第4話 魔術士の憂鬱 前編



 水上都市アルムウォーレンの観光地を鼻歌交じりに歩く若者がひとり。中肉中背で、着古したシャツにジーンズという飾り気のない服で、これも使い古したリュックを背負っている。二十代中頃だろうか、少年のような好奇心旺盛な瞳を輝かせて並ぶ露店を覗きこんでいる。栗色でくしゅくしゅの癖っ毛に水色の瞳。おしゃれをすればモテそうなのに、服装には無頓着な若者である。


 青年の名はアクア・マリンドール。このアルムウォーレンに引っ越してきて、まだ一ヶ月の新参者だ。

 職場の先輩からは、「アルムウォーレンなんて魔力の供給量も少ないし不便で野蛮な街だぞ」と脅されていたが、実際に来てみるとこんなに良い街はなかった。食べ物は美味しいし空気は綺麗だし、嫌な先輩もいないし、人々の活気に満ち溢れているし。ここは地上の楽園かもしれない。


 アルムウォーレンはヴェレンティア湾に浮かぶアルムウォレスト島を中心に、大小様々な島を橋で結んだ水上都市だ。魔力を送受信する魔導線が運河に遮られているため、本島以外に十分な魔力は行き渡っていない。なので大半の地域では消費魔力の大きい魔装製品は使用できないのだが、そのおかげで空気も澄んでいるし、公害も少ない。前に暮らしていたサルカエスの街とは大違いだ。


 のんびりとした休日の午後。

 露店を冷やかしながら歩いていると、どこからともなく軽快なリズムが聞こえてきた。

 周囲を見渡せば、小橋を越えた向かいの島に噴水が据えられた大きな広場が見え、音はそこから聞こえてくる。フラフラと引き寄せられ、運河を渡り広場を覗くと、毛皮に全身を覆われた狼人種と呼ばれる亜人の若者たちが魔獣の骨と髭で作った弦楽器や、奇妙な太鼓を鳴らして楽しげに歌っていた。その周りには輪ができていて、街の人々が楽しげに耳を傾けている。

 こういう光景を見るたびにアクアはこの街が好きになる。海を越えて様々な人種や文化が混じり合い、笑ったり泣いたり怒ったり、自分の感情を素直に表している。魔術と秩序でがんじがらめに停滞しきってしまったサルカエスの街とは大違いだ。この街はどこを見ても活気が溢れている。まあ、活気がありすぎて困ることもあるのだが。例えば……


「ドロボー!!」


 のどかな街の雰囲気を切り裂く叫び声。振り向くと、尻もちをついた婦人が走る男に向けて手を伸ばして叫んでいた。男の手には婦人の物らしきハンドバッグ。どうやらひったくりのようだ。周囲の人を突き飛ばしながら男は駆けていた。活気があるのは結構なことなのだが、先輩が言っていた野蛮な街、という言葉は的外れではない。アルムウォレスト本島から離れたエリアになるほど、治安が悪いのも事実なのだ。


「どけどけ!」


 ハンドバッグを小脇にこちらにかけてくる若者。日に焼けた浅黒い肌。アクアより頭一つ大きい男だった。アクアはどうしようか迷った。別に自分には関わりのないことだ。自分の持ち物が奪われたわけでもない。

 優柔不断な性分なもので、突発的な状況にどうすべきか、迷ってしまう。


(見過ごすのは悪いよな。ま、どうにかなるか)


 やはり放っておくことは出来ず道路の真ん中に歩み出た。

「てめえ、どけってのが聞こえねえのか!」

 男は立ち止まることなく加速した。

 アクアは男の怒声にも臆することなく、行く手を遮ったまま、申し訳なさそうに片手をあげた。

「いやぁ。あんまり手荒な真似はしたくないのだけど……」

「何言ってやがる! どかねえと痛い目を見るぞ!」

 男が叫び、アクアを払いのけようと腕をあげた瞬間。アクアは人差し指と中指を鉄砲に見立て男に向かって伸ばした。

「……水よ」

 アクアが小さく呟いた。

 刹那、アクアの指先がキラリと光を放つ。なんと、その指の先には小さく透明な球体が現れていた。水弾だ。

「な、何ぃ!?」男が顔を歪めて叫ぶと同時に、アクアの指先に浮かんだ球体は、弾丸のごとき勢いで発射された。螺旋状の水しぶきを後方に撒き散らし、水滴の弾丸は男に向かって疾走る。


「ま、魔法!?」


 男は突然のことに防御の姿勢を取ることもできない。一直線に突き進んだ水弾は間抜けな面で慌てる男の眉間に直撃した。声にならない声をあげた男の顔面で飛沫をあげて弾け飛ぶ水弾。男の体は後頭部から地面に叩きつけられた。

