第七章 1
その後久我が現れることはなかった。時延未来と島浦の二人はその日一言も発しないまま一日を終えた。
普段ならここでデータを保存するかどうか聞かれる。そして保存が完了すると
『現実世界に戻りますか? この世界に留まりますか?』
というメッセージが出て、どちらかを選択できるようになっていた。そして
『現実世界に戻る』
を選択すると、画面が真っ暗になる。続いて、ヘッドマウントディスプレイに付いているヘッドホンのノイズキャンセラーが切れ、外界の音が聞こえるようになるのだ。
もしもゲーム世界に留まりたい場合は
『この世界に留まる』
を選択する。視界は暗くなるものの、うっすらとゲーム世界の中の島浦の部屋が見えた状態。ヘッドホンのノイズキャンセラーは切れず、次第に島浦自身の電池が切れたかのように意識を失う。
しかし、この日はこの現実世界に戻るか、ゲーム世界に留まるかの選択権が与えられなかった。そして、自然に意識を失う。
その後、現実世界における二十分、つまりゲーム世界における六時間後には、強制的に目覚めさせられた。
このままこの繰り返しの生活が続くのだろうか?
なんだか気が狂いそうだ。
時延未来も眠りにつく前と変わらず存在している。
彼女も自分と同じように強制的にこの世界から抜け出せないようにされているのだろうか?
このままふて腐れて、何もしないままでいても仕方がない。
そう思い直し、島浦は時延未来に話しかけた。
「この後、僕たち、どうなるのかな?」
時延未来は流しの前に立って、何か洗い物をしている。声をかけるとこちらを振り返り、にっこり笑って答えた。
「わからないわ。未来のことがわからないのは現実世界もこの世界も同じよ」
島浦は愛想笑いを……する自分を想像した。
「イベントをしてた時の時延さんもNPCじゃなかったんでしょ?」
島浦はずっと気になっていたことを単刀直入に質問した。
時延未来は少しもじもじしながら、小さく首を縦に振った。少し不自然な笑みを浮かべている。
「提案があります。私たちこれからしばらく一緒に暮らしていくんです。いまからお互い下の名前で呼び合いませんか?」
なんだか恥ずかしそうにしている。
これからしばらく……か。
恥ずかしそうにする時延未来の仕種よりも、島浦はその言葉に引っ掛かった。
「わかりました、これからは未来さんと呼ばせていただきます。未来さんも僕のことを下の名前で呼んでくださいね」
島浦は精一杯の笑顔で答えた。
「さん、はやめてください。いまから敬語も厳禁にします。」
さすがにそれは……恥ずかしいな。でもまあチャレンジしてみるか。
「わかった、未来」
島浦は照れながら返答した。顔が赤くなっていないかとヤキモキする。
一方、未来は恥ずかしそうに下を向いて、ボソボソなにやら小声でつぶやいている。
「一郎、一郎くん、一郎さん、いっちゃん……」
そこまで言い終わると再び顔を上げ、満面の笑みで言った。
「いっちゃん、でいいかな?」
少しはにかんでいる。
そういやこれまで、母親以外の女性から下の名前で呼ばれたことなんてなかったよな。なんだか少し恥ずかしい。ま、そのうち慣れるだろ。
「いいよ」
それからは新婚夫婦のような二人の生活が始まった。
しかし、これは現実世界での話ではなく、バーチャルの世界。
一緒に出掛けたり、おしゃべりすることはあっても、一緒に食事をしたり、一緒にお風呂に入ったり、ましてや……
島浦はこれからの二人の生活を想像した。
これはバーチャルの世界、現実とは違う。現実の世界に戻ってこういった生活ができればいいのにな……
そんなことを考えていると、いつの間にか未来が島浦の顔を覗き込んでいた。
「何、ニヤニヤしてるの?」
笑いながら話しかけてくる。
はたから見れば、仲のいい新婚夫婦に見えるだろう。
未来の喜怒哀楽の表情は豊かだ。しかし、これってコンピューターはどうやって判断しているんだろう?
島浦の感情が未来にどう見えている? ニヤニヤしてるかどうかなんて、どうしてわかるんだ?
疑問は尽きない。しかし、そんなことを未来に行っても仕方がない。島浦は笑顔で
「別に」
といかにも何も気にしていないというふうに返した。
「今日は何しようか?」
「そうだね。いっちゃんが普段行ってる学校に行けないんだもんね」
現実世界の休みの日は、自分の部屋でゲームばかりしていた。しかし、平日はほとんどサボることなく授業に出ていた。
他にすることがなかったというのもあるが、学校で授業を受けて、新しい知識を得ることに喜びを感じていたことは確かだ。
だから、学校に通うことはむしろ好きな方だった。
しかし、ゲーム世界から抜け出せなくなってしまったいま、どうあがいても学校に行くことはできない。
この世界に学校というものがあれば、話は別だが。
……
あれ? もしかして?
