第5話 おしごとおしごと

 朝からきちんと部屋やドア、玄関から廊下に至るルートまでを表計算ソフトのセルを組み合わせて図面起こしして、サイズを書き込んだメモを残してくれた寺田さんはわたしが起きる前に出勤していった。

 わたしの部屋はどうしたのかと思ったら、マンションの書類に部屋の見取り図があってそこから書き写したとメモがあった。

 低血圧傾向のわたしはぼーっとしながら電気ケトルのお湯をマグカップに注いだ。

 湯気が立ちのぼるマグカップの縁に口をつけた。


 「お湯じゃん。」


 カップを覗き込むと透明なお湯が湯気をくゆらせていた。 

 テーブルの上には包装パックのままの緑茶のティーパックが残っていた。


 「アホだ。」


 一人でツッコミを入れたが、面倒なのでそのまま白湯を飲んでテレビを眺めていた。

 一時間ほどそうしていると腹が鳴ったので、食パンとチーズをかじって朝食を終わらせた。 

 さらに歯ブラシをくわえながらスマホをぽちぽちとして、やっと着替えることにした。

 職場はユニフォームなので、通勤には何を着てもいい。

 サロンは基本、オーナーとわたしの二人だけで時折ヘルプにオーナーの友人が来るくらいなので、気を使うこともない。

 窓を開けると今日は晴れているけど、どことなく冷たい風が吹いている。

 わたしは自分の寝室の向かいの部屋に入り、萌黄色のシャツにふわふわしたミニスカートとレギンスを組み合わせて、ショート丈のジャケットを羽織った。

 リビングに戻ったわたしはメモに帰宅予定時間を書いて出かけることにした。


 きのうの家具専門店で店員を捕まえて、寺田さんのメモを見せた。

 店員がいくつか選んだ中から足つきのマットレスを選び、マットレスプロテクターを一つ、ベッドマットとシーツを二組買うことにした。

 全部まとめて発送をお願いして送料込みで寺田さんのお財布からお借りした分を加えた予算ぎりぎりだった。

 家具屋さんを出ると、ちょっと早い時間だったが一度戻るのも面倒なので、その足で職場に向かうことにした。


 満開だった桜の木も葉桜が目立つようになった。本当に桜の花は散るのが早いな。


 山手線で職場の近くの駅までゆき、こちょこちょと角を曲がると小さなビルの半地下階が職場のサロンだった。裏口がないので普通に入口から入り、靴を持って奥のスタッフルームに向かった。 

 細いロッカーの鍵を開けて、中に入っている臙脂のストレッチパンツと綿の白シャツのユニフォームに着替えた。

 来ていたお客さんが帰り、オーナーがスタッフルームに戻って来た。

 

 「おはようございます。」

 「おはよう。忙しかったんじゃない?」


 アラフィフの女性オーナーはナイジェリアとウェールズのハーフの母と日本の父のハイブリッドで一見すると日焼けしたスタイルのいい日本人といった趣の美人である。

 もともと外国(両親の出身国とは違うらしい)でわたしと同じ医療職をしていたのだけど、父親の国である日本に生活拠点を移すことを決めたそうだ。

 だけど医療職は世界共通のようでドメスティックな資格なので、彼女は日本の病院などでは職に就けないことを知り、身体のメンテナンスを行うお店をはじめたと中原くんから聞いた。


