4話 楓
目を覚まし、食事やシャワーを済ませて、日課の読書をしていると、いつの間にか出かける時間になっていた。
時刻は午前八時ジャスト。今日は始業式なので、午前中には解放される。それ故に、気が凄く楽だ。
登校時間前に、必ず超絶ストーカー女、宮ノ業夢廻が襲来すると踏んでいたのだが、その予想は外れてしまった。何事もなく、僕は家を出ようとしていた。
学校は、ここから徒歩で九分ほどの場所にある。もっと近場に住めば楽だったのだが、この辺りの雰囲気が気に入ってしまったのと、不動産の仲介業者にゴリ押しされてしまい、今に至る。地上四階建ての鉄筋コンクリート造マンションで、僕は最上階の407号室に住んでいる。目の前には公園があり、日中は子供達が遊ぶ姿が日常的に見受けられる。閑静な住宅地の見本、と言えるだろう。
改めて僕はここに越してきて良かった、と考えながら扉を開けた。
「おはようございます」
居ないわけないよね。知ってた。
目の前には、夢廻が相変わらずの無表情で立っていた。
「出たな」
「妻として、当然です」
「妻ではないし、恋人ですらない」
そういいながら、彼女を軽く観察する。
昨日のゴシックロリータの不気味さとは打って変わって、今日は爽やかな制服に身を包んでいた。
シワ一つない所から、潔癖という印象さえ伺える。ヨレヨレの僕とはえらい違いだ。
紺のブレザーに、白いブラウス。首元のボタンは一番上まできっちりと閉められている。それを押し上げる胸元は一見しただけで大きなものであることがわかる。それから緑と白のチェックのスカート。僕の学校の制服で間違いない。スカートの丈も、完璧に調整されている。長すぎず、短過ぎない絶妙な丈だ。スカートからのぞく細く長い脚には、黒いストッキングを着用している。デニールは、120だろう。殆ど肌が透けていない。僕の好みを抑えている辺り、流石だ。足首はとても細い。靴は、ローファーだ。踵が学校指定のものよりかなり高いようだ。これで更に僕との身長差が開いてしまう。首筋には赤いリボン。学年が一つ上だということは本当らしい。顔色は、良好。学校に行くのだから当然といえば当然なのだが、昨日よりも薄いメイクを施しているようだ。クマは昨日よりも薄いように見受けられる。なるほど。ああ見えて、僕に会いに来るのにかなりの緊張があったのだろう。
――それこそ眠れなくなるほどに。
総評すると、清楚なお嬢様と言ったところだろう。相変わらず、目は少し死んでいるが。
「…………」
面と向かったた相手に気付かれず、観察するにはコツがある。
目を開けたままで、上から下まで見渡してしまっては、流石に不自然だ。上半身を見た後、一度強く目を閉じる。この時、少し気だるげにするのが重要だ。その後、視線を下に設定したままで、目を開ける。観察が終了したら、細かい瞬きをして、視線を元の場所に戻す。
僕が勝手に編み出した方法なので、正しいかどうかは分からない。だが、心療内科の先生以外にはバレた試しがなかったので重宝している。
夢廻には、気付かれているんだろうか。まさかそこまで把握されている事はないか。
「それも時間の問題ですよ。それにしても、制服姿の鈴くんは、一段と可愛いですね。それ、この間買った新しいベルトですね? 似合ってますよ。写真撮ってもいいですか? いいですよね?」
若干興奮気味に夢廻が言う。
ブレザーの間からチラと覗くベルトを褒めてくる辺り、いきなり普通じゃない。今日も絶好調のようだ。
「どうも。夢廻の制服姿もいいな」
突っ込んでも、例の『貴方のことはなんでも知っています』で二秒で切り返される事は分かり切っているので、刹那で忘れちゃうことにする。
「ありがとうございます……」
俯きながら夢廻が言う。
彼女のことが少しずつ分かり始めた。褒められると弱いようだ。僕に対してだけなのか、それとも褒められ慣れていないだけなのか、判断出来ない。恐らくこの容姿で褒められ慣れていないということは無いだろうが。
「そろそろ行くか。初日から遅刻は不味い」
「はい、そうですね。鈴くん」
並んで歩き出す。するとやはり身長差がある。底の厚いローファーを履いているので、十センチほど差があるようだ。
