第28話 ハニーブロッサムの昼
彼女、元彼女、現心の友、中里さん、中里凛、凛、凛ちゃん、なんて呼んでいいか迷う。
ともかく、別れた彼女のサロンは青山や代官山といった華やかな一等地ではなく、しっとりとしたレトロ感溢れる神楽坂の奥にある。
なんでも昔からの美容室を居抜きで借りたらしい。
一人でお店をはじめて、徐々に知られるようになっても人を雇うことはしなかった。
だから忙しくなってからは不定休どころか不定営業なレベルになってしまい、予約が取りにくい。
それでも彼女はマメに店での営業を行おうとしていた。
小さな建物の一階にある彼女のお店のウィンドウの向こうには昔ながらのパーマのためのオカマと呼ばれる頭を入れるドライヤー
が見えた。
わたしは扉を押すとカランカランという音が鳴った。
入口の脇には観葉植物のシダがあって、その奥に一つだけ美容用の椅子が据え付けられていた。
「こんにちは。」
「……久しぶりだね。」
わたしが喉の奥から空気の塊を出すように答えた言葉に彼女は笑みを見せた。
「まだ一月ちょっとよ。でもまあ髪が伸びたわよね。さっ、こっちに来て。」
彼女の招きに応じて、わたしは椅子に腰をおろした。
手慣れた様子で彼女はわたしの首にタオルやスモックのようなケープをかけた。
彼女はわたしに要望を聞くことはせずに、髪にサクラの香りをする水を霧吹きでかけてブラッシングをし出した。
チャキチャキ、チャキチャキ……
ハサミが髪を切る音、櫛で髪を梳くかすかな音。
いつものリズミカルで心地よい音にわたしのまぶたは自然に落ちてゆく。
「百合子さんは今のところはどんな感じ? 伊織ちゃんや中原くんに聞いても自分で聞けばって教えてくれないんだよ。意地悪だよねぇ。」
「あいつら、そんなこと言ってたの?」
「それでいて、まだ連絡しちゃダメだよ〜だって。」
ケラケラと笑う彼女の手がわたしの前髪に移った。
鏡ごしに見える彼女の手は年齢よりも老けて見えて、決して綺麗なものではないけど、働く人の手らしくてわたしは大好きだ。
「で、どうなの? 気になるんですけど。」
「いい人だね。ベッドも何もなくって、床に毛布を敷いて寝るって言ったら怒られて、次の日に買いにゆかされたよ。」
「そんなことがあったの? 百合子さんは一緒に寝るなんて言わなかった? 」
「いうわけないじゃん。寺田さんは社畜でお酒以外、興味がなくって、大きな家に住んでるんだけど、最低限のものしかないし、ご飯はいつもお惣菜だった。」
「百合子さんと似てんじゃない?」
「んなことない! 少なくってもわたしはご飯に興味はあるからね!! 家賃も何も払わなくっていいから早く自立できるように努力しろって言われた。だから代わりに夕食くらいは作ってあげてんだ。」
「胃袋をつかもうとしてる。さすが百合子さん、攻めるわね。」
「だ〜か〜ら〜!! 違うって言ってるでしょ!! 」
わたしが怒ると彼女は頭を軽く指で押さえて元の位置に戻した。
「仲良くやってるんだね。よかったよ。」
「仲はいいっていうか、ご迷惑ばっかりかけてるよ。」
「そりゃダメだ。はい、じゃあシャンプーに移るからね。」
「うん。」
彼女は大きなブラシでスモックからわたしの切った髪を床に払い落として、デッキブラシのような箒で集めてゴミ箱に入れた。
それから、シャンプーの泡を髪につけて、頭皮のマッサージをしながら洗いはじめた。
「凛は、忙しいの? 」
「そうだね。これからしばらくの間、百合子さんの髪を触ることができないかも。」
「えっ!? そんなに? 」
「ちょっとね〜 」
「えっ? 寂しいんですけど。」
「大丈夫だよ。しばらく会えないだけだよ。はい流しますよ〜。」
