第2話 探偵のポリシー 前編

 穏やかな風が夏草を揺らす小高い丘の上に、その建物はあった。丘の傾斜を利用して建てられた無骨な二階層のアパートメント。遥か昔に起こった戦争の際に使用された砦の跡を改装したもので、全体的にカビ臭く人を拒むような威圧感がある。

 そんな建物だからか、ほとんどの部屋が空室であり、借り上げられてる部屋に関しても、ほぼ物置に使われていた。だが、中には変わり者もいる。人気のない鉄の扉が並ぶ中に、その部屋はあった。


『エルメラルド探偵事務所』


 長方形の金属プレートが括り付けられた扉。その扉の奥、カーテンで閉ざされた一室の静かなベッドの中で、部屋の主はスヤスヤと実に気持ちが良さそうに眠っていた。白いシーツに長く艶のある黒髪を広げ、細い体をくの字に折り曲げて枕を抱きしめている。薄い唇を少し噛み、白くキメの細かい頬を淡く紅潮させている。一体どんな夢を見ているのだろうか。その寝顔は寂しそうでもあり、嬉しそうでもあり、様々な思いが混じった表情だ。まるで遠いノスタルジアに浸る眠り姫のようだった。


 人生で最も幸せな時間は休日の朝だ、と人は言う。確かに目覚まし時計に急かされるわけでもない。憂鬱な仕事に出かける必要もない。心ゆくまでベッドの中でフカフカの布団に包まれ、とろけるほどに惰眠を貪ることができる休日の朝は永遠に続けば良いと誰もが願う至福の時である。

 だが、時に、無情にも、その時間が奪われることもある。

 ……そう。今日のように。


「すみませーん、すみませーん。エルメラルドさーん。いらっしゃいませんかー」

 若い女の声と玄関の鉄扉を叩く音。せっかくの幸福な時間は遠慮なく浴びせられる騒音によって、いとも簡単に打ち破られてしまった。

「エルメラルドさーん。いらっしゃるんでしょー。おかしいですね。午前中なら大体はいるって聞いたのですけど。すみませーん。エルメラルドさーん」

 ガンガンガンガンガン。

 脳天に響く扉を叩く音。

「うう……」

 寝返りをうち、いやいやをして布団を頭の上までかぶった。郷愁漂う夢の世界が遠ざかり、騒がしい女の声と玄関を叩く音が現実を引き連れてやってくる。最悪だ。こんな最悪の目覚めは中々ない。

 誰だ。こんな朝っぱらから、なんだというのだ。誰かと何か約束をした覚えもないし、珍しく滞ってる支払いもない。何より今日は日曜日だ。『日曜日に仕事はしない』がポリシーだ。ポリシーは守るべきだ。なぜならポリシーを持たない人間は成功しないからだ。いつ、いかなる時も遵守する心の法、それがポリシーなのだ。たとえ地が割れ、海が干上がろうと、不届き者が現れ、脅されようと決して曲げない信念。そう。それが! それこそが! ポリシーなのだ。つまり、ここで起きるのはポリシーに反する。自らに課したポリシーを破るなど言語道断。

 ……よし、このまま気づかなったことにして、やり過ごしてしまおう。


 と、部屋の主は無視を決め込み、布団の中で丸くなる。


 しかし。

 ガンガンガン。

「すみませーん」

 ガンガンガン。

「エルメラルドさーん」

 ガンガンガンガン……。

 ガンガンガン。

 扉の前の女は一向に諦める気配がない。それどころか、扉を叩く音はどんどん強くなっている。

「……もう。しつこい」

 薄桃色の唇のはしをゆがめ、眉間に皺を寄せて呻く。布団を被っても無意味であった。鼓膜をつんざくあまりの騒々しさに完璧に目が覚めてしまった。不愉快だ。不愉快極まりない。


 寝癖でボサボサの頭をガシガシとかいて、苛立ちをため息へと変換する。

 その間も部屋の外ではガンガンと絶え間無く扉が叩かれている。一体なんだというのだ。

 不本意であるが、嫌々ながらもベッドから起き上がる。しかし、これは断じて敗北ではない。ポリシーを守る為の勇気ある行動なのだ。昨日の酒が残った頭に言い聞かせてフラフラと立ち上がる。二日酔いのだらしない顔。翠玉色の瞳は虚ろで、長い黒髪は寝癖で明後日の方向へ跳ねている。白い肌には無駄な贅肉はなく細いながらもしっかりとした筋肉がついていることがわかるが、酔って寝てしまったため、上半身には何も身につけていない。


 うーん、髪はともかく、さすがに下着姿で出るのはみっともないか。


 面倒だが仕方がない。

 舌打ちをして、視線をめぐらせ昨夜に脱ぎ散らかした衣類を拾い上げる。細い腕にシャツを通し、小さい尻をパンツに滑り込ませる。

 話は絶対聞かないぞ。日曜日を守るための戦いに出るだけだ。さっさと追い返して、幸せな惰眠を貪ろうではないか。自分に言い聞かせ、玄関に行く。

 女はしつこく扉を叩き続けている。なんて非常識なんだ。

 重い瞼をこすり、どんよりした気持ちで玄関に立ち扉をほんの少しだけ開けた。


「……どなたですか?」

 扉の隙間から目を細め訪問者の顔を見る。眩しい光の中、扉の前にはビシッとしたパンツスーツ姿の女が立っていた。この辺りでは珍しい銀髪の女。短めの髪がよく似合う凛々しい顔立ち。街で見かけたなら誰もが振り向くような美しさであった。が、朝っぱらから人の安眠を遮るような人間であるからして、きっとロクでもない女だ。