「これからどうするつもりだ? 真逆、毎日来るわけじゃないだろう。てか家はどのへんにあるんだ?」
「いえ。毎日来ます。下校も毎日お供します。私の目の届く場所に居てくれないと困ります。私の目的は、貴方の自壊衝動を止めることにありますからね。家はここから歩いて二分ほどです。かなり近いです」
「それは楽しみだなー」
「でしょうね」
神は死んだ。
僕の自由は潰えた。というか彼女に目をつけられた時点から、僕の人生にプライベートなどは無かったのだ。
家も近いとは。僕はいつの間にか、完全に鳥籠のなかに幽閉されていたのだ。
「だが待て。僕がバイトの時はどうするんだ。偶然今日はバイトだぜー残念だーそこは一緒に居られないなー畜生ー神は残酷だぜー」
僕はバイトをしている。天涯孤独の独り身が、バイト無しに生活していけるほど世の中は甘くない。両親の遺した貯蓄には、なるべく手を触れないように生きてきた。そこに甘えたくはない。困った時は、遠慮なく使わせて貰うつもりだが。
「どっちの、ですか?」
「oh……」
「どっちのことを言っているのですか?」
僕のことを何でも知っている彼女は、当然、僕がバイトを二つしていることを把握している訳だ。そして彼女は今、明らかに怒っている。それは恐らく片方のバイトの内容に関係しているのだろう。
「不純な方かな」
「やめなさい」
「金が……恩もあるし……」
「今すぐにやめなさい」
夢廻が鬼の形相で迫りくる。なんだか呼吸も荒い気がする。ハァハァしている。
不純。つまりあまりよろしくないバイトだ。孤児院時代の先輩に紹介されたのがキッカケだ。
内容は、金持ちのご婦人たちと、お話をしたり、買い物に付き合ったり、遊びに行ったり、という様なものだ。性行為に及ぶことは無いが『もっと稼ぎたいのなら考える』と先輩には言われている。現在は、そこまで金に困っているわけでは無いので、丁重にお断りしているが。
一人で生きて行く為に、手段を選んでいる余裕は無かった。両親は真性の畜生で、遺してくれた金をあまり使う気にはなれなかった。だがそれは今になって思えばただの言い訳だ。これは僕の意思で始めた事だ。
――つまり僕は喉元までドブに浸した屑だ。
「…………」
「鈴くんがバイト中、私は泣いていました。血涙を流し、唇を噛みしめ、髪を振り回し、雄叫びをあげていたのですよ」
「エクソシストかよ」
「嘘ですけどね。本当は座禅してこの世界と一体化していました。そうしないと気が狂いそうでしたし」
「今もそれ程正常には見えないけどな」
「バイトを始めた経緯を私は知っています。それでも私は、大好きな鈴くんがそんな事をしている事に耐えられません」
確かに潮時かもしれない。こんな事を続けていても、行く先はろくなものにはならないとは思っていた。
今、僕は彼女に救いの手を差し伸べられている。これを掴むということは、詰まる所、幸せ受け入れる、ということを意味する。
僕は彼女を悲しませない、その選択をし続ける事を今、この場で、決断した。即断即決が必要な時もある。それが今だ。
「わかった。やめる」
宣言したと同時に、横から彼女に抱き締められた。と同時に頭をゆっくりと撫でられる。
「おい! こんな所で……」
「鈴くん鈴くん鈴くん鈴くん鈴くん鈴くん鈴くん鈴くん」
覗き込むように顔を見てみると、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「驚いた。どれだけ泣き虫なんだ」
「仕方ないじゃないですか。鈴くんの事になると、冷静ではいられないんです。私、おかしいですよね。気持ち悪いですよね」
「いや、気持ち悪くなんてないよ。それほどに僕のことを想ってくれているんだな……」
この気持ちはなんだろう?胸に切ない何かが灯るのが分かる。それは初めての感情だった。
彼女の頭に触れてみる。すると、夢廻は一瞬身体を震わせた。拒否反応ではなく驚いただけだったようだ。そして、僕も彼女の頭を撫でてみた。髪はとても綺麗で触っていて心地よかった。
「私、今確信しました」
「何を?」
「貴方を救うことができると」
