3話 初戦

 彼女が一通り泣き終えた時には、時刻は八時をまわっていた。

 彼女の第一印象は、最低に近かった。その印象がものの数時間でオセロのように覆ることになるとは、布団の中で毛布を愛撫していた僕は知る由もないだろう。

 朝日はすでに完全に昇っていた。静まった部屋の中に、彼女の声が響いた。

「鈴くんの部屋、なんで遮光カーテンしかつけてないんですか?」

「そんなの決まってる。カーテンを開けないから他の薄いのは必要ないからだ」

 何故そんなことを今聞くのか、全く意味がわからないが、一応答えておく。

 僕は質問をされた時、どれだけ意味がわからなくても、それを聞き返さず、まずは答えた方が話を転がすという面で優れていると考えている。恐らく何かの意味があるのだろう。

 遮光カーテン以外のカーテンなんて僕にはいらない。邪悪な日光はシャットアウトだぜ。

「それは駄目です。しっかりカーテンを開けて、しっかり換気して下さい」

「なんで」

 彼女がやけに食いつくので、僕は気になった。確かに日光を浴びることは大切だがそんなに重要な事だろうか。

「外から盗撮してても中の様子が良く分からないんですよ。やめてください」

「ぶっちゃけすぎだろ」

「もう色々話しちゃいましたからね」

 なんとも気持ち良さそうな表情で彼女が言う。

 二時間我慢した小便を出し終わった後の僕の顔のようだ。ああ例えが最低だ。泣いているのよりはかなり良いけど、全く僕はスッキリしていない。

「全く……もう隠している事はないだろうな」

「あ、見てください。クマさんがあそこに」

「クスリでもキメてるのかよ」

「失礼な。私はシラフです」

 明後日の方向を見ながら彼女が下手くそな口笛を吹く。意外に茶目っ気のある人なのかも知れない。

「怒らないから本当の事を言ってくれ」

「鈴くんを盗撮した写真が三千枚を超えました。私の部屋の壁は鈴くんパラダイスです。楽園ベイベーです。ラブ鈴くんです。先程は言いませんでしたけど、鈴くんの外見もかなり好きです。最初見た時、女の子かと思いました。まつ毛とか長くて羨ましいです。肌も綺麗ですよね。顔も小さいし。可愛いです。胸キュンです。仕草とかも何だか色っぽいです。後は手ですね。綺麗です。白くて浮いた血管なんて最高です。あ、一昨日散髪しましたよね。今回は整えただけですか? 襟足とかクルッとしてて可愛いです。頭撫でていいですか」

「急に白状し出すのは可及的速やめてくれ。おっちゃん頭が追いつかないよ」

 あと楽園ベイベーは古いと思う。何歳だよ。

「白状するのはやめますので、頭撫でさせて下さい」

 そう言って彼女が無表情で僕に迫ってくる。なんだこの状況。普通こういうの逆じゃないのか。

 僕はテーブルを挟んで彼女が座っているベットの反対側に座っていたのだが、いつの間にか吐息がかかる程に接近されていた。

 近くに来て改めて感じる。この人、やはりとんでもなく美人だ。さっき、僕の外見を盲目的に褒めてたけど、彼女の方が何倍も整ってる。いい香りもするし、これは思春期男子的に駄目な状況だろう。

「そこの車両止まりなさい!」

「なんですか、貴方誰ですか。今いいところです。邪魔しないでいただけますか」

 ジトーっと至近距離で見つめられる。

 通常時にも無表情でジト目気味ではあるのだが、こうして近くで見ると、表情の違いがわかる。恐らく、彼女のことをあまり良く知らない人からしてみれば、いつも全く感情のない無表情な人、だと思われている事だろう。

