第15話 あね、崩れる
寺田さんと弟の日取りの調整がすんだ。
急なことだが、あしたの夜、とうとう二年半以上ぶりに弟と再会することになった。
とりあえず昼食を簡単に済ませた昼休み、足早に近所の老舗デパートで羊羹を五本買った。黒蜜、和三盆、白豆、蜂蜜、最後に定番中の定番、小倉と取り揃えた。流石に杉箱入りはやめた。
仕事帰りにはご飯は何にしようかとスーパーを見て回ったが、いまの弟が何を好んで食べているのかすらわからない。
酒は飲めるから、寺田さんとは気があうはずだ。
悩みは当日の昼まで続き、結局、茹でたそら豆とヒラメやタイなどの白身の刺身、茗荷と青ネギを細かく刻んで薬味にした冷奴と酒飲みのためのお手軽メニューになってしまった。
ちょっとだけ早上がりさせてもらい、冷蔵庫に買ってきたものを突っ込んで、シャワーを浴びた。
ほてった体を部屋で冷ましながら、着るものの選択をしていた。
いつものルームウェアで弟を出迎えるのはちょっとだらしないような気がして、小花柄のショートパンツとレースのノースリーブカットソーに決めた。
体の粗熱が取れて、落ち着いたところで肌のお手入れを済ませて、眉だけ引いて、キッチンへと向かう。
夕食を作るといっても、買ってきたものを真っ白な皿へと移すだけの作業が終わる頃、インターホンがなった。
「あ、あの。吉屋ですが……」
タブレット端末ぐらいの大きさがある有機ELモニターには、寺田さんや中原くんとは違って肩のサイズが合っていない、おおかた既製品のスーツを着た弟が挙動不審な様子で写っていた。
「よう。いま開けるから。」
「あっ、はい。」
しばらくして弟が上がって来た。
「久しぶりだな。」
「お、おう。」
まだ動揺が収まらない様子の弟を招き入れた。
ソファに座らせようとすると、なぜか頑強に抵抗された。妥協案としてダイニングの椅子に腰を下ろした我が弟は汗をかきすぎて、顔がテカっていた。
「なんか言うことないか。」
「それは姉ちゃんの方だろ。」
「本当に心配をかけた。悪かった。」
わたしは素直に頭を下げた。
その態度に弟は姿勢を正して真面目な表情になった。
「いや、俺も母さんとも話をした。あの時、姉ちゃんの悩みをわからずに追い詰めてしまったのかもしれない。母さんも俺も反省している。」
「それは……」
弟の言葉にわたしは返答することができなかった。
あの時は本当に苦しかった。
両親に理解してもらえず、弟は実家から離れて関西にいた。
職場では好奇の目に晒され、他職種からも冗談にもならない言葉のヤスリで心を逆撫でされた。
あの時、わたしには彼女しかいなかった。
彼女しか頼るすべがなかった。
身も心も癒してくれたというよりも彼女に身も心も溺れたという方が正解なのだ。
いま思うと彼女も大変だったろう。
「ね、姉ちゃん……」
弟がオロオロとしだして、わたしは自分のほおが濡れていることに気がついた。
「気にするな。わたしはお前やお母さんに何も思うところはない。これは、これはただ、失恋して一番きつい時期なだけだ。だから、気にするな。」
わたしは弟を放り出して、顔を隠すタオルを取りに自室へと駆け出した。
「ただい、ま……」
間が悪いとはこのことだ。
寺田さんが帰ってきてしまった。
廊下で鉢合わせになり、身動きが取れなかった。
「すまん。部屋にゆく。弟、きてるから。」
「……わかりました。これ。」
顔を見せたくない一心で背中を丸めたわたしに寺田さんは胸ポケットからラベンダー色のチーフを取り出して握らせた。
「くそぉ。寺田さんはぁ。ちくしょう。」
わたしはチーフを握りしめながら部屋に飛び込んだ。チェストの上にチーフを置き、一番上の引き出しから取り出したタオルに顔を埋めて、その場に座り込んだ。
本当に周りの人を振り回すだけの日々だった。
いやわたしが辛いことを理解してくれないから周りが混乱するんだ。
自己嫌悪と自己正当化の気持ちがぐちゃぐちゃでどうしていいのか、わからない。
どのくらいそうしていただろうか。
深いため息をついて洗面所で顔を洗い、鏡を見ると子供ような自分の顔が映っていた。
もう泣きはらした瞼など見慣れた。
再度、眉を引いてリビングに戻ると寺田さんと弟が話し込んでいた。
「すまぬ。」
「あっ。ご、めんな、さい。姉ちゃん。」
寺田さんのとなりに座ると彼は弟と話をしていたことをわたしに教えてくれた。
わたしはことば数少なくうなずいていたが、彼はすこしして着替えにゆくと席を立った。
「……」
「……」
気まずい。
非常に気まずい。
「姉ちゃんの言う通りにこれ、持ってきた。」
弟は桐箱入りの羊羹セットを取り出した。
わたしはその場で包装紙をていねいに剥がし、中を開けた。
「なんだ。ミニ羊羹セットかよ。」
「なんだ? ケチつける気か? これは姉ちゃんじゃなくって寺田さんに持ってきたんだよ。勘違いすんな。」
わたしは鼻息荒く、ソファのとなりに置いていた袋を持ってきて、竹皮で包装された羊羹を取り出した。
「5トラヤだ。受け取れ。」
「5トラヤってなんだよ。どんな通貨単位だよ。」
「ボクの友達が言うところの姉ちゃんの感謝指数だ。」
「わけわかんねーよ。」
弟は苦笑した。わたしも唇を歪めて笑みを浮かべた。
「本当にすげえ家だな。」
「だろう? コンシェルジュまでいるんだぜ。」
「見た。えらい美人だった。地名聞いて予想はしておったが、想像以上だった。寺田さんの会社の名前を聞いてなるほどなと思ったわ。」
「なんだ? ボクは聞いたことがない。お前でも知ってるところなのか? 」
弟は寺田さんの会社の名前と大まかな説明をしてくれた。
わたしは聞いたことがない名前だったがどうやら著名な配送会社らしい。弟がいま勤めている会社とは比べ物にならないと語っていた。
あとここら辺は有名ではないが、高級住宅街だそうだ。それはまあ、ご近所さんを見ればわかる話だった。
そんな話をしていると寺田さんが戻ってきた。
今日は仕事が忙しく汗をかいたのでシャワーを浴びてきましたと言われた。
たぶん気を使ったのだろう。
「さて、ご飯にでもしようか。お前も今日は大丈夫なんだろう?」
わたしはコップを傾ける仕草をすると少しだけならと答えたので、ちょっとホッとした。
お刺身と冷奴、それにそら豆を茹でたものをテーブルに並べ、冷蔵庫からビールを取り出した。
「お疲れ様でした。」
弟の不思議な、それでいてなぜか納得するかけ声でわたしたちはご飯を食べることにした。
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