「……そうか。頼もしいな」
どちらからでもなく、自然に離れて改めて顔を見てみると、そこにはいつも通りの無表情な夢廻の顔があった。
「というか、通学路で僕たちは何をしているんだ」
冷静に考えてみると、とんでもないことをしでかしていた。
「愛の確認です」
「全く否定出来ない」
その後僕たちは、当たり障りの無い雑談をしながら登校した。
朝のホームルームには遅刻した。
Ⅱ
始業式は、体育館で全校生徒を集めて行うごく普通のものだ。普通に退屈だし、普通に校長の話は長かった。生徒会長の挨拶として、夢廻が壇上に登場する、ということもなかった。考えてみれば『人間嫌い』が生徒の代表なんてする訳もないのだが。
夢廻の学力はどんなものなのだろう。外見もさることながら、会話しているに、優秀であるように思える。次に会ったら聞いてみよう。僕は勉強は嫌いではないのだが、あまり得意ではないので、彼女が勉学に明るいのであれば教えてもらうのもいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、つつがなく式は終了した。
教室へ向かう廊下を歩きながら、僕は今日の予定について考えていた。
夢廻にバイトを辞めると約束をしてしまったので、先輩にそれを言いにいかなければならない。悪い人では無いので、すぐに了承してくれるだろう。故に、あまり時間がかかるとも思えない。早めに家に帰れたら、久々に長時間読書でもするか、と嬉々としていると、僕の思考に誰かが割り込んできた。
「ねえ、聞いてる?」
誰かが話しかけてきていることに気付く。
「聞いてない」
僕は夢廻ほど他人が嫌いだという訳ではない。だがあまり関わりたくないと日頃から考えいる。一人は楽だ。誰もが自分こそが正しいと信じて疑わない。それに触れる事が僕にとって有益だとは思えない。
思案する。夢廻は僕の事を救うことこそが正しいと信じている。でも、僕はそれを不快に感じる事はなかった。それは何故なのだろう。
「もう! 聞いてよ!」
なんなんだこの気性の荒い奴は。学校で僕に話しかけてくる人は教師以外に居ないはずだ。
「人違いだ」
「間違ってないよ! 橘鈴音くん!」
「何奴」
僕は返しつつ、例の如く観察を開始する。しなくてもいいのだが、今回もリスク管理面でやはり影響が気になるので、一応しておくことにする。
性別は女。身長は僕より大分低い。152センチと見た。体型は中肉。髪型はショートボブ、というやつだろう。厚みのある髪をカラーリングで上手く軽く見せているようだ。そのダークブラウンの髪から、リスを連想した。丸顔でタレ目。可愛らしく微笑みかけただけで二、三人くらいなら虜に出来るレベルだ。服装は着崩していない普通の制服姿。上履きの色は青。僕と同じ新二年生であることはわかる。男女共に人気のあるタイプの人間だろう。活発な言葉遣いだが、何かが引っかかる。好印象の中に不純物が混ざっているような感覚を得た。
「麻倉紅葉(あさくらもみじ)だよぉ! 去年も同じクラスだったじゃんか! 忘れちゃったの!?」
忘れちゃったというか、まず覚えていない。
「ああ紅葉ちゃんね、御機嫌よう。ハムスターの調子どう?」
適当に返しておく。
そんなの知らない!とか行ってさっさと何処かに行って欲しい。
「あはは!橘君って面白い! 寡黙な美少年! って感じなのにね?」
「そのテンションは何処から湧いて何処へ行くんだ」
目的はなんなのだろう。僕と話すメリットは皆無だと思う。いや待て、こういうリアル充実してます系の人は会話にメリットとかデメリットとか、一々考えたりしないのかもしれない。
とそんな話をしていると、小さな声だが確かに僕の名前が聞こえてきて、それに意識を奪われる。
(あの橘に話しかけるなんて……)
(関わらないほうがいいって)
(去年のアレだろ? 流石に引いたわーキチガイだろあいつ)
(おい聞かれたらまずいって)
いや聞こえてるからね、そこの有象無象。まあ事実だから一向に気にしないけど。もし僕に実害が及ぶようであれば話は別になってくるが、この程度は日常茶飯事だ。
(なに有名人?)
