第七章 4
次の日、目を覚ますとそこはいつもの部屋ではなかった。
畳ではなく白いリノリウムの床が部屋一面に広がっている。
いつもの煎餅布団ではなく、白いシーツが敷かれた手すりのないパイプベッド。
窓はなく、壁もドアも天井も、そこに置かれている家具や調度品もすべてが真っ白だった。
「ここは……どこだ?」
しばらくいまの状況が把握できなかった。
掛け布団を押しのけ、上半身を起こす。このとき初めて自分の身体にいろいろと装着されていることに気づいた。
頭に取り付けられたVRゴーグル以外に、センサーらしきものでびっしり埋まったシャツとズボン。手にはグローブがはめられている。おそらくはいている靴下もなんらかのセンサーが組み込まれているのだろう。
なんとなく違和感を覚え、股間に手をやった。そこにもなにやらつけられている。これは……?
すると背後から、聞いたことのある声が聞こえてきた。
「お疲れ様でした、島浦さん。二年半もの間、栄養補給のために点滴を打ったり、下の世話をヘルパーさんに頼んでやってもらったり、大変でしたよ」
声のする方に振り返ると、そこには白衣に包まれた久我の姿があった。
久我は口元に意地の悪い笑みを浮かべ、島浦を凝視している。
「久我さん、健康診断を受けたら、実験は終了ということでよろしいんですよね?」
島浦は怒りに討ち震えながらも努めて冷静に、静かな口調で聞いた。
「ええ、健康診断を受けていただければ、島浦さんを解放いたします」
ずっとニヤニヤしている。島浦は殴りかかりたい気持ちをグッとこらえる。。
「その前にお断りさせていただきます。解放後はこれまでのこと、当然他言無用ということでお願いします。もしその約束を守っていただけないのであれば、力ずくで元いた世界に戻すだけのことです」
そんなことは絶対にさせない。しかし、どうやって……?
「ただ、もしうっかりこれまでのことを誰かにしゃべってしまっても大丈夫なように手は施してあります」
久我は満面に笑みを浮かべている。
「あなたは二年半前に事故にあったことになっています。あなたのご両親やお友達の、ええと、大宅君って言いましたっけね? 彼もお見舞いに来てくれました」
父さんや母さん、大宅がここに来たって? 変なゴーグルをつけているってのにおかしいことに気づかなかったのか?
「あなたは二年半前の健康診断の後、研究所を出た直後に交通事故に会い、意識不明の重態ということになっています。ヘッドマウントディスプレイについては脳波測定用だと言っておきました。みんな信じ込んでましたよ」
そんなんでみんな信じるんだ……。島浦はショックを隠しきれない。
「はたから見れば、本当に意識不明の植物状態に見えてましたよ。だから点滴を打つことも、ヘルパーさんに下の世話をしてもらうのも、ごく普通に何の疑いもされずにやってもらうことができました。我ながらいい言い訳を考えついたものだと感心してます」
久我の悪びれない言い草。島浦はの怒りは頂点に達しようとしていた。
しかし、未来との約束をふと思い出す。健康診断が終わるまでは行動に移してはいけない。拳を握り締めたまま唇を噛んだ。
あれ? そういえば……
「未来は?」
島浦は辺りを見回したが未来はいなかった。
「大丈夫です。別室で健康診断を始めてもらってます。時延さんは女性ですから、健康診断を島浦さんと一緒に行うことはできませんからね」
チッと舌打ちをする。とはいえ、正論だけにそこはどうしようもない。
だけど、このままでは一緒に逃げることはできない。
なんとかして未来の居場所を探し当てなくては。
「取り敢えず、健康診断の場所へご案内します」
仕方なく久我の後をついていった。
健康診断の内容は、以前とまったく同じ。
何事もなく、最後の脳のMRIを終えると、微かに見覚えのある部屋に通された。
ここは……?
