第五章 4

「どういうことでしょうか? 仰っている意味がよくわからないのですが」

「私のメールに時延から連絡があったのですが、同じ犯人から狙われているから助けてほしいと。それで島浦さんには、今度はゲーム世界で時延未来を守っていただきたいのです」

 時延未来は一度何者かに誘拐された。それを僕が研究所の二階で救出した。

 誘拐した奴が再び彼女を奪い返しに来るのは、なんとなくわかる。

 とはいえ、それはゲームの中での話だ。現実世界とゲーム世界がどのようにリンクしているというのか?

 そして、なぜ彼女を守るのが自分でなければならないのか?

 それにどうやって彼女を守れというのか?

 質問をしようと口を開きかけたが、久我は発言のチャンスを与えてくれなかった。

「島浦さんだけ無制限にアクセスできる設定は、そのまま残してあります。できるだけ彼女と一緒にいてあげてください。そして、彼女を守ってやってほしいのです」

「ちょっ……」

 言いかけたが、すでに久我は電話を切っていた。

 折り返し久我に電話をする。話し中だ。いったい、どこにかけているのだ?

選択の余地はない。

「仕方ない、やるしかねえか」

 なんだか煮え切らない思いはあったが、二リットルペットボトルの水を直接ラッパ飲みし、トイレを済ませると部屋に戻った。

 ヘッドマウントディスプレイを装着し、深呼吸をする。

「よし」

 自ら言い聞かせるように気合いを入れた。

 ゲームを再開すると、先ほどと変わらず、時延未来の姿がそこにあった。

 服装は上がピンクのTシャツ、下は蝶々型のキラキラしたビーズが右太腿部分に散りばめられたブルージーンズというラフな格好に変わっている。

「おはよう」

 時延未来はこちらをじっと見つめている。

 彼女の爽やかな笑顔を見ていると、いま自分に託されている任務をすっかり忘れてしまいそうだ。

「おはよう」

 島浦の笑顔が彼女の目に写っているのかどうかはよくわからない。けれど精一杯楽し気にあいさつを返した。

 何気なしに視線をちゃぶ台の方にやる。すると、自分のスマホがピカピカ点滅して、メールの着信を知らせているのが見えた。

 はやる気持ちを抑え、ゆっくりとメールを開く。

 差出人は『人類の救世主』と名乗る人物。もしかして、時延未来を狙っている奴か?

「ちっ、何が『人類の救世主』だ。気取りやがって」

 この『人類の救世主』が実在する人物なのか、NPCなのかはよくわからない。

 そもそもこれから一緒に逃げようとしている時延未来が実在する人物なのかすらわからないし、現実世界で起きている事件とどう関わっているのかもわからない。

 自分はこれからいったい何のために、何をしようとしているのか?