(何お前知んねーの?)
(上級生の不良と喧嘩して、そいつらの秘密基地?みたいの放火して殺しかけたんだろ?)
(うっわサイコパスじゃん!)
(イカれてんだって。血だらけで笑いながら救急車に乗り込むの見たし)
(つかサイコパスなんて言葉、お前良く知ってんな!)
「ちょっとアンタたち!」
突如、その会話を大きな女の声が切り裂いた。
「そういう陰口みたいのはやめなさいよ! もしやるんだとしても、本人の聞こえない場所でやるのが常識でしょ!」
声の主は、僕と先程まで話していた麻倉紅葉によるものであった。
なんとも正義感の強いお方が居たもんだ、と感心していると、有象無象の一人がよくある頭の悪そうな切り返しをする。
「は? お前にはかんけーないっしょ」
「関係あるわよ!」
「ないよ」
僕は即座に訂正をしておく。
「黙ってて!」
「うごっ」
彼女に肘鉄を食らった。
最近の女の子って初対面の人に、こんな対応するものなのか?つい先日まで、食べている物くらいしか違いのない毎日を確かに過ごして居たはずなのだけど……
これはどんな神様の悪戯だろうか。神様はサイコロを振らない、という言葉があるが、今は、絶対にダイス振りまくりだと思う。そうじゃなきゃこんなのあり得ない。
「意味わかんね」
「おい、もう行こうぜ。橘に俺、関わりたくねぇよ!」
意外に腰の引けた有象無象だった。
彼らが立ち去ったあと、その場には僕と彼女だけが残されていた。
決して頼んだ訳ではないのだけど、彼女は僕を庇ってくれた様だし、御礼の一つくらい言っておくのが筋だろう。
「庇ってくれてありがとう」
本当は事を大きくして欲しくはないのだけど、相手の善意によるものなら、それは仕方が無い。
「それはいいけどさ、ムカついたりしないの!?」
「別に」
本当に何も思っていない。
「強いんだね……」
唐突なシリアスモードへの引き金に、思わず動揺しそうになる。面倒な事になる前に、ここは強引に切り抜けてしまおう。
「そんなことないだろ。もう行こう。朝遅刻してるからな。LHRには遅れるのはマズイ」
「うん……そうだね」
いい感じだ。このまま何もなかった事にして、日常に帰ろう。日常、とは言ってもストーカーのこびり付いた非日常だが。ストーカーって茶渋みたいだな……
僕は少し俊敏に足を動かした。彼女もそれに倣って、僕についてくる。
勝利を確信した。
「待って……」
彼女が僕のブレザーの袖を引く。
「どうした」
僕は諦めた。相変わらずの諦めの早さである。もう関わるしかないと神のダイスが告げているようだ。乗るしかないこのビッグウェーブに(二回目)
「話、あるから。今日、学校終わったら、中庭の大きな木の前に来て」
初めに話しかけてきたときのあの活発さは無かった。表情はうつむいていてよく見えない。
僕はいつからフラグ建築士になっていたのだろうか。これは明らかにアレだ。場所と言い、セリフといい、完全にKOKUHAKUである事は間違いない。これで違ったら臓物撒き散らして死ぬ。
「了解」
そして了解してしまった。指定した時間に、指定された場所に行くだけの簡単なお仕事を断ることが出来るはずも無い。ましてやこんな憂いを帯びた声で言われては、行くしか無い。僕はそういうのには本当に弱い。
「じ、じゃ!」
「ウス」
彼女が駆け抜けていく様を、僕は見送るしかなかった。
「なにこれ」
ものすごく頭の悪そうな独り言が自然と溢れ出す。