「僕、関係者なんだけど」

 というか当事者なんだけど。

「冗談ですよ。そんなに嫌がらなくてもいいじゃないですか。酷いですよ」

 言葉に抑揚が全くついていないので、分かりにくいが、恐らくいじけているのだろう。

 いくら相手が超絶美人でも、初対面の人に吐息がかかるほど接近されれば嫌がるのは当然のことだ。

「悪い悪い」

「あ、嫌がってるのは否定しないんですね」

「あ、そうだ」

「オイ」

 俺は思い出した様に、切り出した。タイミングが掴めなかっただけで、忘れていた訳では無かったのだが。

「まあいいです。なんですか」

 抑揚がなさ過ぎて肯定なのか疑問なのか、文脈無視したら分からなくなりそうな話し方だ。

「ちゃんと自己紹介しておこう」

 相手は僕のことを僕以上に知っているが、僕は彼女のことを全然知らない、という不可解な状況が続いている。正直な所、僕は彼女の名前さえ分からない。なんだっけ、最初に名乗ってた気もするんだが。

「そうですね。それは大事な事です。私は宮ノ業夢廻と申します。華の17歳です。身長169cmです。体重は秘密です。スリーサイズは上から……」

「ゴクリ……」

「鈴くんえっちですね」

「別に興味なんてないからな」

 本当にない。嘘じゃない。焦ってない。

「89 58 82」

「言うのかよ」

 そういうの女子は普通、内緒にしておきたいものじゃないのか。

 しかし89は凄い。いやでも胸のサイズというのはトップとアンダーの差で決まるものだ。いくらトップが大きくても、アンダーが太ければ実質的なサイズは小さくなる。ウエストの細さから計算するに……って僕は何を考えているのだろう。

「E70です」

「そんな所まで心を読んでくる必要はないんだぞ」

 とても立派なものを持っているようだ。

「知りたそうな顔をしていたので」

「そういうの軽々しく言うなよ……」

「軽々しくはありません。私は鈴くんにだけしか教えません。鈴くんは私の全てです。私の全ては鈴くんのものです」

「そ、そう……」

 今、僕の顔は痙攣を繰り返しているに違いない。

「それから朝日ヶ丘高校に通う新三年生です。美術部に入ってます。趣味は鈴くんの監視と盗撮です。あと絵を描くことです。鈴くん鈴くん鈴くん鈴くん」

「うわあああああああ引っ付くな」

 油断すると物凄いスピードで近付いてくる。両手で引き剥がしながら、続きを促す。

「ごめんない。でも私がN極で、鈴くんがS極ですからね。くっついてしまうのは仕方のない事ですよね。その辺、多少は目を瞑って欲しいです」

「ちょっとよく意味がわからないんですけど」

「あ、説明必要ですか? これ話し出すと長いですけど、いいですか? 前世で私たちは恋仲の関係にあってですね、時空断裂の影響で磁気を帯びた地表に……」

「ストーカーな上に電波かよ。というか長話はもうやめてくれ」

「ぶー」

 無表情でぶーとか言うな。

「僕は君のこと、なんて呼べばいい? というか先輩だったんだな。敬語使った方がいいか? いいですか?」

「名前を呼び捨てでお願いします。それ以外は認めません。敬語は禁止です」

「了解した」

 頑ななのは気になるが、特に異を唱える所ではない。僕は素直に従った。

「ん」

「なんだ?」

 何か言いたげな表情をしている。名前を呼んで欲しい、とかだろうな多分。そう形式ばられると若干緊張する。

「キスしていいですか」

「なんでだよ!!」

 この人、ぶっ飛び過ぎてて行動の予想が全く出来ない。

 他人の観察をして、予測を立てて、自分の言動の方向性を決めて、脳内でシュミレーションして、というのが完全に無駄になる。ただだだ突っ込みに回るしかない。

「していいですかダーリン」

「誰がダーリンだ誰が。出会ってほんの数時間でマリッジしてたとか、どんな奇跡だよ」

「出会って四秒で合体、的なですか」

「オイ女子」

 とんでもないネタを放り込んできやがる。夢廻が一回喋る度に、こちらは平均三つくらいの突っ込みをしなくてはいけないくらい勢いだ。追いつくわけがない。

「ところで鈴くん。私が貴方を救わせて頂くにあたい、今後えっちなものは一切認めませんので全て捨てて下さいね」

「急に何を言い出すんだ。それは断る。それだけは譲れない。捨てるなら死ぬ、捨てないなら生きる。2択だ」

 オルタナティブに生きる男、それが僕だ。

「どこで自分を追い詰めてるんですか」

「というかそんなもの持っていないから捨てる必要もないけどな」

「嘘は駄目ですよ」

 夢廻が僕ににじり寄る。

 やはり嘘は通じないか。エッチ本の在庫数も内容も把握されてると見て間違いない。変な趣味持ってなくて良かったぜ。スク水ものが大量にある事は何らおかしな事ではないよな。

