第312話 失楽園
「……えっ?今、カフェで店員やってるの?」
「なんだよ、そんなに驚いて」
「いやぁ……兄さんが店員をしている姿が全然思い浮かばなくて」
えへへ、とごまかすように笑う妹を見て、アベルは盛大にため息を吐いた。
兄の生存。その衝撃的な事実を知ったフローラが一生分の涙を流し終えると、次に起こしたアクションは質問攻めだった。面倒くさいとは思いつつも、可愛い妹をないがしろにするわけにはいかない。かなり強い雨が降ってきたということで、木の下で雨宿りをしながらアベルは今まで何が起きたかを説明していった。かなりの時間を要したが、今やっと大体の話が終わったところであった。
「それにしても国が兄さんを……」
そう呟きながら、フローラは自分の口をキュッと結ぶ。その顔には激しい怒りが浮かび上がっていた。
「憎むべき相手を間違えていたようね」
「……多分、そうなると思ったからあいつはお前に俺の事を黙っていたんだと思うぜ?」
「え?」
驚きつつ兄の顔を見ると、えらく不機嫌そうな顔をしている。
「お前が国と敵対することを心配したんだよ、あいつは」
「あっ……」
アベルに言われて初めてそのことに気が付いたフローラは気の抜けた声を上げた。
「シューマン君……私、ひどい勘違いをしていた。どうしよう兄さん。許してもらえるかな?」
兄を殺したと思っていた憎き悪党は、実は兄の命を救ってくれた恩人だった。その上、自分が暴走しないように気にかけてくれたとすれば、まったくもって頭が上がらない。
「さぁな。俺としては大事な妹があの人でなしと疎遠になってくれた方が嬉しいんだけどな」
「もうっ!兄さんってばっ!!」
「冗談だよ」
半ば本気で言ったのだが、むくれる妹を見たアベルは肩をすくめた。
「心配すんなって。あいつはあんまり細かいことを気にするような奴じゃねぇ。バカだからな」
「細かいことって……」
一時であるとはいえ、命まで狙ったことが細かいことだとはどうしても思えないフローラが微妙な表情を浮かべる。そんな不安を消し去るように、アベルは優し気な笑顔を向けた。
「もし、フローラを許さないとかほざいたら、俺が一発かましてやんよ。お兄ちゃんパワーを甘く見るな」
「兄さん……」
「…………そもそも、クロ様はあなたに怒りなど感じていないと思いますが?」
「えっ?きゃっ!!」
兄の優しさに感動していたのも束の間、突然無表情で自分達の間へと割って入ってきた金髪の悪魔に驚き、フローラは大きく後ろへ飛びのいた。
「なんだよ。もう少し兄妹の時間をくれてもいいだろうに」
「話が長すぎるんですよ、このシスコン。……そろそろ決着がついたようなのでこちらに来ました」
「決着?あぁ、そういやさっきまで凄かった地響きがピタッと止まってんな。レックスとあのバカはどれだけハッスルしてんだって話だよ、たくっ。……んで?どっちが勝ったんだ?」
アベルがどうでもよさそうに問いかけると、セリスは首を横に振る。
「終わるまで近づくな、と言われておりましたのでわかりません」
「は?ってことは、お前は今までどこにいたんだよ」
「…………大きな木に丁度いい大きさの穴を見つけたので、そこで待機しておりました」
ぼそぼそと言うセリスを見て、アベルは目を瞬かせた。恐らく自分達に気を遣っての事だったのだろう。一人寂しく木の穴で三角座りをしていたセリスを想像して、アベルは思いっきり吹き出す。
「……なんですか?」
「いや別に?なんでもねぇよ」
不愉快そうに睨むセリスを見ても、アベルはへらへらと笑っているだけ。ぽかんとした表情で二人の会話を聞いていたフローラが、はっと我を取り戻した。
「セ、セリスッ!!」
「……なんでしょうか?まだ、戦うとでも?」
「あっ、いや……つい、いつもの調子で喧嘩腰になってしまったわ。いけない、いけない……」
なにやらブツブツと独り言を言っているフローラをセリスが不審な目で見つめる。
「……いろいろとごめんなさい。知らなかったこととはいえ、反省しているわ。兄さんの事も……助けてくれてありがとう」
「……それは私に言うことではないと思います」
誠心誠意、謝罪と感謝を述べるフローラにどうでもよさそうな口調でそう告げ、セリスは二人に背を向けた。
「……私はクロ様のところに行きますけど、あなた達はどうしますか?」