二年半前に、久我と未来と三人で会っていた場所……
仮想世界での生活が始まったあのときの……
「これで帰れるんですよね?」
部屋に入るなり、ドアも閉めずに久我に聞いた。
「まあ、そう焦らないでください。島浦さん、あなたはいま、植物状態であることになっているので、すぐに返すわけにはいかないんですよ。そんなことちょっと考えればわかりますよね?」
クソっ、何をニヤニヤしていやがる。気に入らない。島浦はイラついた。
「あ、そうそう外に出るには、通路の先のドアを通らないといけないんですが、指紋認証が必要ですからね」
予想通り。久我は最初の約束を反故にするつもりだ。
「時延未来はどこだ?」
久我を睨み、聞いた。
久我は質問には答えない。その代わりに立ち上がり、島浦を押さえ込もうと襲いかかってきた。
しかし島浦には久我の動きがまるでスローモーションのように見えた。
逆に久我を羽交い絞めにする。なんだ、簡単じゃないか。島浦は自分で自分の動きに驚いた。
そしてもう一度
「時延未来はどこだ?」
と聞き直す。
久我は捕まりながらもニヤニヤと笑っている。
「何がおかしい?」
すると、久我は予想外のことを口にした。
「おめでたい人ですね。頭の回転が早くなったからと言って、賢くなったわけではないようだ。島浦さん、時延未来が本当にあなたのことを好きだったと思いますか?」
久我のその言葉に島浦は動揺した。
「壮大な実験にご協力いただき本当にありがとうございました。これから、これまでの実験の全貌を簡単にご説明いたします」
久我はそこで一旦深呼吸をする。そして実験の全貌を語りだした。
「時延未来はひとりではありません」
なんだって……? 島浦は混乱した。
「島浦さんがずっと一緒にいたと思っている時延未来は、実は複数の女性が演じていたのです。正確にいうと半分は時延未来本人で、あとの半分はアルバイトの女性数人が交代で演じていた」
久我が淡々と説明するが頭に入ってこない。どういうことだ? 未来が一人じゃないって……?
「時々人が変わったように感じませんでしたか? 見た目が同じだと、簡単に人はダマされるもんですね。なんせ四十七年もダマされ続けたんですから」
そう言って久我は高らかに笑った。
「目的は……なんだ?」
久我を羽交い絞めにしながら尋ねる。
「何人もの記憶を共有したとき、人はどうなるのか? 彼女はそんなことを実験してみたかったようです」
ようです……? なんでそんな他人ごとみたいな言い方なんだ?
「これは時延本人がやりたいと言ったことです。決して私が強要したわけじゃありません。他に実験台になってくれる人がいなかったので、時延本人が自ら手を上げて実験台になった。それだけのことです」
実験台……自分をモルモットにした……研究者ってのはそんな簡単に自分自身をモルモットに仕立て上げられるのか?
「その結果、あなたと四十七年間の夫婦生活を全うできた。めでたしめでたし。簡単に説明するとそういうことです」
久我の表情がますます意地悪くなったように見える。
「だから時延があなたと協力してここを脱出しようなんて計画をもししていたとしても、期待しない方がいいですよ。彼女はむしろ実験を継続したい人なんですから」
ゲーム世界の中で、未来のことだけはずっと信用してきた。
時々何かおかしいと感じることはあったけれど、人間なのだから感情の変化はむしろ自然なことだと思って、今日まで過ごしてきた。
久我の発言を全面的に信用したわけではない。
四十七年間、共に愛し合ってきたと思っていた女性が、実は複数の異なる人間による演技だった。そんな複数の人格を持った女性を愛していた。
自分の気持ちを裏切られたことに島浦はショックを隠し切れなかった。
「うおおおおお」
島浦は感情が高ぶり、プロレス技を仕掛けるかのように久我を締め付けた。
そのときふと、久我のズボンの両前面ポケットが膨らんでいるのが気になった。
反撃されないよう片腕で久我を押さえつけたまま、もう片方の手で左右のポケットをまさぐる。するとスマホが左右両方から一台ずつ出てきた。
片一方は見覚えのあるやつ、島浦がずっと使っていたものだ。
久我は先ほどまでのにやけ顔から一変して、しまったという顔をしている。そして島浦の腕を振り払おうと暴れた。
暴れる久我を片手で押さえつけながらスマホを操作する。
アドレス帳を確認した。どうやらそのまま残っているようだ。
バタン。
スマホをいじっていると、先ほど久我が話していた指紋認証を必要とするドアの方からなにやら音が聞こえてきた。
島浦はその音に気を取られ、久我を羽交い絞めにしていた腕を緩めてしまった。
しまった!