 これは一見、エッチな本を捨てられたくがない為に、必死の抵抗を見せているただの哀れな奴にみえるかもしれない。実際、それもある。だが僕にはその他に歴とした目的がある。

 もしも、彼女が部屋を盗撮しているのであれば、次の瞬間、実力行使に出るだろう。置いてある場所に一直線で無駄なく向かい、目的のものを排除するだろう。彼女の目は本気だ。子供のカードを躊躇なく捨てる母親と同じ類のものだ。盗撮をしていないのであれば、他の方法を取るはずだ。あるいは実力行使に出るとしても、何らかのアクションを挟むだろう。

 さて、どう出る?勝負だ宮ノ業夢廻……!

「…………」

「黙秘権の行使ですか。成る程、考えましたね」

(チラ)

 俯きながら顔色を伺ってみる。

「仕方ないですね、所持を認めます。ですが今後、そういったものは、許可性にさせて頂きます。買いたい場合は、私に申請してからにしてください。いいですね」

 意外に優しい。というか大人だ。強引、即決、頑固、不気味という印象があったが、それは間違いだった様だ。なんというか包容力がヤバい。この人は寛大だとか思ってしまっている自分がいる。

 よく考えてみると、彼女の行動は理不尽でしかないのだが。僕以外の人間であったなら激怒していても何らおかしくないだろう。

 それはいいとして、分かった事がある。彼女は僕の部屋を盗撮していない。絶対だとは言えないが、それが濃厚になった。僕が黙秘権を行使した時、即座に排除に動く素振りは無かったし、ブツの方向に目が走ることもなかった。と言うことは、あることは知っているが、場所はわからない、ということになる。

「わかった。寛大な心遣いに感謝ッス」

 良いわけが無い。だがここでゴネても百害あって一利なしであると僕のシックスセンスが囁く。

 出会ってすぐに本能的に尻に引かれている辺り、情けなくて涙が出てきそうだ。

「いい子です」

 夢廻は満足げに頷く。

 僕を子供扱いしている気がするのは気のせいだろうか。

 お姉さん気質であるからと言われてみればそれまでなのかも知れないが、しかしここでただ折れるのは武士の名折れ。適当に言い返しておくか。ストーカーに怯まない僕、格好いいみたいな。

「だが少し待って欲しい。僕だけそんな制限を設けられるのはおかしくないか。平等に行こうぜ。つまり僕にも君のオカズを管理させろ」

 自分でも何を言っているのか分からない。言った後、というか言いながら後悔する。

「私は一向に構いません。自分自身の写真を管理したいと思うのは当然だと思いますし」

「あああああああああ!! やめろおおおおおおおお!!」

 思わずうめき声を上げる。この人には勝てない。それを確信した瞬間だった。

 表情を盗み見てみると、無表情な中でも少し頬を赤らめている。キャッ言っちゃった!恥ずかぴい!みたいな。恥ずかしいのはこっちだこの野郎。初対面の相手に『貴方の写真が私の源泉です!』なんて言われてみろ。頭がおかしくなるのは必至だ。