 そう、ここを紹介してくれたのは、あの淑女がよだれを垂らしそうなイケメン細マッチョで雄オーラ満載のオネエの中原くんである。 


 「ええ、まあ。ぼちぼち片付けて。」

 「のんびりとしててええんやで。」

 「大丈夫だよ。家具とか揃えなくちゃいけないから頑張るよ。」

 「んふふ。わかった。」


 オーナーのイングリットこと愛称インディさんはときおり謎方言を使う。たぶん旦那さんの影響だと思うんだけど、かわいいから許している。

 業務連絡をしていると今日はじめてのお客さんがやってきた。

 いろいろとカウンセリングをしてから、ウェアに着替えてもらい、治療台に横になってもらった。


 「腰が痛いんですよね。」


 銀座で綺麗なお洋服を着て、おじさまたちとお話をするだけの社交的なお仕事におもむく前にリラックスしたいというほんわかとした美女は腰に手を当てて、嘆いた。


 「それじゃあ、力を抜いていてくださいね。」と頼みつつ、片足づつ膝を伸ばした状態で上にあげた。

 特に痛みはないようなので、脊椎をひとつづつ軽く動かしてゆく。脊椎の神経に問題はなさそうだったが、これだけでも腰背部の緊張が少し落ちた。

 両手をクロスして、手のひら全部で左右の背筋の盛り上がりをゆっくりとやさしく、例えて言うなら食パンが千切れない程度の力で伸ばす。

 次に軽く指を立てて肋骨の一番下と柔らかい腹部の境目に当てて、もう一つの手のひらで腰をひねる。 

 そんなこんなで揉みほぐすのではなくって、骨と筋肉そして筋肉を包んでいる薄い膜を皮膚から優しく引き剥がすように緊張をとってゆく。


 はじめに治療台のうえによこになってもらった時にさっと流すように全身を観察すると左右で足の長さが指の太さ二本分くらい違うのが気になっていた。 

 お腹と腰の緊張をとっても指の太さ半分くらいは差が残っていた。

 上半身に目を移すと肩甲骨が若干上に上がっている。

 首のところから緊張を落としてゆき、時計を見るとあと半分くらいの時間が残っている。

 肋骨の一番下と背筋から指三本分くらい離れたところに軽く人差し指を当てた。


 「息を吸ってこの指を押し返すようにしてみてください。」

 「はい。」

 「右と左でちょっと圧が違うでしょ?」

 「う〜ん? あっ確かに。」

 「均等になるようにお腹に息を押し込んでください。」

 「ちょっと待って。これ、むずかしい!? あれ!?」

 「そうそう。いいですよ。じゃあ、仰向けになってね。」


 お客さんが仰向けになったところで足を見るとほぼ差がなくなっていた。

 失礼にならないように膝よりも少し上のところで足を持って軽く、リズミカルに足を前後に動かした。


 「あっ、これ、気持ちいい。」

 「股関節のリラクゼーションですよ。」


 本当はもっと色々と理由があるんだけど、こういうと大体の人が納得してくれるし、喜んでくれる。

 はじめの頃は色々と説明すると鬱陶しいっていう面(つら)されたよなぁ。

 病院と違ってこういうところはそういう理屈より結果が大事なんだとインディさんに言われたなぁ。


 遠い目をしながら左右股関節と膝関節を動かしてから、足底筋のストレッチをして、最後にお客さんの両方の人差し指をヘソの脇あたりの急に柔らかくなるところに自分で当ててもらい、そこに向かって息を吹き込むようにしてもらった。これも左右均等になるように感じてもらえたら成功である。

 これで体幹の筋肉の緊張が安定してくれる。


 ピピピというタイマーの音でおわり。


 お客さんが着替えている間にベッドに消毒剤のスプレーを吹きかけて、使い捨てのペーパータオルでざっと拭いた。

 そして自分の手を洗って消毒液のローションを擦り込んで、保湿の乳液をさらに塗り込んだ。


 「なんか軽くなったというより体が動かしやすくなった感じ。ああ、もちろん腰痛も無くなったわ。」

 「よかったですね。まだ軽くて済んでますけど、腹筋と背筋をもう少し鍛えないとすぐに腰にきますよ。」

 「こわ。」

 「簡単なトレーニングメニューのお手伝いもしていますので、よろしければどうぞ。」

 「トレーナーなの?」

 「ん〜。何でも屋さん?」

 「彼がアマチュアのロードレースをしているの。自転車の。大丈夫かな? 」

 「あ〜 うち女性オンリーなんすよ。女二人でしていますから。」

 「そっか。残念。」

 「お客さんならいつでも大歓迎ですよ。」

 「ありがと。」

 「お疲れ様でした。」


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