2話 悲願(彼岸)

 始業式を前日に控えた4月7日、早朝。

 僕は布団の中で温もりと共に、最後の春休みの休日を味わっていた。翌日から通学している高校の新二年生になる。

 まだ肌寒い春先の事だ。『深夜二時です』と言われても信じてしまうであろう程に室内は暗い。カーテンの隙間から外を覗いてみてもそれは変わらないようだ。

 静まった室内に突如、チャイムが鳴り響いた。

 ティンローン!

 予想もしない音に驚く。

 これは余談だが、僕の家のインターホンの呼び出し音は、ピンポンではない。ティンローンである。

 普段、僕の家には佐川急便と西濃運輸しか訪ねて来ることがないのだが、突如鳴らされると僕のピュアなガラスハートが破裂してしまう恐れがあるので、音量は最小に設定してある。

 ティンローン!

 二度目のティンロンを聞きつつ、毛布を愛撫する手を止めて、枕元の携帯を手元に引き寄せる。

 時刻を確認してみれば、アナログ時計の針は、午前四半時を指していた。

 異常事態に見舞われていることは火を見るより明らかだ。

 僕はワンルームマンションの一室を賃貸している。ここの住所を知る人間自体はかなり限られる。出身施設の関係者、宅配業者。それから通学している高校。その位にしか知られていないはずだ。両親はぐちゃぐちゃになって死んだし、親類には見放されている。友人は一人も居ない。

 早朝の謎の訪問者に当てはまる人物は、一人として存在しないと言えるだろう。とすれば不審者以外はありえない。

(無視だな)

 初めから決まっていた事だが、僕は居留守をキメこむことにした。

 息の殺し方には自信がある。ティンロンが鳴った瞬間、瞬時にテレビの音量を下げる選手権を開催したならば三回戦くらいまでは行くと思う。

(不審者…か)

 僕はそのワードからとあるニュースを思い出した。

 近頃、この辺りでは事件が多発しており、それが原因で連日連夜騒がれている。通り魔で二人ほど亡くなった。それも猟奇的なもので、死体の損壊がかなり酷かったそうだ。

 ――通称、朝日ヶ丘市連続猟奇通り魔殺人事件。

 被害者は二人だけではあるが、その殺害方法があまりにも特異だった点と両者とも道端で殺されていた点から、その様な呼び名がついたそうだ。犯人はまだ捕まっていない。あまり興味がないのでそれ以上は詳しくは分からない。

(どうでもいいか)

 そんな事を考えつつ、寝返りを打とうとしたその時、三度目のチャイムが僕を襲った。

 ティティティンローン!

 連打して重ねてくるパターンだ。

 音量を最小に絞ってあるので煩いという程ではない。だが、相手が意地でも僕を叩き起こそうとしているのは不快だ。

 今ここに僕と変質者の闘いが幕を開けていた。必ず無視して寝てみせる。そう心に誓い布団を頭まで被った。

「…………」

 その決心が揺らいだのは20分後だった。

 その間、様々なバリエーションを駆使してティンロンを繰り出し続けた相手に、僕は遂に折れた。

「認めてやるよ。負けたわ」

 全くイラついていない自分に呆れつつ、部屋の電気をつけ、ドアホンの画面の前に立つ。受話器と画面が一体化しているアレだ。オートロックではないので、不審者は僕の部屋の前に二十分もの間立っている事になる。

 考えてみるととんでもない狂気だ。

「どんな奴か顔を拝んでやるよ。即時通報してやる」

 そう意気込みつつ、僕は受話器を手に取った。

「頼むからやめてください」

 なんとも情けないが、咄嗟に出てしまったのだから仕方ない。

「おはようございます」

 至極丁寧な口調で、画面に写った人物が返答を寄越した。とても甘ったるい声質だが、声の高さから非常に落ち着いている事が読み取れる。

 その次の瞬間、僕の鼻腔の中に桃のような薫りが充満する錯覚に陥った。なんだかとても懐かしく、凄く濃く甘い香りだった。

(女……か?)

 返答を考えている間に、訪問者は続けた。

「朝早くに申し訳ありません。ですが、決心が揺るがないうちに鈴くんに会いに来ました」

 言ってることの全部が意味不明だ。普通ならお巡りさんに問答無用で連れて行って貰う所なのだが、僕の名前を知っている、という所には引っかかる。

 僕の名前は鈴音(すずね)だ。鈴くん、なんてニックネームで呼んでくる友達は居ないはずなのだが。

「なる程。よく来たな、帰れ」

 取り敢えず自発的に帰ることを促してみる。

「ご迷惑であることは、百も承知です。お話を聞いていただけませんでしょうか? 私は、宮ノ業夢廻(みやのごうゆめみ)と申します」

 帰る気はないらしい。その上、ご丁寧にも自己紹介をされてしまった。

 なんだか聞いたことがあるような気がする。いや……気のせいだろう。何度も言うが、僕は友達がいないのだ。

「…………」

 出来る限り観察してみる。やはり暗くてよく見えないが、女の子であることは間違いなさそうだ。

 引きこもりの部屋に宗教勧誘の付き添いとして現れ、なんやかんやと深夜の公園で脱引きこもりの為のカウンセリングをしてくれる天使が居る、という都市伝説を聞いたことが有るが、僕は生憎引きこもりではないので残念ながら選考落ちしているのでそれではないだろう。

 しかし、相手が女子であるということが分かって警戒心が緩んだというのは事実だ。更に二十分もティンロンを押し続けられた事を考慮するならば、これはもう諦めて対応した方がいいのかもしれない。

 危機管理能力の欠け具合には、かなりの定評のある僕の異常さが顕著に現れている。

「人違いではないのか?」

「私が鈴くんを間違うはずがありません」

 最後の抵抗も食い気味で否定され、僕は諦めた。

 さながらテスト終了1分前に、全ての答えが一つずつズレている事に気付いた時のようだ。僕はそういう時は焦らず直ぐに諦めて黙祷を捧げるタイプだ。

「そう……」

 それしか用意できる回答を持ち合わせていない。本心は何言ってんのこいつ、だが初対面でそんなを言う気は流石に起きない。

「はい!」

 間髪入れずに女から返答がくる。何故自信満々なのだろう。

 僕の頭は遂におかしくなってしまったのだろうか。現状を疑うより、自分の頭疑った方がいいかもしれない。それ程に突飛な事が起きている。

「わかった。今開ける」

「あの、話を聞いて下さるなら、ここでも構いません」

「いや、取り敢えず出るよ。君、寒いだろう」

 どこで謙虚さ発揮してるんだよ、と思いつつも考える。

 二十分以上もドアの前に立っているのだし、もう手足は冷え切っているはずだ。別に僕はフェミニストではないが、流石に可哀想だ。とはいえ、不審人物に意味のわからない同情をする辺り、本当にイかれていると自分でも思う。

「ありがとうございます……」

 それまで凛とした印象を受けた彼女の声に、初めて人間味を感じた気がした。それと同時に、少し震えている様な気もする。

 子供の頃から、他人の顔色を伺う癖が今になっても抜けない。他人の心のコンディションを見分けるには、声は重要な判断基準になると思っている。

「平気だよ」

 極力、優しい声をかけて通話を終了する。

 真逆、西濃運輸のオッサン以外と通話する日が来るなんて、思いもしなかった。しかもそれが女の子だとは。ケータイでの通話ではなく、ドアホンでの通話なので、通話童貞は保たれたままだが、僕は何やら得体の知れない達成感と高揚感に包まれた。

 ドアまで歩く数秒間、その後のことを思考する。話をしたいと言っていたが、相手は何者なのか?それはどんな内容か?目的は何か?

 もっと大切な事があったはずだ。その全てをあえて無視してドアを開けた。

「開けまーす」

 ――ドン!

 身体に衝撃が走る。一瞬思考が追いつかず、現場の把握にコンマ数秒ラグが生まれた。

 持ち直して、目の前に立っている女の子を見てみる。


 ――彼女は僕の身体に握った両手を突き入れていた。


「ふあっ……」

 やっちまった。思わず情けない声が出てしまった。

 思い返さずとも、恨みの出処なんていくらでもある。僕は世間的には異常者であるし、疎まれている存在だ。それは自覚している。知らずのうちに怨みを買っていても全く可笑しくはないし、少し思い出しただけで、数人の顔が頭をよぎるレベルでの嫌われ者っぷりだ。そしてそれ故に、報復の可能性は十分にあった。

 報復の類ではないにしろ、この辺りに出没したという通り魔はまだ捕まっていない。危険である事は折り紙付きだった。

 まあ仕方ないか。この際、なんでもいいや。

「油断してた。でも女の子に殺されるなら悪くないな」

 僕はそんなふざけた事を言いながら、彼女の顔を見た。

 笑っていた。おどろおどろしい笑みだ。まるで彼岸花が咲いたようだった。

 真っ赤に濡れた彼女の唇が、吐息交じりに言葉を紡ぐ。

「鈴くん」

「何かな」

「なーんちゃって」

「へ?」

 彼女が僕から離れる。

 彼女の手には何も握られて居なかった。僕の体内に置き去りにしたのか、とも思ったが、目を走らせてみるに、傷口の類は一切なかった。

「騙されました?」

「オイ」

 茶目っ気で許されるレベルじゃない。三年間、同じ釜の飯を食い、青春を共に過ごした親友にされても激怒する悪質な悪戯だ。

「鈴くんは今、ここで死んでたかもしれないんですよ。こんな時間の見知らぬ客人に扉を開くなんて普通じゃない事を自覚していますか?」

「現状、普通じゃない事に関しては圧倒的に敗北する自信があるぜ」

「貴方は、実際に刺されたと思い込んだ。それでも全く後悔する素振りもなく、軽口を挟んで平然と相手に話しかけて来た。顔には笑顔を張り付けて、です。そして一番重要なのは、今この辺りは非常に危険だということ。それを貴方は知っていた。ここから導き出される答えは……」

「無視かよ」

 出会い頭に探偵ごっこをされている事に困惑せざるを得ない。というか僕笑ってたのか。

 色々突っ込みどころはあったのだが、面倒なので流れに身を任せる事にした。

「貴方は、扉の向こうの人物に危害を加えられる可能性を考慮して、それでも扉を開けた。初対面の明らかに怪しい私を信用して、という線はあり得ません。故に貴方は死にたがりの阿呆です。違いますか?」

 彼女は刺す様な、でもどこか慈しむような目で、僕の目を真っ直ぐに捉えていた。矛盾しているようだが、感じたのだから仕方ない。

 というか初対面の意味のわからない女に、阿呆呼ばわりされる僕は一体何なんだろうか。しかしよく喋るなこいつ。

「いや考えてなかっただけだよ」

「嘘です。私は貴方のことなら、なんでも知っています」

「なんでも?」

 それはまた随分と大きく出たものだ。

「はい。橘鈴音くん。年齢16歳。12月15日産まれのさそり座。身長164センチ。体重49kg。趣味は読書と昼寝。平和主義。敗北主義。好きな食べ物はラーメンとりんご飴。好きな色は赤。埼玉県川越市生まれ。川越市育ち。11歳までは両親と同居していた。過度な虐待歴あり。小学校高学年の時、生徒数人に暴行を働いた経験あり。その後、両親が事故で亡くなった為、児童施設へ。高校入学を機に、一人暮らしを始める。現在は、埼玉県立朝日ヶ丘高等学校に通学している。入学三ヶ月で事件を起こし、長期入院を経験した。事件が原因で周囲からは浮いている」

「待て待て待て」

「ここからですよ。概要を一度全て挙げた後、人格を形成したもの、成長過程、現在の倫理観、価値観、行動パターン、全てを分析した総評を……」

「お巡りさーーーーん!! この人です!!!」

「鈴くん、ご近所迷惑ですよ。やめた方がいいと思います」

 この人、物凄く怖い。ご近所の迷惑より、僕個人への迷惑量が半端じゃない事に気づいて欲しい。

 早朝に突然訪ねて来た挙句、ティンロンを20分ならし続け、出てきた人間を刺し殺す振りをして、危機感が足りないと説教をし、終いには相手の過去を一方的に語り出す。これは現実なのだろうか。普通に考えたら僕の妄想だ。僕は深層心理でこんな事を考えていたということか。

 僕は自分の頬をこれでもか、というほどに抓り上げた。

「何してるんですか」

「ひやほへゆへかなっへ」

「夢ではないです」

 通じていた。

 多分、この人はアレだろう。もう言ってしまって構わないだろう。

「君さ、もしかしなくても、ストーカー? ってやつか」

「ストーカー……ですか。なるほどこれはストーカー行為にあたるのですね」

「何処を切り口にしても紛うことなきストーカーかと思うのだが。自覚が無かったのか」

「気付きませんでした……流石私の鈴くんですね。凄いです。ただ私は鈴くんの事が知りたくて、鈴くんに何かしてあげたくて、それだけなんです」

 無表情で抑揚なく、彼女は淡々と僕を褒めた。

 僕は教祖にでもなったのだろうか。常識を解いているだけで崇められる事があるとは思わなかった。

「それを世間様はストーカーと呼ぶ」

「鈴くん。私は今日、決心をして来たと言いました。覚えていますか」

 全く聞いていない様だ。

 間違いない。この人は頭がおかしい。関わっちゃいけなかったんだ……

 だがそれに突っ込んでいてもラチが空かないのは目に見えているので、僕は話を転がすためにこう返す。

「覚えている。話長くなるよな? もう殺人未遂未遂起こしあった仲だしな。部屋の中入ってくれよ。寒い」

 部屋にはもう十分すぎるほど冷たい風が流れ込んできている。

 殺人未遂の未遂まで経験しちゃったらもう怖いものナシだろう。もう後は殺人未遂と殺人しかない。

「鈴くんの部屋! よろしいのですか!」

 彼女は身を乗り出し興奮気味に僕に迫る。

 食いつきが良すぎる。選択肢をミスったか。しかしここで撤回するのは不自然すぎる。腹は既に決まっていた。

「いいよ。この時間じゃ店はやってないだろうしさ」

「ありがとうございます。ではお邪魔させていただきます。初対面の知らない人を部屋に入れるなんて、本当はダメなんですからね。失礼します」

 そう言って彼女は一歩、足を踏み入れる。躊躇は一切見られない。

 というかこの人はどの立場からものを言っているのだろう。僕は頭を抱えそうになる。

 その時、同じ場所に立ってようやく気付いた。この人は、僕より身長高いようだ。今まで僕の方が少し高い場所に居たから気付かなかった。しかも冷たい風に乗ってなにかいい匂いもする。

「……? どうしたんですか」

「いや、別に」

 その彼女の言葉を皮切りに、彼女の情報が一斉に押し寄せる。

 第一印象は黒い猫だった。

 身長は170センチ程度という所か。女性にしてはかなり長身の部類だろう。服に覆われているため、体型は細かくは分からないが、細身ではある。腰が折れそうなほど細い。黒く艶のある髪を腰まで垂らしており、前髪は少し長めに一直線に切り揃えてある。揃えられた前髪から覗く二つの目は、大きくパッチリと開いている。付けまつ毛か……いや違う。自毛だろう。見間違うほどに長い。白目の範囲が広いようでその分、更に大きい印象を与えてる。虹彩の色は……あまりよく見えないが焦げ茶。ディファインか何か、恐らくコンタクトをつけている。肌は透き通るようにかなり白く、きめ細かく見える。しかしよく見ると、メイクで隠してはいるが、目の下にはクマがあるようだ。鼻は小さめで高さは申し分ない。唇は非常に形が良く、皮が薄く赤く濡れている。グロスか何かだろうか。これは自然な赤さだが、男性には真似出来ない色香がある。全体的に薄化粧を意識したフルメイクだろう。輪郭は髪で隠れている為わからないが、顔はとても小さい。頭身どうなっているのだろう八頭身は確実にある。首は細い。肩周りも華奢だ。服装は喪服のように真っ黒で、所々にフリルがあしらってある。ゴシック&ロリータ、という服装だろう。第一印象の黒い猫、とはこの服装と、黒髪と少しつり上がった大きな目によるものだ。

 この人、頭はおかしいけど、とんでもなく美人だ。街を歩いていると、異常に目立つ日本人離れした雰囲気の色白のお姉さんをかなり低い頻度で見かけることがあるが、彼女はそれだ。普段は絶対関わり合いになれないような美女だ。ちょっと目が死んでるけど

 僕は訳あって他人の顔色を極度に伺う癖がある。この細かな容姿の観察も、その結果だった。今回は不審者相手なのでいつもより細かいかもしれない。こんな事、今となっては疲れるだけなのでやめたいところなのだが。

「こっち。好きなところに座ってくれていい」

 観察を終了し、部屋へ案内する。

「ではこちらのベッドに」

「遠慮って言葉知ってるか?」

「鈴くんは、そういった遠慮を好まない傾向にあることを知っています。既に自分の中で十分に審議した結果を口に出していますので、それが相手を想った遠慮であったとしても、突っぱねられることをよく思わない事があるのが鈴くんです」

「……当たり」

 言いながら軽く身震いがした。さっきから僕の心を読むように会話してくるものだから、余り僕は言いたいことを声に出していないような気さえしてくる。多分、実際にそうなのだろうが。

 それに初めて他人の部屋に入ったのにも関わらず、この冷静さは明らかな異常だ。

「何を考えているのですか?」

「秘密」

「私のこと、怖いですか」

「エスパー禁止」

 わかってて聞くのはやめてほしい。

「座っててくれ。飲み物、何がいい?」

「ドクターペッパー」

「ねーよ」

 知的飲料水は生憎常備していない。時々無性に飲みたくなるから出先では買うが、ストックしておく程ではない。

「では、綾○で」

「なぜ銘柄を限定する」

「今、この部屋には綾○しかないですよね? 先程、何の飲み物がいいか、と聞いて頂きましたけど、他に飲み物は無いと思うのですが」

「僕の冷蔵庫事情を把握するのやめてもらえませんか……てか何で知ってるんだよ」

「言ったはずですよ。私は貴方の全てを知っています、と」

 僅かに微笑みながら彼女は返答する。

 ニコッじゃねぇよ。そこは知ってることだけしか知らないわよ的な某メガネ委員長的な相手を安心させる回答が欲しい。

 僕は綾○をコップにつぎ、彼女の前に差し出した。

「ありがとうございます」

「もうひとつ聞いていいか」

「どうぞ」

「今、僕の家のカップラーメンのストックはいくつだ?」

「7個。銘柄も言いましょうか? というかですね、カップ麺は健康に良く無いですからやめてください。これからは、私が食事をお作りします」

 聞いておいて自分で個数を把握していなかったので、台所に走り、確認をする。

「すげえ」

 感心してしまった。魔法使いか何か、なのだろうか。恐怖心を上回って尊敬の域に達し始めている。占い師にハマる感覚がこんな感じなのだろうか。

 誰にでも当て嵌まる事を、さも個人の悩みの様に言い振る舞い、『この人は自分のことを理解している』と思わせるなどのバーナム効果を利用した心理トリックなどでは決してない。僕の事を知っているというだけの、これはただの純然な事実だ。

「お褒めに預かり光栄です」

 彼女は得意げに胸を張る。

 先程は真っ黒な服で確認出来なかった部分が強調される。かなり大きいということが見て取れる。

「褒めてない。質問を変えよう。どうやって知った?」

 どうして知っているのか、には貴方のことはなんでも知っているから、と超能力じみたふざけた答えを出来るが、これには現実的な方法を答えざるを得まい。

「日々の努力の結晶です」

「オーケーわかった。理解した」

 求めていた回答とは少し違ったが、つまりこいつは、日頃から僕のことを監視していた、ということになるだろう。リサーチ力がとんでもなく高い。少なくともバカでは無い事は確実だ。

 本当に面倒な事になってしまったかもしれない。

 それにリサーチ力が高い、という事だけでは、説明がつかないことがチラホラあった。

 例えば、カップ麺のストックの数だが、買い物をしている所を見ていた、というだけでは、僕がいくつ食べて消費したか、ということまでは分からない。となると、捨てたゴミも監視下にあると考えていい。ゴミは個人情報の塊だ。包装のされていない商品はこのご時世では珍しい。ゴミを調べるだけで、その人物がどんなものを買い、消費したのかということは一目瞭然になる。僕はズボラなので公共料金の控えなども捨てしまっているので、電気使用量、水道使用量、ガス使用量、電話回線使用量、プロバイダ使用量、携帯電話使用料etcまでも把握する事さえも可能になる。そこにワンルームの賃貸での一人暮らしであることを加味することで、家主が普段どのような生活をしているのかも見えてきてしまう。電気代が高く、ガス代が安い場合、家にいる事は多いが自炊はあまりしない人物であると容易に予測が立つ。先程のゴミの情報を考慮すると更に情報の確実性は増すだろう。

 加えて、室内の状況も把握されている可能性もある。盗撮か、盗聴か、あるいはその両方か。だがこの事は置いておいて、後で聞こう。今、重要なのは……

「いつからだ?」

「去年の九月です」

 彼女は相変わらずの無表情で一瞬で返答をした。

 質問の意図を瞬時に読み取って、回答をしてくれるのは非常に助かる。これが出来ない人は、結構多い。そういう人には、『君が僕を監視しているのはわかりました。君は僕をいつから監視をしていたのですか?』と省くことなく聞かなくてはならない。それが不要であることは本当にありがたい。更に彼女は、僕が事態を何処まで理解したのかを瞬時に理解できるようだ。

 これで大きな疑問点が浮き彫りになった訳だが、さてどうするか。

 ほんの二秒ほど考えていると、彼女から声をかけてきた。

「申し訳ありません。混乱するのも当然ですよね。私は先程にも言ったとおり、去年の九月から七ヶ月間、一日も欠かさず貴方を見てきました。貴方のことを知りたかった。全てを知りたかった。貴方のことを知って、貴方を守りたいと感じるようになりました。あ、これではわかりませんよね。一からお話しします。少し長くなってしまうかもしれません。お時間はよろしいですか……?」

 そう彼女は、伏し目がちに恐る恐る聞いてくる。

 こういった対話内での弱者に対し、大きく強く出るのは、最低の行為だ。ここまで来たなら乗るしかないこのビッグウェーブに

「いいよ。今日は一日寝て過ごすつもりだったし、退屈は猫を殺すからね。僕は猫が大好きだからしないけど」

 僕は優しく返した。

「ありがとうございます」

 無表情の中にも、彼女の感情は読み取れる。どうやら安堵しれくれたようだ。

 考えるべきことや言うべきことはいくらでもあるのだが、それは話を聞いてからでもいいだろう。

 一呼吸置いてから彼女は話し出した。

「まずは私のことから説明しなければいけません。私は、人の多面性というものが受け入れられません」

 人の多面性……?

 それは誰にしも当然のようにあることではないのか。人によって態度を変えるのは、ごく自然なことだ。教師と友人に同じような仕草で、同じような言葉遣いで接することはないように。好きな人と嫌いな人に同じような態度で接することがないように。

「誰かに優しくしたその手で誰かを傷付ける。このギャップがどうにも気持ち悪くて仕方が無いのです。完全な善人や、完全な悪人が居ない、ということは重々に理解してます。それでも、頭では理解していても、どうしても無理なんです。受け入れられないんです。私の近くに居る人で、貴方だけがその二面性を統一しているように見えました」

 なるほど、善性と悪性の話か。これならば話が見えてくる。

 この人には、僕はその二面性がないように見えた、というわけか。完全な善人、完全な悪人、では無いにしろ、辻褄の通らない理不尽な行動を取らない、と。そんな所だろうか。

「私は、鈴くんの同じ高校の一学年上の生徒です。去年の六月末、鈴くんはイジメにあっている生徒を助ける為に、相当数の人間と敵対しましたね」

 そんなこともあったな。あれが原因で僕の高校生活は孤立真っしぐらになったのだ。

 ――間違っても『孤高』ではない。『孤立』だ。

「私からしてみれば、そんな人が居るという事を知ることが出来た、それだけでも救いでした。弱い人にも分け隔てなく接する貴方は、裏表のない人に近いように感じたからです。まさにヒーローでした」

 ここまで聞けば僕は間違いなく善人だ。しかし、裏表の、二面性のない人間なんてこの世には存在しない。勿論、僕を含めて、だ。

「しかし、鈴くんは非道な方法でいじめを行う彼らによって、大怪我を負わされた。今でもその事を考えるだけで胸が痛いです。それでも尚、血だらけの鈴くんが、笑顔で彼らに向かって行くのを見ていて、私は心が張り裂けそうでした。どれだけこの人は強いのだろう、どれだけの悲しみを殺しているのだろう、と」

「それは……違うよ」

 僕は堪らず否定をした。

 それは違う。僕は正義感であいつらと敵対をしたわけではない。非道なあいつらを結果的には同じ、いや、それ以下の最低に非道な方法で駆逐した、というのが話のオチだ。

 それに心が強いわけでもない。それは違うと断言できる。

「はい。それにはもう少し経ってから気付きました。この人は強いわけではない、と。狂っているのだ、と。ごめんなさい。私は――私は、貴方に失望しました。勝手に期待して、勝手に失望するなんて、意味が分からないですよね。最低です。ごめんなさい」

 申し訳なさそうに僕の顔色を伺いながら彼女は言う。

「平気だ。続けて」

 そう、僕はイカれている。頭のネジがぶっ飛んでいて、それはおそらくもう治ることはない。子供の時にひん曲がった結果だ。それは事実であるわけだから、何も思わない。むしろ、期待させてしまって申し訳なく思う。

 ――ヒーローの不在、それを見せつけてしまった。

「……鈴くんが救おうとした人も、血まみれで笑っていた鈴くんを見て罵倒していましたね。では、何のために鈴くんは戦ったのか。悲しすぎます。それでも貴方は、意に介していないようでした。ただ笑っていました。それが貴方に興味をも持った切っ掛けです。それからずっと見ていて気が付きました」

 彼女が一呼吸置く。

 そして、僕の世界を変える一言を、彼女は口にする。

「貴方は、自分が傷付くことに引き寄せられています。不幸に魅入られています」

 息を飲んだ。一瞬、呼吸が出来なくなる。

 なんだこれは。これは冗談か何かだろうか。心音が感じ取れるほどに大きく、激しく脈を打ち始める。不整脈でも起こしているのだろうか?リズムもまばらな気がする。

「なん、で」

 一瞬で口が渇き、上手く声が出ていない。

 正直、ここまで僕を理解してくれている人がいるなんて思っても見なかった。夢にも思わなかった。そして夢にまで見た。それほどに望んだ。『誰にも理解されない』と嘆くのが人間だ。勿論、僕もその例外では無い。

 その相手が、僕を理解してくれる人が、今、目の前にいる。


「――自己敗北性パーソナリティ障害」


 彼女は、最善の注意を払うように、ゆっくりとその言葉を口にした。

 まさか病名まで当ててくるとは。何者だこの人は。

 尚も動悸は収まらず、激しさを増していっている。

 子供の頃から色々と心に不具合があり、今でも僕は心療内科に一定の間隔で通院している。短期集中型の睡眠導入剤と少量の精神安定剤しか処方してもらってないし、それを飲むことも昔に比べてみればかなり減ったのだが、通院は続けている。

 先程僕が早朝に起きていたのも、眠ることが出来ず、薬を飲もうか迷っていた所だった。

 『自己敗北性人格障害』又は『自己敗北性パーソナリティ障害』

 これが僕の病気の正体だ。簡単に言えば、不幸に引き寄せられてしまうマゾヒズムの一種だ。自分が幸せになることが、苦痛になる。幸せになれる状況でも、自ら進んでそれを放棄する。何時も、どんな時でももう一人の自分がそばにいて『不幸になろう不幸になろう』と囁く。これが原因で僕は様々な事にわざと失敗し、その度に不幸を啜ってきた。

 僕は、嬉々として不幸を味わう異常者だ。詰まる所、死にたがりの欠陥品だ。

 ――人間失格の屑だ。

「今日会って、こんな事を言うのは、本当に失礼だとは分かっています。貴方は、こんな私を許すのでしょう。理不尽に苛まれた自分の不幸を喜ぶのでしょう。それでも、私は貴方がこれ以上、不幸に引き寄せられて、自分を傷つけているのを見るのが辛いんです。嫌なんです。これは私のエゴです」

 僕は、彼女の言葉を一言一句のが逃すまいと聞いている。耳が、目が、脳が、彼女以外の全てを排除する。

 確実に僕の人生が変わる。その確信がある。

「でも時々、ほんの時々、貴方が本当に辛そうな顔をしている事を私は知っています。他の誰も知らない。知ろうともしない。私が、私だけが知っている。貴方の秘密。誰にでも分け隔てなく笑顔を向けられる貴方が、一人、悲しい顔をしているのを見たくないんです。これを貴方に言うべきか、ずっと悩んでいました。そして今日決心がつきました。貴方に憧れて、貴方に一度幻滅しました」

 一度言葉を切り、彼女は真っ直ぐに僕の瞳を見つめてくる。それから、言い放った。

「――そして、貴方を愛しました」

 彼女との会話の一番の疑問点。何故彼女は、僕にもっと早く会いに来なかったのか。カップ麺を食べ続けていることを知っていて、それを止めたいのであれば、もっと早くにそれを止めに現れてもおかしくない。その疑問が今、解けた。

 彼女の言っていることは概ね正解だった。むしろ言葉にしてくれたという事で自分の異常さを更に明確に自覚できたとも言える。

 ――僕は不幸になりたい。

 ここで、彼女のそばにいることを欲するということは、僕が僕を救うことになるだろう。それは、困る。

「君の事情は理解した。僕のことを理解しようと、一生懸命だったんだね。ありがとう。ごめんね、辛かったよね」

 僕は欠陥品だ。故に弱者でもある。

 弱者は自分より弱い人間をいつでもどこでも欲している。弱者は弱者を見下すのだ。見下された弱者も、自分よりも弱い存在を探し出し、嘲り見下す。この世はそれを永遠に繰り返す。それが僕は堪らなく嫌だ。僕は、僕だけは他人を見下さない、そう決めている。故に僕は、なるべく誰にでも優しくありたいと考えている。それが理不尽や不幸への近道だと考えているのが根本にあるが、この考えは本心だ。

 だから僕は今の彼女にも、精一杯優しくしたな、と思った。漠然と、彼女を泣かせたくないな、と感じてしまった。

「辛くなんて、なかった、です。辛いのは鈴くんです」

 ああこの人は――なんて美しいんだろう。

 こんな人を悲しませて、僕はなんて劣悪なんだろう。

「私に……貴方……を救わせていただけませんか?」

 途切れ途切れに彼女が言葉を紡ぐ。

 今にも泣き出しそうなその表情に、僕の胸は張り裂けそうになる。この人は僕を救いたいと言う。僕は不幸になりたい。けど、誰かを不幸にしたいわけでは決してない。この人に、こんな顔をさせる位なら……

「よろしくお願いします」

 自分を殺してこの人を守ろう。幸せから逃げずに戦ってみよう。そう人生で初めて思えた。

「……いいんですか?」

「こっちこそいいのか?」

「よろしくお願いします。そのために、来たんです」

 そう言った彼女の大きな目からは、今度こそ大粒の涙が絶え間無く溢れていた。

 何故、この人はそこまでして僕を救いたいのだろう?それを知りたいと思った。

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