「がはっ……!!」

 地面に体を打ちつけた男は、仰向けのまま動かなくなった。

「手加減したけど……大丈夫だよな?」

 アクアはおそるおそる男の元に近づく。白目を向いて倒れているが、ただ失神しているだけのようだ。ほっと胸をなで下ろした。ハンドバッグを拾い上げ、唖然とした顔でこちらを見つめている婦人の元に歩み寄る。


「あの、どうぞ。気をつけてくださいね」にっこりと微笑み、ハンドバッグを手渡す。

「あ、ありがとうございます……。い、今のは魔法……ですか?」

 驚いたような怯えたような顔で婦人がアクアを見上げる。アクアは苦笑する。魔術都市と呼ばれるサルカエスの街にいた頃は、魔法使いに間違えられることなど皆無だったというのに。

「いやあ。今のは魔法じゃないです。魔術です。僕は魔術士なんです」

 アクアが訂正すると、婦人は慌てて頭を下げた。彼女は魔法と初歩的な原始魔術との区別もつかないようだった。だが、魔術士を魔法使いと間違えることが怒りを買うことだと言うことは知っていたようだ。

「それは失礼しましたっ! 魔術士の方でしたか。すみません。この街はタビトばかりで、魔法も魔術も見たことがなかったので」

 タビトとは魔法も魔術も使えない一般人のことだ。とはいえ見た目は魔法使いとも魔術士とも変わらない。

「いえいえ。別に良いんです。どっちも同じようなもんですからね。お気になさらずに」

 世の中では魔法使いも魔術士も『法術使い』と呼ばれ一緒くたにされることも多い。魔術士としては両者の違いをじっくりと説明したい所なのだが、確かに魔法も魔術も似たようなものだ。魔力の源を体内で生成出来るのが魔法使い。外部から取り入れて練成するのが魔術使い。簡単に言えば両者の違いはそれだけである。とはいえ、その違いが魔術と魔法に根本的な違いを生むのだが……。と、説明しても、一般人には中々違いはわからないだろうなぁ、と一人苦笑する。


「あ、そうだ。それなら一つ聞きたいことがあるのですが」

 恐縮しきりの婦人をアクアはのんびりした声で和ませようとする。魔術がどうのこうのなんて話よりも、尋ねたいことがあったのだ。

「はい、なんでしょう。助けてくれたお礼になんでも答えますわ」

「いやぁ大したことじゃないんですけど。ここら辺で有名なマールケーキのお店知りませんか? ガイドブックを忘れてきちゃって」

 そうなのだ。別にアクアは魔術士だからといって、悪漢を退治するために出歩いていたわけではない。せっかく引越してきたのだから、まずはこの街の名物を食べたい、と思って出かけてきただけなのだ。


「ああ、それなら……」

 なんだ、そんなことか、と婦人は微笑み、アクアに目当ての店を教えてくれた。


 道を聞くことが出来たアクアは婦人に礼を言って再び歩き出した。

 やはり、困っている人は助けた方がいいな。と、自分の選択が正しかったことを確認したアクアは、ウキウキした様子で鼻歌交じりに歩き出した。



 アクア・マリンドールは魔術都市サルカエスの魔術士協会から派遣されてきた魔術士である。

 使命は『魔術後進都市への魔術の普及と管理、魔力源の販売促進活動、また地方魔術士への援助協力、その他魔術士協会にとって利益となる活動』である。……要するに雑用であり何でも屋であり、左遷に近いものだった。


 アクアは魔術士協会の魔術学校の中でも、最高位である『魔天楼閣まてんろうかく』の出身で、魔天楼閣の卒業生はエリート街道を走ることが義務つけられるのだが、彼はその道を蹴ってこの街に来たのだった。

 派閥争いや出世競争に興味が持てず、妬み嫉み裏切りが渦巻く魔術士協会の内幕にうんざりしていたのだ。


 だから、魔術都市から遠く離れたアルムウォーレンという街で新しい支部を作るという話が出た時には、喜んで飛びついた。あの優柔不断でどっちつかずのアクア・マリンドールが自ら異動の話に乗った、と魔術都市の仲間達の間でちょっとした噂にもなった。

 奴はもうダメだ。出世とは無縁のつまらない人生を送るだろう、と陰口も叩かれたが、アクア当人はそんな陰口など、どこ吹く風だった。

 興味のない出世争いで心を摩耗させるよりも、自然豊かな街で人間らしい暮らしをしたいと思ったのだ。


 実際、アルムウォーレンはとてもいい街ですぐに気に入ってしまった。自然は多いし、風は気持ちいい。ぎゅうぎゅう詰めの列車で通勤する必要もないし人々は親切だ。

 自分の選択の正しさを確認したアクアは、できれば、長くこの街で暮らしていきたいと考えていた。


 しかし、そのためには解決しなければならない由々しき懸念事項が一つあったのだ。


 婦人に教えてもらった店で、名物のケーキを食べ終えたアクアは嫌々ながらも気持ちを切り替え、その足で職場に向かった。せっかくの休日ではあるが、やはり行かねばならぬ、と思い直したのだった。


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