その隙に久我は、するりと腕から逃れる。
さらにスマホを持っていた方の手を思い切りはたいてきた。スマホが床に転がる。
二人がそんなことをしている間にも、ドアを開けて入ってきた人物が島浦たちのいる部屋に近づいて来るのがわかった。
やがて開いたままの部屋のドアから、女性が近づいてくるのが見えた。未来だ。
「未来……」
島浦は微かに笑みを浮かべながら、久我と同じ白衣を着た未来のいる方に近づこうとする。すると、優しい表情をした未来が一言呟いた。
「いっちゃん、ごめんね」
「何を謝ってるの? 僕が久我さんを抑えてるから、未来は早く逃げるんだ。未来は指紋認証、問題なく通れるんだろ?」
しかし未来はさらに暗い声で
「ごめんね」
と繰り返すばかりだ。
「久我君からもう聞いてるかもしれないけど、二年半、いや四十七年間のあなたとの生活の半分は私じゃなかったの。半分はアルバイトの子で、もう何人にやってもらったかわからないくらいの人に時延未来を演じてもらったわ」
島浦は声が出なかった。まるで金縛りにあったかのように全身が動かない。
「ただこれだけは信じてほしいの。最初は実験のために始めたいっちゃんとの生活だったけど、四十七年間一緒にいて、すごく楽しかった。いっちゃんのことホントに好きになっちゃいそうだった」
島浦はようやく声を振り絞って、未来に言った。
「だったら、これからはこの現実の世界で、二人で楽しく過ごしていこうよ」
島浦の左目の端から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「ごめんね」
未来は真っすぐ立ったままうつむいている。両拳を握り締め、三度同じ言葉を繰り返した。
未来も泣いている。しばらく部屋の中は静寂に包まれた。
しかし、その静寂はすぐに『くっくっ』という嗚咽とも笑いとも取れる声に取って代わった。
声は未来から聞こえてくる。
「久我君、何してるの? 早くこの男を捕まえなさい」
先ほどまでの優しい繊細な声とは打って変わって、低くくぐもった声音をした未来が、右手人差し指を島浦に向け言い放った。
表情も先ほどまでの涙を流して、悲しそうにしていた顔から、鬼のような形相に一変していた。
「なあ未来、それってただの言い間違いだよね? 僕が久我さんを捕まえる、の間違いだよね?」
いま起きていることを信じたくなかった。
未来は島浦の方を向き、にやっと笑う。
「何やってるの? 久我君。早くこいつを捕まえて、ヘッドマウントを被せなさい」
その表情はとても正気のものとは思えなかった。
「ハハハハ、時延ではない別の人格が現れたようですね。先ほどお話したアルバイトの方の中にはですね、えらく攻撃的な方もいたんですよ。その方、最近口論の末、母親を刺してしまったらしくて、いま拘置所にいるんです。どうやらその方の人格が現れたようですね」
久我は島浦の方に駆け寄って、羽交い絞めにしようと試みる。
しかし、島浦には久我の行動がスローモーションにしか見えなかった。逆に島浦は久我を羽交い絞めにする。
「十八倍の速度で進む世界に住んでると、この世界の動きが十八分の一にしか見えない。これはすごい進化です。久我さん、あなたが私を捕まえるのはもはや不可能だと思います」
島浦は久我に言い放った。
しかしその直後、暴れ始めたのは久我ではなく未来だった。
どこから持ってきたのか右手にメスを握り、振り回しながら島浦と久我のいる方に近づいてきた。
「大勢の人格がごちゃまぜになったせいか、正気を保てなくなってしまったようですね。たくさんの人が『時延未来』を演じたことで、たくさんの人格が彼女に備わったようです」
久我は島浦に羽交い絞めにされながらも妙に楽しそうだ。
「さすがにアルバイトの皆さんは一人ひとりがほんの数回程度のアクセスだったので人格に影響が出るほどではなかったようです。しかし時延は少なくとも一日の内の半分以上はバーチャルの世界にアクセスしてました。だから、いろんな人格が備わったようです」
いまの未来は……未来ではない。じゃあ、誰なんだ?