セリスがちらりと肩越しに二人の顔を一瞥する。アベルとフローラは互いに顔を見合わせると、ほとんど同時に頷いた。
「あなたの言う通り、さっきの言葉はシューマン君に伝えないといけないから私も行くわ」
「傘がねぇから濡れちまうのは嫌なんだが、敗北者のみじめな顔を見逃す手はねぇだろ」
「……敗北したのがクロ様とは限りませんが?」
「俺はレックスの野郎も気に入らねぇんだよ」
ちらりと妹に視線をやったアベルを見てセリスは察する。娘の旦那が気に入らない父親みたいなものだろう。前を向いてスタスタと歩き出したセリスの後を、二人が慌てて追った。
「で、実際のところどう思うよ?」
「どう、とういうのは?」
なぜか少し楽しそうな口調で聞いてきたアベルに、セリスが顔を向けずに返事をする。
「あいつとレックス、どっちが勝ったかってことだよ。さっきレックスを陰から見たときに気づいたぞ。あいつ、聖属性魔法が使えるようになってるだろ?」
アベルに目を向けられたフローラが気まずそうに頷いた。
「うん……勇者の試練をクリアしていないのに突然使えるようになっていたのよ。王様は伝説の勇者の血を引いているって言ってたけど」
「じゃあ、そういうことなんだろ。あの王が適当なこと言うわけねぇからな。たくっ……レックスの奴、ますます気に入らねぇ野郎だな」
アベルが顔をしかめながら舌打ちをする。
「俺の見立てが正しければ、レックスの勇者としての力は俺やフローラとは比べ物にならない。……まぁ、俺達のは借り物の力で本物に勝てるわけねぇんだけどな」
アベルが投げやりな調子で言うと、それまで耳を傾けていたセリスが静かに口を開いた。
「……クロ様は最強の魔王軍指揮官です。ですが、それを破る者がいるとするならば、彼以外にはありえないでしょう」
「……なるほどね。恋は盲目とはならねぇわけだ」
「私も実際にレックス・アルベールという人物をこの目で見ましたから」
あの男の前に立った時、なぜだかわからないが奇妙なシンパシーを感じた。その感覚が彼の奥底に眠る絶対的な力を嫌というほど教えてくれたのだ。
「二人とも無事だといいけど……」
フローラの不安そうな声を聞いたアベルがつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「俺の妹に心配されるとか、あの二人はマジで幸せ者だな。むかつくぜ。……だけどな、フローラ。先に言っておくが、無事ってことは絶対にねぇぞ?」
「な、なんでっ!?」
悲鳴に近い声を出したフローラ。そんな彼女に答えたのは足早に先を進むセリスだった。
「あの二人は強い絆で結ばれています……私が嫉妬してしまうほどに。だからこそ、そんな二人がぶつかり合えばお互いただでは済みません」
「そ、んなぁ……」
フローラが絶望にも似た表情を浮かべる。すべての誤解が解けた今、クロはフローラにとって敵どころか大恩人なのだ。そんなクロと自分が思いを寄せる相手が争っているなど、辛くないわけがなかった。そんなフローラの心境を察したアベルが明るい声で彼女に話しかける。
「でもまぁ、殺しはしねぇだろ。レックスもクロもかなりの甘ちゃんだからな。案外、安っぽい青春物語みたいに殴り合って、二人で地面に倒れて、友情を確かめ合ってるかもな」
「うぅ……なんかそれはそれで……」
雨に濡れて身体の芯から冷えてしまったのか、フローラがブルっと身体を震わせた。
「そういうのは夕焼けっていうのがお決まりのシチュエーションなんだが、ここまで悪天候だと笑えてくるな。まぁ、土砂降りの中殴り合うっていうのも―――」
ドンッ。
フローラの方を向きながら話していたアベルが何かにぶつかる。咄嗟に目を向けると、そこには金髪悪魔の背中があった。なぜだかわからないが、セリスはアベルがぶつかったのに、根が生えてしまったかのようにその場から動かない。
「おい、セリス。急に立ち止まんなよな。って、あれ?いつの間に森を……」
それ以上の言葉が続かなかった。アベルは信じられないものを見たかのように大きく目を見開き、セリス同様硬直する。急に様子がおかしくなったセリスとアベルを訝しく思いながら、フローラが二人の視線の先に目をやった。
森から出たので木の枝や葉に遮られなくなった雨は容赦なく降り注いでおり、視界はかなり不透明だ。それでも、少し先で何かが地面に転がっているのが辛うじて見えた。フローラは必死に目を凝らして、その物体の正体を知ろうとする。そして、それが何かわかったとき、彼女は声にならない悲鳴を上げた。