どちらにせよ僕は自分が幸福になる選択肢を選びはしない。つまり、相手が超高校級のストーカーでもない限り、答えは初めから決まっている。嬉しい、という気持ちもあるし、ありがたいのだけど。
約束に了承してしまった事に、今更になって後悔していると、僕のケータイのバイブレーションが作動する。こんな時間にアラームをかけていただろうか。
疑問に思いつつも画面を覗くと、ケータイは、見知らぬ番号からの着信を告げていた。西濃運輸だろうか?そう思いながら、通話ボタンを押した。
「はい」
「鈴くん」
「はい」
「どういうことですか」
「何がですか」
「私というものがありながら、あの様な女と……」
夢廻さんだった。
僕は通話ボタンを押したことを激しく後悔する。これは誰がどう聞いてもお怒りになっていらっしゃる。西濃運輸のオッサン、いまだけ凄い恋しい。
「まさか、行かないですよね」
「いやー、どうっすかね」
ブチッ!!!ツーツーツー
どんな切り方したらそんな音鳴るんだよ、と突っ込みたくなるほどの轟音と共に通話が終了する。通話童貞卒がこんなのなんて、あんまりだと思う。
部屋だけでなく、僕の身体にも盗聴器をしてこんでいたとは。今朝、抱き合った時だろうか。
(それとも、他に……? アレか? いやまさか……でも……)
僕は纏まらない思考に苦戦しながら教室へと廊下を歩いた。
LHRには勿論遅刻した。
Ⅲ
LHR中、色々考えた結果、僕は一周回って気が大きくなっていた。別に僕が告白するわけでもないだろうに、夢廻は大袈裟すぎる。ササッと行って、ササッと断って、ササッと帰ろう。誠意は忘れずに、だ。それくらい構わないだろう。そういう結論に至っていた。
授業終了のチャイムが鳴る。
クラスが解散すると同時に、麻倉は教室を飛び出していた。
若干の緊張を孕みつつも、僕も約束の場所へ向かおうと、カバンを肩に掛けた。
その時、僕に声をかける人物がいた。
二十代後半の女教師だった。今年から僕の担任であるこの人は、成人なのかと疑うほどに小さい。僕も小柄な方ではあるが、頭一つ分小さかった。その教師が何か言っている。
「橘、くん。あなた書類係りです、よね? あの、ですね、これ、お願い出来たらなーって思って」
先程のホームルームで決まったのだった。早速仕事を頼まれるとは、ついていない。普段なら、全く構わないのだけど、今日は特別なのだ。人を待たせている。
「ああー」
「資料室に、持っていくだけでいい、ので。あの嫌なら大丈夫、ですよ。でも、ちょっと先生一人だと、往復しなくちゃいけない、かなーなんて」
恐る恐る僕に話しかけていることを見るに、僕のことが怖いのだろう。去年のあの一件が尾を引いているのは、間違いない。僕は問題児だからな。
「構いませんよ。これだけで大丈夫ですか?」
優しく返答する。
僕は普段から荒ぶってる訳ではないんだけどな……まあ少しくらい待たせておいても大丈夫だろう。
「ありがとうございます!」
女教師も安心してくれたようだ。よし、さっさと片付けよう。
仕事を終わらせ、声をかける。
「終わりました」
「ご苦労様です。何か飲み物でもどうですか?」
「いえ、大丈夫です。人を待たせて居ますので」
「そう、ですか」
女教師はだいぶ僕に気を許してくれたみたいだ。
「失礼します」
「はい……」
その場から離れ、小走りで中庭に向かう。何か言いたげにしていたが、今はそれどころではないので無視した。