 島浦は混乱した。一度深呼吸をして、頭の中を空っぽにする。

 それからゆっくりとメールの本文を読み始めた。そこには次のように書かれていた。

『時延未来を渡せ』

 しばらく動けなかった。考えがまとまらない。メールを見つめたまま時間がいたずらに過ぎていった。

「そうだ、動かなきゃ。いまは動くしかない。僕の役割はゲーム世界の時延さんを守ることなんだ」

 島浦は自分にそう言い聞かせた。

「いまから逃げよう」

 すると時延は状況をちゃんと理解しているのか、こちらをじっと見つめながら

「はい」

 と静かな声で返事をした。

 島浦はすっくと立ち上がる。

 立ち上がったはいいがどこへ行けばいいかわからない。

 考えていても仕方がないと時延に相談を持ちかけた。

「どこに逃げようか?」

 すると時延は少し考える素振りをした後

「久我さんを訪ねてみましょうか?」

 と答えた。

 しかし、誘拐を計画している者から逃れるのに、相手が想像しやすい場所に行くのはまずくないか? と島浦は時延の案を否定する。

「いや、誘拐犯が想像しないような場所の方がいいだろう。最初は目的地を決めずに適当に動き回ってみよう」

 時延の目をじっと見つめる。思いが通じたのか、時延は小さく頷いた。

 島浦がドアノブに右手をかけると、宙ぶらりんにしていた左の手をギュッと何かに握られる感覚がした。

「えっ?」

 振り返ると時延未来が島浦の手をギュッと握りしめていた。

 触覚フィードバックといって、手袋などにセンサーや震える装置を着けて、ゲーム内で受けた感覚を体感できるようなものがあるというのはネット上で見たことはある。

 しかし、今そういったものは着けていない。

 ヘッドマウントディスプレイだけでは触覚に訴える感覚を感じることはないはずなのに 、彼女の暖かい手の温もりを感じた。

 しかし、今はそんなことを考えている場合ではないと、再び玄関方向に顔を向けた。そしてドアを開け、時延をつれて外に出る。

 現実世界の時間はもう夜の十時頃だというのに、この世界では目がくらむほどの眩しい太陽が照りつけていた。

 誘拐犯はどこからか自分たちのことを観察しているのだろうか?

 このデジタルの世界ではどこに逃げたとしても、GPSのように位置情報を追跡されているかもしれない。

 だとしたら逃げ回ることに何の意味があるのだろうか?

 そんな考えが島浦の頭に浮かんだが、とにかく何か行動を起こすことが大事だと思い、アパートの階段を小走りで下りた。

 いつものように大家の弟が庭の植物たちに水を撒いている。

「おはようございます。行ってらっしゃい、今日はどちらまで行かれるんですか?」

 大きな声であいさつと質問をしてきた。

「おはようございます、行ってきます」

 島浦はそれだけ言って、振り向きもせずにその場を立ち去った。

 大家の弟はまだ何かしゃべり続けていた。しかし、その声もだんだん遠くへと消え去っていく。島浦は時延をつれて無我夢中に移動し続けた。

 途中、おばあさんのいる商店街を抜け、さらにおじいさんを作った機械のあった公園を抜けた。その先はこれまで一度も見たことのない世界が広がっている。

「いったいこの世界はどれくらいの広さを持っているのだろう? 今はどれくらい移動したのだろうか?」

 自分の実際の足を使って動いているわけではないので、体力的な消耗はあまり感じない。しかし、アイトラッキングを利用して、目でずっと進行方向を追っているので、目の前が少し霞んでくるのを感じた。

 現実世界の自分は、恐らく相当目が乾いているのではないか?

 一度戻って、目薬の一滴でも落としたい衝動に島浦は駆られた。

「少し休もうか?」

 時延の方を振り返り、提案した。

「はい」

 時延は小さく首を縦に振りながら、小声で答えた。

 その場に立ち尽くしながら辺りを見回す。

「ここはいったいどこなんだろう?」

「私にもわかりません」

 時延はいつの間にそこにいたのか、足元の子猫の頭をなでていた。

「私は皆さんの健康を測定して、診断するだけの一研究員に過ぎません。なので、この世界がどうなっているかまでは把握していないのです」

 時延未来は同じ研究員でも、久我と違ってプログラミングはしないらしい。

 ゲーム内の企画作成にも特に関わっていないとのことだ。

 だとすれば、モニター主催社側の関係者といっても、ゲームの中身のことまではよく知らない、というのは当然だろう。近年の重厚長大なゲームで仕事の分担制は常識だ。

「この子、つれてってもいいですか?」

 子猫を抱きかかえながら、屈託のない笑顔で嘆願する。

 こんなときに……

 島浦はそう思ったが、この笑顔には勝てそうになかった。

「そろそろ日にちが変わります。私たちも寝る場所を確保しないといけませんね」

 時延は島浦が猫の件の返事をする前に切り出してきた。

「そうだ。ここまで時延さんと一緒に、必死になって逃げてきたけど、時間になったらいつもの部屋に戻されるのでは? だとしたら、ここまで二人して逃げてきたことに何の意味があったのだろう?」

 ここまで『逃げる』ことばかり頭にあり、このゲームの基本的なルールのことをすっかり忘れていた。

 そんな考えが島浦の頭の中をグルグルと巡った。

 すると案の定、目の前が一瞬真っ白になり、次に明るくなったときには時延と共にいつもの部屋に戻っていた。

「仕方がない。一旦ここまでの内容を保存して現実世界に戻るしかあるまい」

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