「あ、おはようございます。こちらエルメラルド探偵事務所さんですよね?」

 大きな瞳をきらめかして女は言う。

「……そうですけど。なんでしょう。この朝っぱらに」

 あえて不快感を隠さずに訊いたというのに、女は悪びれもせずに、百点満点の笑顔を向けてくる。

「実は知人の紹介でこちらの探偵事務所を伺いまして……」

 なんだ、ただの依頼か。日曜は定休だと看板にも書いてあるのに、なぜ読まない。なぜしつこく玄関を叩く。苛立ちのあまり女の言葉を遮った。

「すみません。依頼でしたら明日にしてください。日曜日は仕事をしないっていうポリシーがありますもので」

 言いながらさっさと扉を閉めようとする。が、女はドアノブを引っ張り、追いすがる。

「そこをなんとか! 頼れる相手はエルメラルドさんしかいないんです。どうか探偵のエルメラルドさんと直接お話させてください。前金で依頼料も払います」

 その言葉に、無意識ながらピクッと眉が動いた。

「今、なんて言いました?」

 締めかけた扉からギョロリと目の前の女を凝視する。

「はい。前金、お支払いしますから」

 女はしめた、とでも言いたげな顔で言う。が、問いただしたいのはそんなことではない。女の瞳を睨みつけるようにして、静かに首を振った。

「違います。その前です」

「その前?」

「誰と喋りたいと?」

「ああ。エルメラルドさんとお話させてくださいと言いましたが。えっと、あなたはお手伝いさんですか。それとも秘書。あっ、エルメラルドさんの奥様ですか。すみませんね朝から。エルメラルドさんはいらっしゃるんですよね?」

「……エルメラルドは私ですけど」

 ジロリと翠玉色の目を凄ませると、女は大きな目を丸くして固まった。

「え。エルメラルドさんは男性だと聞いていたのですが……」

 やはり。眉間にしわを寄せ、わざとらしく咳払いをして言った。

「男ですけど?」

 苛立ちを隠す気もなかった。彼――エルメラルド・マガワは男であった。身体は確かに細いし、いくら髪が長いからといってもう二十も半ばという歳なのだ。女と間違えるなんて失礼極まりない。エルメラルドは女性に間違われることが何より嫌だった。

「あらー。申し訳ありません。そうだったんですね。確かに女性にしては背が高いし声が低いなっとは思いました」

 人を不快にさせておいて、この女は相変わらず失礼な事を言う。カチンと来た。

 エルメラルドは自分のことを、これでもなかなかの男前だと思っている。寝起きだから今はひどいが、普段は服装にも気を使っている。いつも男らしくハードボイルドに振舞っているし、ヒゲもすね毛も生えてこないけど、だからといって女と間違われるなんて心外である。


「なるほど。よーくわかりました。あまり目がよろしくないんですね。先ほども言いましたが、今日は定休日ですので、お話はお伺いできません。残念です。また後日いらして下さい。まあ非常識な方の依頼は受けないのがポリシーですので、来ていただいてもどうなるかはわかりませんが。それでは、ごきげんよう。さようなら」

 思いっきり嫌味ったらしく言って、力一杯に扉を閉める。が、扉の向こうで女はまだ諦めない。

「ちょっと、待ってくださいエルメラルドさん。もしかして、私が女性と間違えたことを怒ってらっしゃるんですか?」

 扉越しに投げつけられた言葉が鼓膜に突き刺さりエルメラルドの足が止まった。

「そんな小さいことで怒るなんて、それこそ男らしさのカケラもない女々しいおかま野郎ってことをお認めになる形になりますが、よろしいんでしょうか?」

 無神経に投げ込まれる言葉にエルメラルドの頭に血がのぼる。思わず怒鳴り返しそうになる気持ちを必死におさえた。

「そ、そんなことで私が怒るわけないじゃないですか。推測でものを言わないでください」

 扉越しに平静を装うエルメラルドだったが、頬の肉はぴくぴくと動いていた。

「そうですか。よかった。男らしいエルメラルドさんなら、街からわざわざ自分を頼って来たか弱い乙女を追い返すような男の風上にも置けないことはしませんよね?」

 エルメラルドの眉間にシワがよる。ググと奥歯を噛む。挑発には乗るな、と自分の冷静な心は忠告をしている。だが、心の声は頭に血の上ったエルメラルドの耳には届かなかった。

「……ええ。いいでしょう。わかりましたよ。男らしく、お話を聞きましょう」

 ここまで言われて引き下がるのは男じゃない。エルメラルドはこめかみに血管を浮き出させたまま扉を開けた。……つまり、探偵エルメラルド・マガワは日曜日は休むという自らのポリシーをあっけなく破ったのだった。

「よかった。エルメラルドさんって頼りになりますね。私、ララと言います。ララ・マグナガル。よろしくおねがいします」

 勝ち誇った笑みで女は一礼すると、軽やかな足取りで玄関から入ってきた。

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