中庭には、なんでも伝説の木、とかいう、そこで告白すると、必ず結ばれるとかいう、学校に非常にありがちな大きな木がある。待ち合わせ場所は、恐らくそこを指しているのだろう。
校舎の窓際には、背の高い植木が植えてあり、伝説の木は校舎内からは非常に見えにくい。そのこともあり、告白スポットとしては絶大な人気を誇るらしい。
待たせてしまって申し訳ないな、と思いつつも、外に出ると早速、麻倉の姿が見てとれる。やはり既に待っていたようだ。
よく見ると、もう一人、背の高い女生徒が木の下には立っていた。何から言い争いをしているようにも見える。
背の高い女生徒?見覚えがあるような
「夢廻……!!」
普段、僕はあまり声を荒げたり、大声を出したりすることは無いのだが、夢廻が絡むと避けて通れない。それだけ彼女の行動が規格外だ、という事だ。
「橘君、この人なんなの!? 意味が分からないんだけど!」
「鈴くんの妻です」
「違うから」
とりあえず否定しておく。
「違うって言ってますけど?」
「貴女こそ何なの。鈴くんにちょっかいを出すな」
「あなたには関係ない!」
「関係ある。消えろ」
完全な修羅場と化していた。これを収める方法が全く思いつかない。
夢廻がここへ直接来るであろうことは予測が出来た。というか当然の帰結だ。つまり、この状況を生み出したのは僕の責任だ。ここは僕がなんとかするしかない。
「は? あなた宮ノ業先輩でしょ? 橘君とどんな関係なの!?」
「だから妻だと言っている。何度も言わせるな。貴女こそ何なの。今まで鈴くんとは言葉を交わした事もないはず。そこまで鈴くんに固執するのはおかしい。私の鈴くんに話しかけるな」
完全なるブーメランなんですが。
麻倉は夢廻を知っているようだ。過去になんらかの因果関係があったのだろうか。……いや、そうは聞こえなかったか。あの口振りから察するに初対面だ。ということは、僕が知らないだけで、夢廻は有名人ということだろうか。これだけ美人で変わり者であれば、それもおかしくないことか。
「おかしくなんてない! あんたこそ急に現れて、なんなんなのよ! 私は、私はずっと前から彼が好きだったのに!!」
麻倉が怒気を纏った声で言う。
こんな告白をされるとは夢にも思わなかった。いくら伝説の木さんでも、この恋愛は成就させにくいんじゃないだろうか。無理難題を押し付けられて、彼も大変だな。
「ずっと前か。笑わせてくれる。私の方が、ずっとずっと前から鈴くんが好きだ。愛してる。彼のためにならいつでも死ぬ準備が私にはある。貴女には鈴くんは渡さない。これ以上関わり合いになるのなら、容赦はしない」
「夢廻さん、落ち着いてください。目が完全に目が座ってます」
なるほど、敬語を使わないこともあるんだな。などと冷静に分析している場合ではない。
「橘くんはどっちの味方なの?」
「鈴くんに話しかけるな」
「あなたには聞いてない!」
「耳が悪いのか? それとも頭が悪いのか? 早く失せろ」
「ハァ!?」
益々ヒートアップしてきている。これは議論からは程遠い唯のぶつかり合いだ。途中から面白くなって見物してしまっていたが、そろそろ止めた方が良さそうだ。
「夢廻、やめろ」
「わかりました」
僕を見て、一瞬で攻撃体制を解いた。
物分りが非常に良くて助かる。いつでも理性的な対応を取れるのは、物凄い好感が持てる。僕は彼女を見直した。
「橘君! この人おかしいよ!」
「それは否定出来ない」
「オイ」
夢廻が癖になりそうな突っ込みを入れてくる。
「麻倉も落ち着いてくれ」
