第7話 無垢と無知の罪と罰

 きのうより早く起きたわたしは顔を洗っただけで、いつも寝る時に使っている伸びきったTシャツのままリビングに出てきた。

 Tシャツの裾から手を入れて、お腹をかいていると声をかけられた。


 「おはようございます。」

 「えぇ? おはようございます。もう出かけたかと思った。」

 「これからですよ。」


 寺田さんは濃紺のテーラードスーツに黒髪は綺麗にセットされ、もう戦闘準備完了といった風体だった。中原くんと同じようなスタイルだったが、彼とは違ってインテリジェンスが優った大人のダンディだった。

 じっと顔を見つめる彼に気がついた。

 しょぼい姿を見せてしまった。


 「あっ、お粗末なものをお見せいたしました。」

 「いえ。一応ルームシェアなのですから、お部屋では寛がれて結構です。」

 「はい。すんません。」


 わたしの顔から目線を外さない寺田さんに何かしたかなと思いつつ頭を下げた。


 「メモに残そうと思っていましたが、今日は遅くなりそうです。晩御飯はお気遣いなく。」

 「ああ、ありがとう。簡単にすませるよ。」

 「それと区役所や郵便局などに住所変更などを行いましたか?」

 「あっ!? えっ!? 必要?」

 「色々と不都合が生じますよ。交通費が出ている場合、働いている先にもご迷惑がかかりますし。」

 「ヤベェ。家を飛び出してからしてない。」

 「……」


 黙ってしまわれた。


 あ〜、う〜、その〜と言葉にならないうめき声を出すわたしに背を向けた寺田さんは玄関に向かった。わたしもその後を追っかけた。 


 「いってらっしゃい。」

 「なんともくすぐったいものですね。本当に久しぶりに言われました。」

 「勘違いすんなよ。」

 「何をですか?」

 「それならいい。」


 微笑みを浮かべた寺田さんが家を出て、緑茶を飲みながら道路に面した窓の外を眺めていると地下駐車場から一台の黒塗りの大型高級車が出てきた。


 「うはっ。あれ、もしかして寺田さんか? すげぇ。やっぱりリッチだよな。」

 

 何をしている人なんだろうかと疑問が浮かんだ。

 不正規? 脱法? ともかく堅気であれば問題ないやと思い直したが、妄想し直すことにした。 

 

 「インテリ経済ヤクザに軟禁されて、オスの欲望のはけ口にされているガールズラバーガールって、もしかしてネタになるか?」


 こういうのが好きそうな友人が思い浮かんだが、そもそもの事情説明ができないことに気がついた。


 「ナシナシ。さて、朝メシにするか。」

 

 キッチンに移ってきのうの残ったご飯と味噌汁、そしてふりかけを運んで、ダイニングテーブルに並べた。

 椅子に腰を下ろしたわたしはテレビのニュースを見ながらもそもそと食べた。

 後片付けを済ませて、洗面台で歯を磨こうとすると、あいかわらずの人感センサーでライトがついて自分の鏡像が目に入った。 


 「うえっ!? 寺田さん、見えてたんか?」


 なんども洗って伸びきった白無地のロングTシャツはペラペラのスケスケで、それはもう上半身の肌色とともに美瑛の丘のようになだらかな双丘の突端の色も形も透けていた。

 同棲生活時代からのものだから、彼女はきっと気がついていたはずだ。


 「まっず。気まずいったらないじゃん!! 凛も言ってくれればよかったのに! 自分じゃ全然気がつかんわ!! 」


 腹立ち紛れにその場で脱ぎ捨てたシャツは手荒くまるめてゴミ箱に投げ捨てた。

 鏡には黒のかぼちゃパンツ一丁で怒りに狂った女がいた。

 怒ったままで歯ブラシをくわえた。

 電動歯ブラシなのにゴシゴシと磨くと、回転するブラシの勢いもあってだらだらと胸元に口から汁が垂れる。

 気持ち悪いことも忘れて強く磨いていたら、うがいの時に血が混じった。


 「あほくさ。」


 ティッシュで汚れた首から胸元を拭おうかと思ったが、時間もあることだしシャワーを浴びて気分を変えた。


 仕事に向かう間に気分が落ち着いた。

 今日の午前中は三人ほど予約のお客さんがいて一人は常連さん、二人は新規の方だったが、そのうちの一人のおばあちゃんが強く揉みほぐせと要望を出してきた。

 ご高齢で筋肉も衰えて薄くなっていたし、女性に多い骨の脆さもあるというリスクを説明したが、やっぱり昔の人は痛いくらいのあん摩のイメージが強い。

 肋骨や大腿骨の骨折とか靭帯損傷とか、意外と事故もありうるんだよと匂わせるとやっと納得してくれたが、支払いの時までブツブツ言っていた。


 昼休みになってスマホで住所変更などの手続きを調べていると、インディさんが自分の予約が空いているので代わってあげるから行ってきていいよと言われた。

 お言葉に甘えて、とりあえず区役所と郵便局で手続きをすることにした。

 区役所は引越しシーズンも終わったのに、めちゃめちゃ混んでいた。

 はじめての手続きでよく勝手がわからなかったが、案内の人に言われるままに動いていた。そして待っている間の時間に弟のスマホにメッセージを入れるとすぐにコールが帰ってきた。


