第3話

 書く前から表現したいものが明確にあり、その内容を忠実に文章として再現できるのは優れた能力なのだろう。ほとんどの人は書いている間に、書く前に表現したかったものが形を変えてしまう。実際にできあがった文章は当初と異なることが多いのだと思う。書くという行為そのものが書き手の精神になんらかの影響を及ぼす。書くことで精神は変化していく。書く前と書いた後では別人になっている。私も書くことで少しでも自分の意識が改善されることを望んでいるわけだ。改悪される場合もあるかもしれないが。

 私もなにか表現したいものを持っている。いや表現などという高尚なものではない。私の場合自分の内側によけいなものを抱えているので、それを外側に文章として吐き出したいという感情が強いように思う。だがそんな状態で文章として表出されたものが、読み手に良いイメージを喚起できるかといわれるときついだろうな。それでも自分が少しでも楽になりたいがために私は書いているのだろう。

 もちろんこうして書いているのだから、誰か読み手を想定しているはずだ。とはいえその読み手というのは私が勝手に頭の中で作り出した自分にとって都合のいい読み手なのだ。都合の悪い読み手のことは考えたくない。いわゆる他者という奴なのだろう。まあこうやって自分が好きなように文章をたれ流すだけなら、害も少ないし構わないだろうと解釈している。

 働かない日々はそれなりに快適だ。生活のリズムは狂ってしまうけれど、ストレスはない。日々の労働でストレスを与えられるたびに、過去と向き合わねばならなくなる。私はそんな日常から抜け出したかったのではないか。これまでの人生で選択を迫られる場では、いつもがんばる方を選んできてしまったことを今になって後悔している。とはいえ、それは現在の私が自分なりに都合よく解釈した自分の過去である。自分が作り上げた過去の物語は、現在の自分がおかれた状況によって常に変化していく。わかっているのだが、それでもできるだけ普遍性の高い物語を自分の過去に適用したいと思っている。周囲からストレスを浴びせられても怯まないように。

 書けば書くほど、本当に書きたかった内容は遠ざかっていくように感じる。言葉で表現できる内容には限界があるらしい。言葉とは本来曖昧な世界を明確にするために、分割していくためのもの。外側の世界も自分の内面も分割していく。言葉そのものが世界も人も傷つけざるをえないところがある。それでも言葉でしか表現できないものもあるので、言葉を使っていくしかない。いずれ人類は言葉よりも高等な表現手段、伝達手段を作り上げることに成功するのだろうか。だがそんなものができてしまえば、もう人類とはいえなくて別の生き物なのだろうな。




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