トレードマークの黒いコートを脱いでいても、それが誰なのかはっきりとわかる。例え、それが血だまりの上にいようとも。
「嘘、だろ……」
アベルの口から言葉が漏れる。言おうとして出したものではない、思わず零れてしまった、そんな感じだった。そんな兄を置いて、フローラは泥が跳ねるのも構わず駆け出す。少し遅れる形でアベルもそれに続いた。依然、金色の髪をした美女は動く気配なし。
「シューマン君っ!!こんなところでなに寝てるのよっ!?」
横たわるクロの身体を抱き起し、フローラが必死に話しかける。寝ているわけじゃないことなんてわかってる。だが、寝ているだけだと信じたい。
「おいっ!!新手のドッキリかなんかなんだろっ!?悪趣味なことしやがって……もう十分驚いたっつーの!!さっさと起きやがれっ!!」
「ねぇ!!起きてよっ!!私はあなたに伝えたい事がたくさんあるんだよっ!?お願いだから目を覚ましてよっ!!」
アベルはクロの襟首をつかみ、乱暴に揺さぶった。だが、クロの頭はされるがままに揺れ、最後には力なくだらんと垂れる。それを見たアベルの全身からすべての力が抜けていった。
「……まじなのかよ」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
途方に暮れたまま膝から崩れ落ちるアベルの隣で、フローラが涙を流しながら絶叫を上げる。そんな二人に、亡霊のように近づいていく悪魔が一人。
フローラは背後に気配を感じ、ゆっくりと振り返った。そして、そこに立つ一切の感情が抜け落ちたセリスの顔を見て、彼女はアベルの肩を引き、クロから少し離れる。しばらく佇んでいたセリスは緩慢な動きで膝を折り、倒れている者の顔を覗き込んだ。
ここにいるのは何?わからない。
もしかしたら魔族?わからない。
それとも人間?わからない。
どうして雨の中で横になっているの?わからない。
どうして周りがこんなに真っ赤なの?わからない。
どうして心が張り裂けそうなの?わからない。
どうしてなにもわからないの?わからない。
わからない。わからない。
わかりたくない。
「セリス……」
沈痛な面持ちでフローラがセリスを見つめる。だが、彼女の耳にはその声は届かない。
あぁ、この世界はなんて冷たいのだろう
こんなにもわからないことだらけだというのに
何も答えてはくれない
ただ目の前にいる者が誰か知りたいだけなのに
それすら教えてくれない
あぁ、この世界はなんて冷たいのだろう
こんな冷たい世界は
無くなってしまえばいいのに。
「…………"
囁く。誰の耳にも届かないほど小さな声で。
「っ!?」
その瞬間、アベルがフローラを抱えて後ろへと飛ぶ。
「兄さん!?」
突然の事に、目を丸くして兄の顔を見ると、そこからは大量の汗が噴き出していた。その目は自分など見ていない。怯えた目で死んだ夫に寄り添う美女を見ていた。
「ど、どうしたっていうのよ?」
「やばい……!!今のあいつに近づくなフローラ!!」
今まで見たことのないアベル。その身体はガタガタと震えている。
「近づくなって意味がわからないわ!!」
「俺だってわからねぇよ!!ただ、俺の本能がそう叫んでんだ!!あいつに近づいたら終わりだってなっ!!」
「でもっ!!シューマン君が死んでセリスはっ……!!」
セリスのもとに行こうとするフローラをアベルが必死に止める。そんな二人の事など歯牙にもかけず、セリスはすくっと立ち上がり、城の方へと歩き始めた。
「ちょっと待って!セリス!!」
「っ!?フローラ!!」
兄の腕を振りほどき、フローラが声の限りその名前を呼ぶ。その言葉に反応したのか、立ち止まったセリスがゆっくりと二人に振り返った。そのあまりに生気のない冷たい目を見たフローラの動きがピタリと止まる。
「……先程からうるさいですね」
視線だけではない、声すらも絶対零度のそれだった。
「消えてください」
静かな声でそう告げると、彼女の前から二人が消える。それを路傍の草を見るような目で見届けたセリスは、なんの感動もなく城への階段を上っていった。
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