11話 僕の秘密
連続殺人事件のことは気掛かりだが、その日の僕に不安は無いはずだった。
自宅のベッドに入ると、『あの日』が僕の脳裏に蘇り、また自然と涙が溢れていた。
多分、今日行ったあの場所に関係がある。夢廻が行きたいと言った展望台。幼い僕とあの女の子はあの場所で日が暮れるまで遊んだのだった。
感情というものは、中々制御し難い。思い出したくないと思えば思う程、それは忘れられないものになり、何時でも何処でも付きまとう。今がそうだ。
現在の時刻は二時半。今から薬を飲んでしまっては、次の日に響いてしまう。最悪、起きられない可能性すらある。
僕は早めに薬を飲まなかった事を後悔しつつ、嗚咽を噛み殺して朝が来るのひたすら待っていた。
いつもよりも状況はかなり悪かった。何故かいつまで経っても涙は止まらず、えづき始めてしまった。こんな事は初めてだ。トイレに駆け込み、何度も胃の中が空になるまで吐いた。ベッドで涙を拭っていると、部屋のインターホンが鳴り響いた。
ティンローン
誰だろうか。少々驚きながら、息を殺す。
こんな顔、誰にも見せられない。頭の中がぐちゃぐちゃになる。この僕を誰かに見せることに、僕は何よりも恐怖していた。普段、何に対してもあまり心が揺れることはない。それどころか不幸に引き寄せられて、自ら恐怖に飛び込むことも多い。だが、このことだけは何故だか別だった。純然な恐怖が僕の心中を掻き回している。
ヴーヴーヴー
続いて携帯のバイブレーションがなる。
画面を覗いてみると夢廻からメールが届いていた。
『開けてください』
いくら夢廻でも開けることはできない。見られたくない、ということ以外はもう何も考えられなくなっていた。
『帰れ』
一言だけ返信をする。
盗聴されているのだから、声に出して言えばいいだけなのだが、泣いているのがバレてしまうから出来ない。いや、もうバレているからここまで来たのだろう。尚更開ける訳にはいかない。
すぐに返信が来る。
『入りますよ』
ガチャ
同時に部屋の扉が開く音がする。
「鈴くん」
暗い部屋に夢廻が入ってくる。僕は咄嗟に布団で顔を隠し、寝た振りをした。
「鈴くん」
「…」
「泣いてるんですか」
「…」
「どうしてですか」
僕は過去のことを含め僕の思ったことその全てを心療内科医、つまり夢廻の母親に話している。当然、僕が不眠症を抱えていることも夢廻は知っていることになる。だが一つだけ、僕は先生にも言っていない事があった。
夜、『あの日』のことを想起すると涙が止まらなくなる事。
本来ならば真っ先に話さなければならない。だが、このことだけは情けなくて誰にも話したことがなかった。
「…」
僕は彼女に背を向け、バレバレの狸寝入りを決め込む。
すると夢廻が後ろから僕をゆっくりと抱きしめてきた。
「大丈夫です。大丈夫ですから」
「…」
「そばにいます」
「僕は」
声が涙のせいで揺れる。なんて情けない僕だろう。
話し出した僕の言葉を黙って彼女は聞いてくれている。
ーーー終わった。僕は彼女に幻滅される。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。
「情けないんだ…」
「そんなことありませんよ」
「これを見てもそう言えるの」
言葉遣いが砕ける。
これが本来の僕だ。強い自分を演じるために普段は少しでも男らしい言い回しを心がけている。たまに崩れることはあるが、それが今は全く出来ない。
「はい」
「夢廻は僕を優しいと言った。そんなことない」
「いえ。貴方は弱くて情けなくて不器用で、とても優しい人です。私は貴方のことはなんでも知っています」
「…」
「初めに言ったはずですよ。貴方の弱さを愛しています、と」
「そんなのはおかしい」
「どうしてですか?」
優しい口調で彼女が問いかける。それだけで涙が溢れて止まらなくなる。過去のことで泣いているのか、それとも今が原因で泣いているのか、もう分からない。
「僕は二面性の塊だ」
そう。彼女は人の二面性を受け入れられない『人間嫌い』だ。
僕のこの惨状を見て、それが無いとは言えまい。それ以前にも、弱者に過剰に優しく接する僕と強者に容赦しない僕、という矛盾こそないが決定的な二面性を僕は持っている。
「私は、それに気付いて、それでも貴方を愛したと伝えたはずです」
「…」
「私は貴方の事を狂おしい程に愛しています」
「そうなのか…」
「はい」
彼女は…最初から僕の全てを愛していた。それを改めて知る。僕は馬鹿だった。
起き上がろうとすると、夢廻は自然と僕から離れた。そして僕は彼女の目をしっかりと見つめた。
今この瞬間に言うべきなのか迷ったが、止まらなかった。
「一生僕のそばにいてほしい」
僕にはこの人しかいない。それを確信した。
「はい…喜んで」
僕は幸福を受け入れることにした。
不幸に身を浸す生活とはもうさよならしよう。これからは、夢廻の為に生きよう。そう、決意した。
そうして、僕と夢廻は結ばれることになった。
しばらく僕は情けない事に夢廻に抱きしめられ泣いてしまった。今は落ち着いている。
「というか何故パジャマなんだ」
よく見てみると夢廻は可愛らしいパジャマに身を包んでいた。
「部屋のスピーカーに鈴くんの室内の音声を出力しているんです。そこから苦しむ声が聞こえて…直ぐに飛んできたんです」
「なるほど…」
普通にそれはやばいと思う。
「今メイクも何もしてないので見ないでください」
「それは断る」
「嫌です…」
「見せてくれ」
彼女の顔に近付く。すると顔を両手で隠して見せないように抵抗してきた。
僕は両手でそれをゆっくりと解いてゆく。本気の抵抗ではないようで、指は簡単に外れていく。
遮光カーテンの隙間から差し込む月の光で顔が見える。いつもと変わらない綺麗な彼女がそこにいた。恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、それでも目を逸らさず、僕を見つめている。
彼女はいつもそうだった。どんな時でも僕を真っ直ぐに見ていてくれる。そんな彼女が愛しくてたまらない。
言葉はいらなかった。
僕は夢廻の唇をそっと撫でてみた。唾液でほんの少し濡れていた。
僕は彼女にゆっくりとぎこちないキスをした。
もうあの日の悪夢に怯えることはないだろう。そう思えた。
その後、明るくならないうちに彼女を家まで送り届けたのだった。
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