「これで人工的に多重人格者が作れるということが証明されたわけです。彼女の実験は成功です」
久我は暴れる未来を見ながら嬉しそうに話した。さらに話しは続く。
「しかし島浦さん、あなたに関しては、まだまだ実験を続ける必要があるのです。なんせ、バーチャル世界での生活を続けることによって、人の寿命がどう変化するのかを見たいと思っているのでね。ご協力よろしくお願いしますよ」
久我は押さえつけられながらもニヤニヤして言った。
「島浦さん、そろそろ眠くなってきたんじゃないですか? この世界で目を覚ましてからちょうど一時間くらいになります。いつもでしたらそろそろ寝る時間ですよ。向こうの生活リズムに慣れてしまったあなたの場合、自然と意識を失ってしまうことになると思いますけどね」
久我は勝ち誇ったように言い放つ。
「時延先輩、すいません。お二人の進化した能力に僕、ついていけないんですよ。女性である先輩にお願いするのは気が引けるのですが、この僕の後ろにいる男、先輩の方で捕まえてもらえませんか?」
今度は未来に向かって話しかける。
暴れまわっていた未来は、その動きをピタッと止め、島浦と久我の方を向いた。
左口角を吊り上げるようにしてニヤッと笑いを浮かべる。そして、何か言葉にならない叫び声を発しながら島浦たちの方に突進してきた。
危ない! 危険を感じた島浦は久我を押さえつけていた腕を解き後ろに飛び退いた。
その一瞬後、目の前に赤い液体が、まるでスプリンクラーのように飛び散った。
未来を見ると上半身が赤く染まっている。
久我は床に横たわっていた。
未来の持っていたメスが久我の喉元を貫いたのだ。
未来はさらに興奮度合いを強め、先ほどにも増して暴れだした。
そして今度は、部屋の中にある棚の中からアルコールと書かれた容器を取り出し、蓋を開け、中のものを部屋中にばら撒き始める。
どこから見つけてきたのか、ライターを持ち出し、自分の着ているものに火をつけた。
島浦は狂気の表情に満ちた未来を哀れな気持ちで、しばらくボーっと突っ立って眺めていた
熱さが増してくる。島浦はたまらず部屋を出た。
いまいた部屋のドアを閉じると、中で『ボン』と大きな音が鳴るのが聞こえた。
建物中に警報が鳴り響く。
指紋認証を必要とするドアの向こうでは、建物の中にいた職員たちが、一斉にわらわらと出口に向かって避難を始めている様子が感じられた。
「ちくしょう。誰か開けてくれえ」
島浦はどんどんとドアを叩いた。
しかし、ドアの向こう側で逃げ惑う人々には、その音が聞こえないのか、重いドアは頑として開かない。
必死でドアを叩き続ける。後ろの方で再び先ほどよりも大きな『ボン』という音が鳴るのが聞こえてきた。
先ほど閉めたドアが爆風と共に吹き飛ぶ。それに一瞬遅れて、天井のスプリンクラーが作動し始めた。
急激に煙を吸い込んでしまったからか、それとも修身の時間が来たからか、島浦の意識はだんだんと遠のいていく。そして、ドアを叩いていた右拳をドアに滑らせながらその場に崩れ落ちた。
その瞬間、火事による安全装置の働いたドアが勝手に開いた。
頭だけドアの外に出した状態で横たわる。
「島浦あ」
誰かが島浦の名前を遠くで呼んでいる。朦朧とした意識の中、島浦はその場で頭をガクッと落とした。
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