第195話 落胆


 マジックアカデミアにある訓練場。普段は鍛錬に励む生徒達の姿を見ることができるのだが、魔物暴走スタンピードによる避難命令が出ている今、この場所には失意に暮れる少女とそれを見守る老人しかいなかった。


 クロがこの場を去ってかなりの時間が経つが、エルザはまだうずくまったまま動かない。マーリンはエルザにゆっくりと近づくと、その肩に優しく手を置いた。


「……何もできませんでした」


「……そうじゃな」


 マーリンは軽い口調で答える。今のエルザにとって下手な慰めは何よりも辛いことを、マーリンは理解していた。エルザはまだ顔をあげることができない。


「あんなにも息巻いていたのに……後輩の無念を晴らそうと躍起になっていたのに……相手にもされませんでした」


「あやつは特殊じゃからなぁ……。今のクロムウェルには儂でも勝つことは難しいじゃろう」


 その言葉に反応したエルザが勢いよく顔をあげた。大賢者、マーリン。並みの勇者を凌駕するほど実力を有する伝説の男。そんな彼が勝てないと言い切ることに、エルザは驚きを隠せない。そんなエルザにマーリンは優し気な笑みを向けた。


「学園にいた頃から他の生徒とは隔絶した魔法陣の腕を持っていたんじゃがな。魔族領でかなりの修羅場をくぐっているんじゃろう」


「……学園にいた時からですか?」


 力ない声で尋ねるエルザに、マーリンは頷きで答える。


「まぁ、ほとんどその力を見せたことはなかったからのぉ……その事を知っておったのは儂とレックスぐらいじゃがな」


「レックスも、ですか……」


「そうじゃ。あの二人は同じ村の出身じゃからな」


「そうなんですか……私は全く気付けなかった。第二席が聞いて呆れる」


 自重じみた笑みを浮かべながら、エルザはゆっくりと立ち上がった。自分の騎士剣を鞘に戻そうとするが、身体が上手く言うことを聞かない。


「レックスの奴が前に言っていました。『あいつ以外には負けるつもりはない』、と。……それがクロムウェル・シューマンの事だったんですね」


「うむ。子供の頃からレックスはクロムウェルに挑んでいたようじゃ。それでも、一度も勝ったことはないらしい。レックスが己を鍛えていたのは、ひとえにクロムウェルに勝ちたかったからじゃな」


「なるほど……二人とも私を含め学園の者達など眼中になかった、というわけですね」


 エルザは身に染みたように呟くと、スッと目を伏せた。マーリンは、一回りも二回りも小さく見えるエルザの背中を何も言わずに見つめている。


「……なぜ、あの男は魔族に与しているのでしょうか?」


 何かを耐え忍ぶようにエルザが尋ねた。


「あれほどの力があれば、魔族に対抗するには十分なはずなのに……。あの男が勇者となれば魔族に打ち勝つことも可能なのに……!!なぜ……なぜっ!?なぜあの男は人類の敵である魔族の味方をするのですかっ!?」


 感情を抑えられなくなりながら、エルザがマーリンに鋭い視線を向けた。小刻みに震える身体は、怒りによるものなのか、それとも恐怖によるものなのか、エルザ自身にも判断がつかない。


「クロムウェルは魔族を敵だと思っていないからじゃないかのぉ?」


「なっ……!?」


 まさかの答えに、エルザは目を大きく見開いた。


「そんな……そんなことがあるわけがないっ!!人間と魔族は長年争いを続けてきた敵同士なのだっ!!敵でないわけがないっ!!」


 自分のみじめさをかき消すように大声をあげるエルザ。肩を上下に揺らしながらフーッフーッと興奮した犬のように息を荒げている。そんな彼女をしばらくの間、静かに見つめていたマーリンはゆっくりとその口を開く。


「では、エルザは何をもって魔族を敵と判断するんじゃ?」


「……えっ?」


「そこまで魔族を敵と言い切るなら、それ相応の理由があるじゃろう。これまでの歴史などではなく、お主自身が何を見て、何を知って魔族を敵と見定めるのじゃ?」


「そ、それは……!!」


 マーリンの問いに、エルザは答えることができない。エルザが魔族を敵だと認識する理由、そう教えられてきたというだけだからだ。子供のころから、刷り込まれてきたその常識を疑ったことなど、ただの一度もない。


 必死に答えを探しているエルザに、マーリンは背を向けて歩き出した。


「……今日は家に帰りなさい。疲れも溜まっているじゃろうからな。職務を全うしたコンスタンもいるじゃろう」


 そう告げると、マーリンは訓練場を後にする。しばらくその場に立ちすくんでいたエルザであったが、唇から血が出るほど噛みしめると、何かから逃げるように訓練場から出ていった。