「そんなに嬉しいですか」

「嫌では無いと思っている自分がいるので困惑している」

「もう……馬鹿」

 なんなんだこの会話。バカしかいないのか?僕を含め頭の中ラリってる奴しかここには居ない。そろそろ真面目に戻ろう。

 ――斬り込こんでみるか。

「君は室内にカメラを仕掛けていない」

「はい。していません。そんなプライバシーを侵害するようなことはしません」

「プライバシーって何だっけ。インテリア小物とかに使われる曲線を帯びた合板?」

「それはプライウッドです」

「知ってんのかよ」

「でもおかしいですね。私、そんなことは一言も言わなかったと思うのですが」

「エロ本、行動、目線」

 最小のヒントを与えてみる。

「……成る程。流石、私の鈴くんです。凄いですね。別に隠して居たわけではないのです。部屋の中を盗撮はしていない、と明言もするつもりでした」

「なるほどそうか。初めにヒントはくれていたんだな。遮光カーテン」

「はい。それにもお気付きでしたか」

 いや今気付きました。

 盗撮しているのであれば、外から撮る必要はない。あの不自然な会話の切り出し方、おかしいと誰でも思う。それを言うつもりだったということか。

「心理戦を仕掛け合うのやめようぜ」

 よく考えてみるとなんつー台詞だ。僕が最小のヒントを与えるだけで、一瞬で答えを導き出すところを見るに、やはりかなり頭がキレる。問題は、内容がとんでもなく下らないって所だが。

「そうですね。私は鈴くんの為に存在するのですし、そんなこと必要ありませんからね。ただ私たちは愛し合えばいいのですから……」

「悦に入ってるところ、悪い。気持ち悪い」

「そんな悪いこと言う子にはこうです」

 抱き締められた。

 回避も出来たが、僕はしなかった。出来なかったのではない。僕の意思でしなかった。夢廻の顔がとても憂いを帯びている様に見えたからだ。

 一見異常で、冗談ばかりを言う彼女にも勿論、悩みはあるだろう。人間の二面性を受け入れられない、と言っていた。僕だけが例外、のような口振りでもあった。

 ――つまり、彼女は『人間が嫌い』なのではないだろうか。

 人が嫌いであるならば、一歩、家の外に踏み出せば、敵だらけ。何処を見渡しても、嫌悪の対象になる。望んでそうある訳ではない、という様なことも言っていた。悩みの連続だろう。そして、それはとても生きにくい事だろう、苦しいことだろう、と思った。

 僕は彼女を心から想った。

「…………」

「離れろ、って言わないんですね」

「そんな顔してたら、言えないよ」

「鈴くんは、弱い人には誰にでも優しいですからね。弱い人のために戦って、死にたがる」

 そんな所まで理解されているとは。他人を理解するということは、言葉ほど簡単なものではない。まず、他人を知ろうと思う事自体が非常に難しい。人間は利己的な動物だからだ。

「この優しさが、私個人に向いているものではないと、分かっています」

 一度言葉を切ってから、彼女は続ける。

「それでも、今、しあわせです」

 抱きしめ合う、というよりこの場合、抱きしめられている。というのが正しいだろう。僕より彼女の方が身長が高い事も関係して、僕の顔は、彼女の胸にすっぽりと収まっていた。

「…………」

 しばらく沈黙が続いたが、僕は切り出した。

「人が、嫌いなのか」

「はい」

 距離が近いため、吐息と同時に囁くような声が耳元に届く。

「どのくらい?」

「五十分、同じ空間に居るのは、とても苦痛です」

「そうか」

 五十分。授業の一コマだ。

 学校というのは、様々な思考や志向を持った人間が集められる箱庭だ。どうやっても自分の受け入れられない考えや人間にブチ当たる。その対象が全員だ、と言うことだ。全員を受け入れられずにいる、ということだ。

 ――僕を『孤立』とするなら、彼女は『孤独』だろう。

「はい」

「僕のことはどうなんだ」

「これが答えになりませんか」

 ほんの少し、僕を抱きしめる力が強まる。

 弱い人を救って僕は死にたい。その人にすぐに忘れられても構わない。ほんの少しでも感謝されて美しく死にたい。僕の望みはそれだけだ。そう考えても、ここは理想の場所かもしれない。

「僕も、君を救おうと思う」

「それは違います。私が貴方を救うんです」

「……そうか」

 部屋の中に一時、静寂が戻る。100円ショップで買った時計の安っぽい秒針の音だけが鳴り響く。

 それを、今度は彼女が切り裂いた。

「愛してます」

「…………」

「この世界で一番愛してます。ずっと愛してます」

「ああ」

「私のこと、愛してくれなくてもいいです。貴方の弱さを愛してます」

「ああ」

「嘘です。私のこと愛して下さい」

「それは考えさせてくれ」

「いけるかと思ったのに」

「嵌めようとしてんじゃねぇよ」

 多分、この出会いは幸福へ続く。彼女から逃げないことで、何か変わるかもしれない。少しの間、彼女と関わってみよう。そう思えた。

「あ、一つ言い忘れてました。盗撮はしてないですけど、盗聴はしてます」

「ああうん」

「鈴くんいい匂いです。スーハースーハースーハー…ゴホ、ゴホッ」

「え」

「毎晩の鈴くん自宅LIVE最高です」

「おまわりさーーーん!!この人でーーーーーす!!」

「鈴くん、御近所迷惑ですよ」

 早速挫けそうだ。

 あれから少しの時間、雑談をし『鈴くんは眠いみたいですので、今日は帰ります』と残し彼女は早々に帰宅した。

 ネタをバラしてしまえば、簡単だ。彼女は盗聴しているので、僕が眠れずにいたことを知っていたのだろう。あの時間の訪問には、そんな理由があったのだ。それにしても非常識だが。

 まるで嵐の様に過ぎ去った到来だったが、今思えば、なんとも現実味の薄い話だ。

 時刻はまだ昼の12時を指しているが、夜に眠れていないせいで、流石に限界の様だ。これなら薬に頼らず眠ることが出来そうだ。とにかく疲れた。

 布団に入り、いつもの様に少し考え事をする。

 夢廻は『人間嫌い』だ。

 程度は今後、自分の目で確認するつもりだが、正直イマイチ信用ならない。

 ほんの数カ月で僕のことを、ここまで単独でここまで調べることが出来るのだろうか。いや、単独ではない可能性も大いにある。万一、もしそれが可能だったとしても、見かけただけの赤の他人の僕を、ほんの数カ月でここまで愛する事が可能なのだろうか。全てが嘘である可能性も大いにある。だがそうした際に生じるメリットはなんだろうか。考えてみても分からない。

 とすると彼女はただの異常者で、妄想癖を持っていてるただのメンタルヘルス患者であると考えるのが自然だろう。その可能性が現状、図抜けて高いのではないだろうか。

 事件を起こした僕にたまたま目をつけた、というだけの気まぐれな行為?あるいは他に目的が?金銭目的?それも考えにくい。私怨?それとも他に依頼主が?

 考えは纏まらないがいずれにせよ、警戒が必要だろう。信用して、心を許して、それから裏切られるのなら死んだ方が何千倍もマシだ。

 六年前の【あの日】、僕は裏切られた。

 あの時を忘れられず、あの瞬間を今でも夢に見る。眠ろうと目を瞑ると、【あの日】が僕を追いかけてくる。自然に涙が溢れ出る。他のどんな出来事でも、誰にどんな事をされても、もう涙なんて欠片も出ないのに【あの日】のことだけは別だ。似た様なことが最近あったせいに違いない。もう半年以上前になるのにフラッシュバックが止まらない。一度は落ち着いた症状が、似たような体験をしたせいでぶり返してしまった。

 ――情けない、そう思う。

 こんな僕を誰にも知られる訳にはいかない。理由は自分でも分からないが、それだけは知られたくないと日々考えている。

 僕のことを何でも知っていると言っていた夢廻はこの事さえも知っているのだろうか?それは……困る。声を殺す。盗聴しているであろう彼女に聞かれない様に歯を食いしばる。

 誰か、誰か助けて欲しい。もう、終わらせて欲しい。いっそ今日、彼女に刺されて死んでしまえれば、どんなに楽だっただろう。

 涙で揺れる視界の端に、黄ばんだ一冊の本の幻覚を見る。

 あの頃の僕は、それを何度も何度も読み返して、僕は自分を繋ぎとめた。だからだろうか。今でもどうしても捨てられずにクローゼットの奥に押し込めてある。


 『誰かを救って死にたい』


 それだけが叶わない。僕の望みはそれだけだ。

 身体は限界を迎えたようだ。

 僕は薄れゆく意識の中、今日も夢に見る。最後に信じたあの女の子を。最後まで僕の目を見てくれる事はなかった【あの日】を。僕を壊した【あの言葉】を。

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