 「ねえちゃん!!」

 「よお。暇だったのか?」

 「なにのんきなこと言ってんだよ。このドアホ!! 二年以上も連絡をよこさんで死んだかと思ったわ!!」

 「……もうそんなに経ったのか。びっくりだわ。」

 「父さんはほっとけっていうし、かあさんは言葉にしないけど、心配してはげができとったぞ!!」

 「それは、ほんとうに、なんていうか、泣けるからやめて。いま心弱っとるんだから。」

 「……で、今はどうしているんだ? 」

 「区役所で住民票の変更届けを出している。このあとは郵便局にゆく予定。」

 「引っ越すのか? ……その、付き合ってた連れと一緒にか?」

 「あ〜それ、話さなきゃいけないか……先週、別れたんだ。」

 「えっ?」


 電話の向こうでアホのような面を晒している弟を想像したが、わたしだって初めて聞いた時は同じような顔をしていたはずだ。


 「発展的解消とでも言いますか。」

 「浮気したんか? だらしなくて見放されたか?」

 「浮気なんかするか! 色々とあんだよ。」

 「それはまたいずれ聞く。で、一人暮らしをはじめるのか? 」

 「あ〜。ちょっと待って、呼ばれた。」

 「切るなよ。逃げるなよ。待ってるぞ。」


 弟の脅迫めいた声を聞きながら窓口で手続きを終了した。

 区役所の建物から出て、小さな公園で木に寄りかかりながらスマホを耳元に寄せた。


 「すまん。終わったわ。お前、学校は大丈夫か?」

 「なに寝ぼけた事ぬかす。もう就職しとるわ。いま仕事中だけど、上司に頼んで抜けさせてもらった。」

 「本当に申し訳ない。それで実は友人宅でルームシェア? というものをすることになってね。それで相手から諭されて、いま役所なんかで手続きをして回っているんだ。」

 「……またこれか、女か?」

 「人聞きの悪いこというな。年上の一人暮らしの真面目な人。実家にいる時から色々と相談に乗ってもらっていたんだけど、とりあえず自立できるまでは部屋を貸してくれるということでお願いした。」

 「あ〜 なんか前に聞いたことがあるかも。でもネット上の存在だろ。」

 「イマジナリーフレンドとちゃうぞ。ちゃんと実在していたわ。エリートさんだった。」

 「ねえちゃんはなんかそういう人に縁があんな。前の人だって雑誌とかに出てんだろ。」

 「なんで知ってる!?」


 基本わたしは恋人を家族に会わせることはない。というか、会わせられない。

 ので弟がなぜ知っているのか、腰が抜けそうなほどびっくりした。

 弟はさらりと理由を教えてくれた。


 「家出直前に二人飲みをした時に名前を聞いた。調べたら俺の彼女でも知ってたわ。」

 「彼女がおったんかい?」

 「どんだけ自分の家族に興味がないんだよ。おったわ。お前にも挨拶させたわ。速攻口説こうとしとったわ。」

 「肉食系の姉ですまぬ。」

 「笑っておもしろいお姉さんねで済んだぞ。感謝しろ。」

 「すまぬすまぬ。」

 「ともかく、姉ちゃんをそこまで躾けられるということは相手はしっかりとした人らしいな。少し安心した。あと仕事とかはどうしているんだ?」

 「友達の紹介で整体なんかをするサロンで仕事している。聞いて驚け、都心の一等地だぞ。」

 「吉原か? それともアキバか? 」

 「キサマー!! 銀座じゃー!!」

 「どっちにしろ、夜じゃねーか!」

 「ちゃうわ。健全なお店じゃい。女オンリーだぞ。お前が来たってお断りじゃい。」

 「ニッチな専門店だな。」

 「お前、差別的発言としてガチで訴えるぞ。」


 失礼な発言に対して厳重な注意と警告を与えたら、流れるような速さで話題をすり替えられた。 


 「ちゃんと働いていて安心したよ。」

 「……本当に心配かけたな。お母さんにもあやまりたい。」

 「伝えておく。それとご挨拶に行ったほうがいいか? 絶対にご面倒かけているんだろ? 」

 「もうちょっと後にしてもらっていいか。わたしもいまはメンタルがグラグラだし、お母さんにも会いたいけど、あっちゃうとどうなるかわかんない。」

 「別れたばっかだっけ?」

 「そう、このまま一緒にいるとわたしがダメになるって言われた。」

 「そりゃそうだろう。」

 「みんなわかるんだ。わたしはわかんない。」

 「姉ちゃんはバカだからな。」

 「それだけはわかっとる。言われんでもわかっとる。」

 「かあさんに伝えるのはいいか?」

 「うん。」

 「じゃあな。」


 スマホを耳から離して、その腕で目を拭った。

 弟がむかしから変わらない、いつもの弟で嬉しかった。

 就職していたことも知らない姉ですまん。自分の歳を考えれば、すぐにわかるのに。

 実家に戻る日には虎◯の羊羹を買ってゆこう。そしてわたしが自分で半分食べるんだ。

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