「でも……! この人……!!」
「頼むよ」
「でも……」
「頼む」
僕は頭を下げた。
「わ、かった」
麻倉もギリギリ納得してくれたみたいだ。
「すみません……頭を下げさせてしまって……」
「問題ない」
これは僕が引き起こした事だ。事態を収めるのに僕が頭を下げるのは当然だ。
とは言え、ここから落とし所をどう作るかが問題だ。一歩間違えば、奈落行きの特急バスに乗ることになる。もう乗車してる気もしなくもないけど。
「ありがとう。麻倉、まずはさっきの返事をしておく。嬉しいよ、凄く。でも僕は君のことを何も知らないし、君も僕のことをあまり知らないはずだ。君はさっき、僕が気さくな人だと初めて知ったみたいだったな。付き合ってから知っていけばいいと思うかもしれないが、お互いを理解し合えないことを付き合ってから知る可能性がある、というのはおかしいと思うんだ。だから、ごめん。今、君とは付き合えない」
粘られた時への釘もさしておいたし、配慮も十分だろう。本当のところ、十分にお互いを知っている男女でも、理解しあえないことは必ず出てくる。だがそこには触れなくていいだろう。間違ってはいないと思うし、これで諦めてくれさえすれば、それでいいはずだ。
(フフン)
それで何故ここで夢廻が勝ち誇った顔をしているのだろう。確かに君は僕を物凄く知ってはいるけど、僕は君とも付き合っていないんだが。
「そう、なんだけど」
「流石私の鈴くんです」
納得してくれたか。良かった。丸く収まりそうだ。ちょっと夢廻さんは黙ってて欲しい。
「だったら、お互いをよく知っていれば可能性はあるってことでしょ? あのね……」
「いい加減、鈴くんを困らせるのはやめろ」
「は!? あなた何様? ウザいよ」
ストーカーVSミーハー。ラウンド2、ファイッ!
「鬱陶しいのは貴女。殺す」
夢廻が左手をスカートのポケットに手を伸ばす。チラリとアーミーナイフが垣間見える。刃物はまずいだろう。
「やってみなさいよ!」
麻倉が挑発した。
これ以上は、女子同士のリアルファイトもとい殺し合いを見ることになりそうなので、本気で止めておこう。
「二人とも動くな。動いたら指をへし折る」
瞬時に二人の指を両手で掴み取る。僕は別に武道の経験は一切ない。掴めそうなので摑んでみただけだ。因みに折ろうとすればいつでも躊躇なく折れる。
僕自身、喧嘩の場数は多いが、大怪我をすることが多かったりする。
「僕はこの場で誰とも付き合う気はない。解散だ」
次を最後通告にしよう。これ以上は面倒だから強制終了でいいだろう。
「聞こえなかったか? 解散だ」
二人はしばらく呆然とした後、夢廻は校舎方面に、麻倉はグラウンド方面に歩いて行った。
二人の姿が見えなくなって初めて、僕は安堵のため息を漏らす。
ここで一つ非常に重要な事が判明した。
『――宮ノ業夢廻という人間は、この世に実在する』
と言うことだ。
今まで僕は夢廻が僕以外の誰かと話している所を見たことはなかった。
僕を知り尽くしている人物、と考えて始めに思い浮かぶ人物は『僕』だ。故に僕は統合失調症などの精神疾患を抱えていて、彼女を無意識に脳内に作り出し一人芝居をしているのではないか、という疑念を密かに抱いていた。
疑いを初めて持ったのは、エッチな本を認めないと言われた時の夢廻の行動だ。特に行動を起こすことなく排除することがなかったというのが引っかかった。僕の一人芝居だとすれば、自分でエッチ本を回収し、廃棄しなければならなくなる。そういった場合、記憶の不一致が起きる事を脳内で考慮しあの様な対応を夢廻が取ったのではないかと考えた。