彼女は椅子の足元にあるペダルを踏んで椅子ごとわたしを回転させた。そして背もたれを倒して、顔にタオルをかけて、頭を流しはじめた。
「大丈夫? ちゃんと食べられている? 」
「大丈夫よ。作る暇はないけど、百合子さんに言われたようにバランスよく食べてるから。」
「うん。変なダイエットにはまんないでね。」
ふへへと彼女は笑って再度、シャンプーをつけて洗いはじめた。
タオルが目の上にかけられて布越しの光しか見えない。
「あれから、ずっと凛の言った言葉を考えているんだけど、やっぱりわかんない。」
「なんだっけ? 」
「もーっ! もーっ!! あれだよ! わたしと一緒にいるとダメになるってやつ!! 」
「……そんなこと言ったっけ? 」
「……うそ…… 凛はだから別れようって言ったんだよ。」
「そうそう。そうね。百合子さんはだいぶ変わってきたから、忘れちゃってた。」
「変わった? わたしが? 」
コンディショナーを髪に染み込ませられて、軽くすすいだ彼女はわたしの髪を軽く絞り、タオルで包んだ。
「はい、起こすわよ。」
目の前のタオルがどけられた。ふわっと午後の明るい日差しが目に入った。一瞬真っ白になり、次に壁の古ぼけたポスターが目に入った。
またぐるりと椅子を回されて、鏡に面したわたしの顔はいつもと同じで、彼女も変わらずで、わたしは何が何だかわからなくなった。
彼女はまだ濡れたわたしの頭皮に化粧水を垂らして軽くなじませるように揉んだ。
「そんな気なんか……」
「そお? なんかすごくいい感じよ。」
彼女はそう言ってドライヤーでわたしの髪を乾かしはじめた。
いつものようにつむじの流れにそってごく自然に髪が流れるように整えてくれる。
なんの気もてらいもない髪型。
不器用なわたしが短い時間で自分で整えられて、それでいて見られるようにしてくれる、彼女の優しさ。
「いまならもう少し冒険してもいいかも。」
「冒険? 」
「ん。次にわたしが百合子さんの髪を触れるまで伸ばしていてね。」
「えっ、伸ばすの? 短くしたいって、何回も言ったよね。」
「百合子さんの顔立ちって、ショートは似合わないの。」
「わたしって、ブサイクだったん? 」
「ブッ…アッハッハッハッ……」
彼女はわたしの頭に添えていた手を外して大笑いした。
「違うわよ。フェムすぎるのよ。伊織ちゃんのように女の子女の子した顔だちだったらベリーショートやショートボブでもいいけど、百合子さんはトロッとした綺麗さなの。」
「鈍くてバカなのは知ってる。」
「いや、どうしてそこに行くかな? わたしの言い方が悪いかな? クリームのような甘さじゃなくって蜜のように滴ってくるような甘さがあるのよ。残念ながら。」
「大人っぽい? 」
「ある意味。」
「なぜ残念?」
「性格。」
「畜生、反論ができない。」
彼女は笑って毛足の長い柔らかなブラシで髪の毛を払って、ケープを外した。
「はい。お疲れ様でした。さっきも言ったけど、しばらく百合子さんとは会えなくなりそうだから、その間はこの人のところにお願いしているわ。」
小さなレジでお会計をすませると彼女はわたしに角の丸い名刺を渡してくれた。
名刺には見知らぬ女性の名前が書かれていた。
「わたしのお姉さまよ。一月に一回は行ってあげてね。」
「ってことはだいぶ長くなりそうなの? 」
「う〜ん、わたしもどうなのか、わかんない。」
「そっか。ありがとう。」
「うん。こっちこそ。会えそうになったらまたメッセージを送るからね。」
「うん。わたしも……ううん、もう少し自分でがんばってみる。」
「さすが我が心の友よ。」
彼女はドアを開けて、外に出てわたしを見送ってくれた。
わたしは三度振り返り、そして家路についた。
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