 学園を出てからの記憶がない。マーリンに言われるがまま、実家に向かったと思ったら、もう目の前に家の玄関が現れた。エルザは何も考えずにその扉を開ける。


 母親は買い物にでも出かけたのだろうか。普段であれば玄関のドアを開けるとすぐに飛んで来るというのに、今日はその気配がない。だが、それは今のエルザにとってありがたいことであった。


 廊下を歩き、リビングへと向かう。そこにはマーリンの言った通り、ソファで葉巻をふかす自分の父親の姿があった。


「ただいま戻りました」


「ん?エルザか……」


 コンスタンは一目見て娘の異変に気付く。


「なにかあったのか?」


「……なにもありません」


 エルザが目を合わせずに答えた。その言葉が嘘であることはすぐにわかる。

 マーリンに連れられ、エルザはあの魔王軍指揮官の男と共に学園に行ったのだ。城での邂逅時、エルザはあの男に敵意満々だった上に、以前アーティクルの近くの森まで送り届けてもらった時、あの男はエルザの事を知っている口ぶりであった。そんな二人が何もなく別れるはずがない。


「嘘をつくとは感心できないな」


「……申し訳ありません。ですが、お話しすることはできないんです。そういう約束なので」


 そう言うと、顔も向けずに頭を下げると、そのまま自分の部屋へと歩いていく。部屋の扉に手を伸ばしたところで、エルザの動きがピタッと止まった。


「父上は……父上はあの男と相対したことがあるのですよね?」


「あの男……指揮官殿の事か?」


 振り返ったエルザが真剣な顔で頷く。コンスタンは咥えていた葉巻を机の上にある灰皿に置いた。


「相対、というには些か語弊があるな。アベル殿と私の隊が魔族の街に攻め込んだ時、指揮官殿が守りに来た、というだけの話だ」


「……あの男は強かったですか?」


 ソファに座ったまま身体を捻り、コンスタンは娘の顔を見やる。


「強かった、恐ろしいほどにな。アベル殿を含め、我々が束になっても敵わなかっただろう」


「父上達でも敵わないほどの強さ……」


 エルザがコンスタンから視線を外し、床に目を向けた。グッと握りこぶしを握ると、身体をわなわなと震わせる。


「それほどの……!!」


 ギリッ。エルザは砕けるかと思うくらい、奥歯を強く噛みしめた。


「それほどの力を持っておきながら殺したというのかっ!!敵とはいえ、知り合いの肉親を!!父上が言うほどの強者であれば無力化するだけでいられたはずなのにっ!!」


「…………」


 絶叫する娘を前に、コンスタンは黙することしかできない。真実を言えばエルザは危機に瀕することになるだろう。勇者アベルの抹殺を命じたのは、あのロバート統括大臣なのだから。


 コンスタンは机の葉巻を手に取り、深く吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出した。そして、厳しい顔をエルザに向ける。


「エルザ……お前が考えているほど、戦争というものは甘くない。敗北は死を意味する。中途半端な情けは、味方を危機にさらし、かくなる上は国すら危ぶめるのだ」


「そ、それは……!!」


「やって来た勇者を撃退するだけに終え、その者が傷を癒やし、復讐を目論めば自分達の仲間の身が再び危険にさらされる。後顧の憂いを絶つためにその命を奪うことは当然の事なのだ」


 父親の迫力に押され、エルザは思わず後ずさった。


「で、ですが、父上達は生きて帰ってきました!!」


「我々は命からがら逃げだしたのだ。……もっとも、大して力を持たない我々など、捨て置いたところで痛くも痒くもない、というではあったがな」


「そんな……」


 エルザの顔にショックの色が浮かぶ。それは、産まれたときからあこがれ続けた男が尻尾を撒いて逃げ出したという事実と、自分がいかに甘いお子様だったことを痛感した、ということによるものであった。


 意気消沈する娘から窓の方に目を移し、コンスタンは再び葉巻を咥える。


「……だが、お前に一つ言っておかなければいけない事がある」


「言わなければいけないこと?」


 エルザが眉を寄せながら父親に目を向けた。コンスタンは窓の景色を見つめたまま、紫煙をくゆらせる。


「魔王軍指揮官……あの男はな、いたずらに人の命を奪わない男だ」


「なっ……!!それは一体どういうことですか!?」


「お前と同じだ。これ以上話すことはない。約束……とは、少し違うがな」


 そう言うと、コンスタンは葉巻を咥えたまま立ち上がり、リビングから出ていった。


 エルザはその背中を見つめながら一人頭を悩ませる。


 悪戯に人の命を奪わない。


 その言葉の意味を、エルザは一つしか考えつかなかった。

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