僕はもぞもぞとポケットからスマホを取り出した。
「いままでこれで久我さんと連絡取ってたんだけど、もしかして現実世界のインターネットに普通に接続できたりして?」
独り言のように、しかし、未来にはちゃんと聞こえるくらいの声で呟いた。スマホの電源をオンにする。
「一応私も主催者側の一人だから、その辺の事情はよく知ってるわよ」
期待通りの答えだ。
「この世界からもインターネットには繋がるようになってるわ。そのスマホ、アンドロイドOSが入ってるから、普通にアプリをダウンロードして実行すれば大抵のことはできるようになってるの。この世界はウィンドウズがベースだから、アンドロイドはエミュレートされてるだけだけどね」
だったら現実世界と連絡が取れるじゃないか。
「最近はオンラインの学校とかあるから、それで学校に行ってるのと同じように勉強できるかもね」
いや、そうだったらのんきに勉強してる場合じゃないでしょ。なんとかこの世界から抜け出す手段を考えないと、と島浦は考える。
これまでこのスマホではメールアプリ以外立ち上げたことがない。いろいろ試してみる価値はありそうだ。島浦は画面を操作し始めた。
現実世界では手で操作しているところを、アイトラッキングを駆使して操作をする。
しかし、メールアプリ以外のアプリがどこにも見当たらなかった。
これでは他のアプリをダウンロードしたくてもできない。
「メールアプリしか入ってないから何にもできないよ」
投げやりな口調でいうと、未来が
「ちょっと貸して」
と言ってスマホを島浦から奪い取った。
「実は隠し設定があるの。デフォルトではアプリストアが見えない設定になっているでしょ。それでね、こうすれば、ほら」
未来はそう言って、アプリストアを立ち上げてみせた。
「おお、ホントだ」
これで現実世界に戻れる。島浦は興奮した。
「ただ気をつけなくちゃいけないことがひとつあるの」
島浦の興奮を落ち着かせるように未来が話しを続ける。
「受信は無制限にできるんだけど、この世界から現実の世界に送信することは一切できない……」
島浦は未来の発言の意味を考えている。
「つまり……」
「つまりね、メールソフトやなんかで、この世界内でのやり取りはできても、現実世界のメールアドレスにメールを送ることはできないの。それにフェースブックやツイッター、ラインといったSNSのようにユーザー登録を必要とするものは、ユーザー情報を送信することができないから使えないわね」
つまり、外の世界と連絡を取ることは不可能……
「アプリストアもホントはユーザー登録が必要だけど、これだけは研究所の特別なアカウントを使ってアクセスできるようになっているの。ただそのアカウントは私たちには非公開だから、実質使うことは不可能ね」
「そうすると、こちらからデータを送るようなものは全部ダメってこと? 検索すらできないような気がするけど」
未来は首を横に振った。
「個人情報を与えるようなものじゃなければ大丈夫。SNSは個人情報を登録して個人間でやり取りするものだからNG。検索やアプリストアは個人情報って言ってもメールアドレスくらいでしょ? それくらいだったら全部タイムマシン社のものに変換されてから登録されるだけだから、外からは誰もいっちゃんだと気づけないわ」
どんなサイトでもこちらからリクエストを送ったりするわけだから、ただ表示するだけのサイトでも多少のやり取りはある。でも、それは何か個人情報を登録するわけじゃないから大丈夫、ってことか。
「クレジット情報が必要になるものなんかは当然ダメだし、無料のものでもユーザー登録が必要なものは無理。現実世界のお友達に連絡することはもちろん、インターネット上の学校なんて大抵無理かもね」
残念そうに島浦の顔を見ながら言った。
「そっか」
島浦も残念そうにつぶやいた。
「オンラインゲームなんかもたいていのものは無理か。一方通行だと暇つぶしも大変そうだな。久我さん、用意周到だな」
島浦は背中に寒気を感じた。
絶対に現実世界とはアクセスできないようにすることで、未来や島浦が他の誰かに助けを求めることができないようにしている。
いま頃、現実世界では島浦が持ち歩いているスマホを使って、親や大宅に心配しないよう定期的、あるいは不定期に連絡を取ったりしているのだろう。
恐らく久我なら他人のパスワードを解析するなんてことは朝飯前だ。もう既に島浦のパスワードなんて、すべて把握しているのではないだろうか?
現実世界にはもう戻れない。そんな諦めの気持ちが島浦を支配し始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます