出立-06
(久し振りだなぁ……)
柔らかい表情で、スラベルは窓の外を見つめる。
長期滞在者用に用意されたその部屋には、服を干すための小さなテラスが備わっている。
もっとも、宿の建物のすぐ背後にそびえ立つ岩壁のせいで、景観は良くない。
それでも、圧迫感と窮屈さを与えるはずのその岩壁をみて、スラベルは思い出に
(どうしても思い出しちゃうっすね……)
それまでがあまりにも苦しかったせいか、この部屋で思い出すのはいつもそれ。
弱さと世の汚さを痛感し、強さを求めたあの頃は、どうしても苦しかった。
それを乗り越え始め、少しだけ自分を認めてくれた時、この部屋で2回目を迎えた。
苦痛と屈辱しか無かった初回に比べて、2回目は甘く優しく、そして……
似合わないっすねぇと思いながら、ある顔が浮かんで――――離れない。
(あの人は今頃、帝国で何をしているんだろう?)
自らを鍛え、そして本当の自分を取り戻してくれたその顔。
スラベルは師匠たるその相手を探すために、旅を続けていた。
「ここ……は?」
弱々しい声の主は、まだ琥珀色。
「まだ寝てなきゃだめっすよ」
身を起こしたリュミを、優しくベッドに寝かせる。
ベッド脇で夕焼けに照らされたスラベルの横顔が、美しく映える。
「ここはララさんの宿っす。あたしがよく使う宿だから、安心できるっすよ」
リュミの身体に落ちた濡れタオルを、優しい姉のような仕草で拾い、水桶に
きつく絞られて落ちる水音が、優しく部屋を満たす。
「師匠に鍛えられていた半年間、ここでお世話になってたっす」
井戸水に浸されたタオルが、額を心地よく冷やしていく。
琥珀の瞳が、僅かに優しく和らいでいく。
「お知り合い……なのですね」
「ララベルさんは、あたしの事ベルって呼ぶっす。名前が似てるからっすね。あたしはララさんって呼んでるっす」
その表情が優しいものだと感じたリュミは安堵し、身体から力を抜いてく。
少し硬いシーツだが、マット自体の柔らかさが心を落ち着ける。
「申し訳ありません。
謝罪の言葉に、スラベルは様子を変えない。
「良いっすよ、それは後で」
スラベルはリュミのベッド脇にある椅子から立ち上がる。
「ご飯の準備を手伝ってくるっす。リュミちゃんはしっかり寝ておいて下さい」
今朝、彼女が自分よりも早く起きていた事を思い出し、スラベルはそう付け加えて部屋を後にした。
警戒し疲れたのだろうと、スラベルはその時、思っていた。
「ほいよっ」
階下に降りてきたスラベルに、ララが小さな鍵を投げる。
それは、この国の宿屋全てのルール。
場所は宿ごとに異なるが、武器は宿屋の1箇所に預ける。
その鍵は武器を収める箱の鍵。
もっとも、スラベルの巨剣は鎖に繋がれているのだが。
「いつも通り、背中のそいつはそのままで良い」
「なんかあったら、ドルさんとグランさんの替わりはやるっすよ」
「頼りないねぇ」
2人は微笑みあった。
ララベルの宿は、確かに交易路沿いの安宿。
しかし、その作りはしっかりしており、何よりも清潔感が漂う。
父の時の廃屋1歩前を知る者からすれば、まるで別のものだと錯覚するほどだ。
ララベルは自分の人生を変えるために、この宿を生まれ変わらせた。
それまでの常連はならず者たちばかりだが、それでも信頼できる者は居た。
手斧が似合いすぎる、ドルと言う名の屈強な男。
グランという名の、影のようなナイフの名手。
ララベルは宿の用心棒として、2人を雇い入れる。
ドルは人当たりもよく、陽気な男で、強面ながら酒場を賑わす。
一方グランは目付きが冷たく、部屋の隅で酔っぱらいの馬鹿が行き過ぎない様、監視する。
ララベルに惚れていた2人は、彼女の大切なものを守るため奮起した。
商人や一般人が怖がらないよう、その雰囲気を和らげることには苦労したが、ララベルからの叱責混じりのアドバイスもあり、なんとかできた。
2人の頼りがいがある用心棒と、ぶっきらぼうながら面倒見の良いララベルの接客のおかげで、財布が心もとない商人など、それまでの
「設備に金を回して客を増やした宿屋が有る」と言う商人の噂を聞いて、狭いながらも居心地の良い空間も準備した。
収入が増えたことで税金も増えたが、そのおかげで賜った名字は、宿泊客からの信頼をより厚くした。
ララベルはやっと、自らの人生が変わったことを実感していた。
「弟子は良いのかい?」
狭い調理場で
「はい! 寝てれば大丈夫っす」
それ以上は聞かない。傭兵家業にワケありは必然。それ以上を聞くのは野暮。
しかし、もう1つは聞かずにいられない。
「その様子だと、まだあの男は見つけてないみたいだね」
「……ええ。帝国に流れたとは聴いたんすが」
「全く、流れ凧とはよく言ったもんだねぇ」
それは元々、掴みどころのない剣筋を表す、スラベルの師の2つ名。
「アンタもしっかりしないと! 初めての男だろ?」
「ま、まぁ……そうっすね」
あの翌朝、なにかに気付いたララベルが、妙に優しく朝食を振る舞ってくれたことを、スラベルは思い出す。
バレてるっすねぇ……
「あぁ、それじゃ塩が足りないよ!! 野菜はもっと細かく! ……ったく、そんなんじゃ女が廃るよ!! 惚れた男の袋ぐらい、しっかり握れるようになんな!」
敵わないっすねぇ……と、ため息を吐く。
スラベルのその顔は、それでも嬉しそうだった。
「もう大丈夫なのかい?」
食堂に顔を出したリュミを見て、ララベルが調理場から声を掛ける。
「大分良くなりました。それに、お腹が空きました」
「そいつは結構!!」
痩身に似合わない大きな、そして豪快な笑い声を立てる。
スラベルも隣で安心した目をしている。
「飯が食えれば元気になれる! 座って待ってな!!」
琥珀色の瞳に、優しい母の姿が映った。
「しかしアンタも大変だねぇ。こんな師匠を持つなんて」
シチューを皿へとよそいながら、覗き込んだララベルの顔を見る。
愛想が良いとはとても言えないが、それでも優しさを感じる。
なによりも母娘の様に言い合う2人を見て、心中の2人も言葉をかわす。
(良い人のようですね、フロイライン)
『はい、おふたりとも』
眼の前のシチューが、鼻腔をくすぐる。
鶏肉がたっぷり入った、ミルク色のシチュー。
先に食べなと言う視線を受けて、リュミはそれを口にする。
高熱で汗を流した身体に、濃いめの塩味がゆっくりと染み渡る。
思えば、こんなゆったりとした時間は久しく無かった。
リュミは心の底から、安らぐことが出来た。
しかし同時に、こういった時間を奪ったことに、気付かされる。
琥珀色の瞳が、自らの
「元気出しな」
空になったリュミのコップに水を注ぎながら、ララベルはそう声掛ける。
「こいつも、ここに来た時はアンタと一緒だったよ。自信を持って良いはずなのに、なんだか気弱でねぇ」
豪快にワインを空けた瞳が、リュミのことをしっかりと見据える。
「自分の弱さがすべての原因。そんな目をしていたよ」
見抜かれたことが、不愉快じゃない。
こうあらねばという張り詰めた心、大人なのに情けないという悔やむ心。
それを抱きしめ、少し休みなさいと言う想いが、不思議と伝わる。
「だったら、その弱さにしっかりと足を掛けて踏ん張りな。そうじゃないと強くなれない」
気を張りすぎていた心が、
だからこそ、その言葉は琥珀色の瞳を、力づける。
「こいつもそうやって乗り越えたんだ。だから、アンタの連れを信じな」
頭を撫でられたことなんて、どれだけぶりだろうと記憶をたどる。
失われた記憶は――――何も語らない。
昨晩の温もりは、自分が受けたものではない。
それでも、琥珀色の瞳が揺れる。
自分にもそんな時間が、あったはずだと。
「さ、飯を食ったら寝ちまいな。寝ることも良い旅を続け――」
と言うララベルの声を遮って、暖かな食堂の空気を裂くように、馬の
「すまんな女将、今晩中に次の街に行こうとしたんだが、馬車馬がバテちまってな」
どう見ても善人には見えない、
腰にはロングソード。
リュミはわかりやすく、スラベルはごく僅かに、顔色を変える。
「悪いけど今は、休業中でね」
「客なら居るじゃないか」
後から入ってきたもうひとりは、身なりだけは整っており、貴族までは行かないが役人のようには見える。
「身内ですよ」
だが、その顔からは同じ様な、品の悪さが伝わる。
「それに、家は見ての通りの安宿です。あなたをお泊めするような所ではありませんが」
身なりに対して相応の言葉遣い。
だが、宿の
「仕方あるまい。この近くには他の宿どころか、人気すら全く無いのだから」
意に介さずと言った返答。
「それに、素直に聞いたほうが良いと思うのだがね」
そう言って彼が差し出した
「そういう事で、2部屋頼むよ、女将」
炎と杖のその印は、間違いなく魔法省のものであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます