第6話 事象の観察の理論負荷性もしくはラッキースケベ回避率

 あれから予約のお客さんが五人来て仕事が終わった。

 ガッチガチに人数こなすところもあるけど、インディさんの経営コンセプトは数は少なく、単価は高く、サービスは高品質でというゆとり経営だ。

 サービスといっても猫なで声で「お客様は神様です」、「みんなのこと大好きだよ。だからワンオペでも頑張るね」ではなくて、高品質かつエビデンスのある方法で適切なリラクゼーションとボディメンテナンスを提供するというもの。

 徒手的な運動器の検査も織り交ぜながら行うから、病院が必要そうな人はスクリーニングでそちらを行くようにアドバイスして、あまりに重篤だとお断りもする。

 怒る人もいるかと思ったが、病院行ってみたら結構な大ごとになっていて助かったと、わざわざお礼を言いに来てくれる方もいたらしい。

 インディさんは本国では自分でクリニックを開けるらしい。当時の年収を聞いて、日本より稼げんじゃんと騒いだら「なんか水が合わんでのう。」と返された。

 わたしなんかが行ったら、よっぽど生きやすいんじゃないかと思ったが、思ったよりも色々と世知辛いらしい。

 影でいろいろ陰湿なことをされるか、通りすがりにいきなり知らない人から半殺しの目にあわされるかの違いだというのを聞いて寒気がした。

 笑っていたし、インディさんはヘテロだし、向こうの友人の話と言っていたからブラックジョークだと思う。


 そんなことを思い返しながら、帰り道、山手線の駅から寺田さんのマンションまで夜道を歩いていると存外人気(ひとけ)がないなぁと気がついた。


 「また護身用のスタンガンでもカバンに入れとくか。」


 独り言を呟きながら早足で戻ることにした。

 駅前の商店街を経由して、今日の夕食やルームシェアで必要となった小物を100円ショップで購入して両手にいっぱいの袋をもちあるいた。

マンションに着くと二十時を過ぎていた。一応インターホンを鳴らしたが返答がないので、寺田さんから借りた鍵で中に入った。

 二階について玄関の扉を開いて中に入ると人感センサーなのか、ライトがついた。

 とりあえず冷蔵庫に食材を突っ込み、自分の部屋にバッグやジャケットを置くとバスタオルと着替えを手に浴室へと向かった。

 お湯を入れてもいいと言われていたが、ここは遠慮して置くのが本筋だろうと思い、シャワーで労働の汗を流しているところで、テーブルの上においたホワイトボードを思い出した。

 言い出しっぺの自分が、次の日には忘れてしまうというトリアタマっぷりだが、まだ帰ってこないだろうという楽観的で自分に都合の良い認知バイアスを自分にかけて、裸のままでさっと浴室内に洗剤を振りかけてスポンジで洗い流した。

 もう一度自分にシャワーをかけて、浴室から出ると、かすかに物音が聞こえた。


 「やっば。まずい。このままじゃ、寺田さんがラッキースケベに逢っちまう。」


 わたしは急いでバスタオルで体を拭い、まだ汗が滲んでいる肌に下着をまとおうとしたところで人が通った時に出る風なのか、かすかにドアが揺れた。


 「だ、だめ!! まだ、まだ早い!!」


 わたしの叫び声と同時のノックがあった。


 「……やっぱり帰っていたんですね。ゆっくりと着替えていいです。多分そうだろうと思いました。リビングにいますので、終わったら声をかけてください。」


 ドア越しにも聞こえる深いため息に、きっとまた右手で目を覆ってるんだろうなと思いつつ、水気を吸って丸くなった下着を一度脱いで、ゆっくりと体の汗をタオルに吸い込ませた。

 

 

 ダイニングテーブルの上には真っ白なホワイトボードが置かれ、それを挟んでわたしと寺田さんが椅子に座っていた。


 「自分からお願いしておいて、申し訳ありませんでした。」

 「……」

 「改めて自分の頭の悪さを思い知りました。ごめんなさい。」

 「そこまでへりくだることはないです。まだ二日目なのですから慣れないのは仕方がないことです。次は気をつけてくれればいいことです。」

 「ほんまにすまん。」

 「いいですよ。じゃあ、次はわたしが入ってきますね。」

 「おう。」


 こういうシュチュエーションは本来、男女が逆なのではないか。

 なぜ見られそうになったわたしが寺田さんに怒られなくてはいけないのだろうか。

 そのような気持ちもないわけではないが、当初の約束を忘れた自分が一番悪いのだろう。


 「それにしても、やっぱり年齢が上がると経験値が上がって、ラッキースケベの回避率が高くなるもんなんだな。」

 「吉屋さんは反省してないだろ。」

 

 寺田さんはもう何度目かわからないため息をついて、目を覆った。



 このままわたしの株がストップ安にならないように夕食は頑張ることにした。

 下ごしらえはあらかじめ魚屋さんですませてあるカレイの身に包丁を十字に入れ、だし汁に酒、醤油、みりん、生姜を鍋に注ぎ、沸騰したところで火を止めてカレイを入れて落し蓋をして、中火にかけた。

 菜の花も終わりだと思ったので買ってきた。サッとおひたしにしたものとベーコンとニンニクと一緒にオリーブオイルで炒めたものを作り終わったところで、煮付けの落し蓋を外して、煮汁を上に何回もかけて照りを出した。

 最後にお味噌汁の具はなめこに水気を切った大根おろしを入れた。


 今日の風呂上がりの寺田さんは髪を崩していた。

 それはそれなりにいい顔だが、この人は中原くんとは違ってきっちりとした姿が一番美しい。

 冷静にイケメンを評価しているわたしだったが、当たり前ながら一ミクロンも心が動かない。 


 「どうぞ。」

 「これはいいですね。いただきます。」


 プシッ。


 寺田さんとわたしのビールのリングプルが開けられ、グラスに黄金色の液体が注がれた。

 二人で喉を鳴らして一気に飲み干した。


 「うまい。」

 「煮物の味はよかったかい?」

 「ええ、うちは東北の方なので、これくらい味付けが濃い方が美味しいですね。」

 「よかった。」

 「よく短時間でこれだけ作れますね。」

 「カレイの煮物なんて時間がかからないぜ。面倒な下ごしらえは魚屋さんでやってもらったしな。」

 「なるほど。」

 

 差し向かいで冷酒を差しつ差されつ、飯の感想を言いながら夜が更けてゆく。

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