何らかの精神疾患が原因の場合、僕の感触、視覚等は全く当てにならない。だからこそ、第三者による『夢廻の認識の有無』を確認する必要があった。だからこそ僕はわざと通話後の夢廻を泳がせておいた。
夢廻が麻倉に接触するのは、分かっていたことだ。もしも夢廻の存在の確認が必要なかったのであれば、ホームルーム終了後、僕は何が何でも、早々に教室を後にしようとする麻倉を引き止め、筆談か何かでで待ち合わせ場所を変更しただろう。
――結論。僕の頭は信用に値する。夢廻は実在する。
夢廻は現実的な方法で僕の情報を得ている。
それが確認できただけでも良かったと思う。
「さて……」
どちらを追うのか、僕は最初から決めていた。迷う余地は一切なかった。
「ここに居たか」
「鈴くん…」
勿論、僕は宮ノ業夢廻を追いかけた。
彼女は、校舎の影にひっそりと座っていた。
「さっきは悪かった」
「さっきはごめんなさい」
僕たちはお互いにほぼ同時に謝罪をした。
お互いに、お互いを傷付けてしまったのではないか、失礼な行為を働いてしまったのではないか、その事に対する謝罪だった。
「僕は全く怒ってない。それに、あの時はああしなければいけないから仕方なくやったんだ。君のことを嫌いになったわけじゃ無い」
「私、本当に鈴くんの事になるとダメなんです。本当にごめんなさい」
「いいよ。僕こそごめん」
「私、鈴くんは怒ってないって分かっていたんです。私は鈴くんのことならなんでも知っていますから。でも、頭の中で考えることと、実際に体験することとでは全く違って、凄く怖かったです。鈴くんに嫌われたらどうしよう。鈴くんに無視されたらどうしよう。鈴くんがあの子の方に向いてしまったらどうしよう」
どれだけ彼女は僕の事が好きなのだろう。そこまで彼女を動かしているのは、なんなんだろう。
「嫌いにならないで……」
彼女は懇願するように声を絞り出す。
「なるわけないだろ。僕と君は似た物同士なんだ。わかるだろ?」
そう。僕たちは似ている。
――弱くて、それ故に、壊れている。
僕が夢廻を不快に思わない理由。それは彼女が僕に似ているからかもしれない。
「似ているんですか。私たち」
「そう思う」
「どのへんが、ですか?」
「目が死んでるところ」
「なんですか、それ」
彼女の顔に笑顔が咲く。僕も、微笑みを返す。また温かく切ない感情が胸に湧き上がる。
「鈴くん……」
「なんだ?」
「先程の修羅場、楽しんでいたでしょう」
じーっと彼女が僕を見つめる。
「バレてたか」
ナチュラルボーンクズの名を欲しいままにするのがこの僕だ。だが今件に関しては、ちゃんと後悔はもちろん反省もしている。いくら『夢廻の実在の有無』を確認する為だったとはいえ、考え無しだった。他の方法はいくらでもあった。
「というか、わざと私と彼女を引き合わせましたね」
「そこまでお見通しだったか」
「私は貴方のことをなんでも知っていますから」
最早決め台詞だ。
僕の脳内劇場でないとすれば、この発言はハッタリの類だと思っていた。ハッタリではないにしろ、誇張表現であると。蓋を開けてみれば、割と事実だった。
「全く、敵わないよ」
「でしょうね」
僕は早くも彼女と居る事を楽しむようになっていた。
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