ、まあ、関係ない人は興味ないですね。すみません。ともかく、そういうわけで休みをとって棗を送ることはできません。」
おいおい、まるっきり全部話しているじゃないか。どうやってわたしがルームシェアをしていることを説明するつもりなんだ。
ちょっとヒヤヒヤとしていると結局、小娘の親がこっちに来ることで話がついた。
気がつくと小娘はテーブルの横に立っていた。寺田さんは小娘を見上げて淡々と話し出した。
「棗、お義姉さんも収穫で忙しいらしいから、土曜日に迎えに来るそうだ。それまで高校はお休みにさせるそうだが、反省していなさいとのことだ。」
「えっ? イヤよ!! 」
「お前のしたことをよく考えるんだ。なんならこれからホテルの予約をとるから、お前はそこに泊まっていてもいいんだぞ。」
「わたしを追い出すの!? ネグレクトよ、おじさん!! 」
「ルームシェアしているわたしの友人の身の安全が保証できないのなら、安全策を取るのは当たり前だろう。それともこの場で新幹線の切符代を棗に渡して一人で帰すか?」
「この売女を……」
わたしも見るのがはじめての表情を寺田さんが浮かべ、小娘はまたソファに飛び込んでうつ伏せになった。
「きょうは、話にならなさそうですね。」
「うん。」
二人で大きなため息をついた。
わたしの素敵な入浴の記憶が……
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