第16話『刑法二百二十四条』4
「まぁいいんだけどね。気にしてないし」
「シロちゃんはそうかもしれない。けど……お兄様はそう思えているのかしら?」
「…………」
それは……どうだろう。
「お兄様の資料を見たの。虐待の内容……反吐が出るようなことが書かれていたわ。本当に人間のやることなのか疑わしいような、ね。ある意味で斬新だった」
口の端を吊り上げて皮肉げに笑うナギちゃん。
もう少女の浮かべる表情じゃない。
「私はね、それが許せない。お兄様をそんな目にあわせた境遇が許せない。お兄様の父親だけじゃない。お爺様が、伯母様が、他の誰かが、どこかしらで上手くやっていればお兄様は深い傷を負わずに暮らせたかもしれない。もしも私がお兄様なら、その原因の全てに私の気がすむまで決着をつけさせるわ」
知れずに握ったのだろう小さな手を開く彼女。
「けどそれは私の勝手な妄想。私の傲慢。本当のお兄様は、もしかしたら怒ってるんじゃなくて苦しんでるかもしれない。今も泣いてるのかもしれない。人間なんて信じられなくなってるのかも。……あるいは、そのどれでもないかもしれない。私にはそれがわからないの」
「そしてそれを……僕が知ってるかもしれないって思ったの?」
肯定。
ナギちゃんは申し訳なさそうに頷いた。
「だって……シロちゃんの逡巡創は、そういうことでしょ?」
「…………」
逡巡創って……つくづく変な言葉ばっかり知ってる子だこと。
「生きることが辛いってどういうこと? 他人に傷つけられるってどういうこと? シロちゃんは、その答えを知ってるんでしょ?」
真摯な疑問だ。
無邪気と皮肉りたくなるほどに。
「…………僕は……」
「――いい加減にしてください」
一瞬早く。
僕よりも先に、誰かの言葉が飛び出した。
まるで冷水を浴びせるかのように冷たく引き締まった声が、僕の代わりに少女へ答える。
存分に聞きなれた声だ。
「……華黒。よく見つけたね」
「見つけたも何も見失ってなんかいませんし、さっきからここにいましたよ?」
「…………」
ランジェリーショップの店名ロゴが入った袋を持ったまま、華黒は平然と答えた。
本当に優秀な妹だね君は。
「それで楠木さん? あなたの言は兄さんを侮辱……ひいては私に対する敵対とみていいのですね?」
彼女は刃物のように磨がれた目つきで、憎きを睨みつけた。
「クロちゃん……」
「華黒、落ち着いて……」
「これが落ち着けますかっ!?」
言の途中で激昂されてしまった。
あぶない。
完全に華黒の逆鱗に触れている。
ビル風に揺れる妹の長い黒髪は、今に怒髪となって天をつきかねない威圧があった。
「兄さんの、兄さんの腕の証を逡巡創などと……! そんなくだらない理由で兄さんが傷ついたなどと……! たかだか自殺しかできない十把一絡げと兄さんを同列視するなどと……! 許されないことですっ!!」
語気も荒々しく、華黒はナギちゃんへと歩み寄る。
「華黒、僕は気にしてないよ?」
「ええ、そうでしょうとも! 兄さんは “自分を省みる”ことができませんからね!? だから代わって私が言語化すると決めているのです!」
……いや、まぁ……そうらしいんだけどさ。
「楠木さん、あなたがあなたのお兄様を大事に想っているのなら何故今すぐにでも御本人に会いにいかないのです? こんなところで誤解と無知の果てに真白兄さんを侮辱することがお兄様への理解の証とでも言うつもりですか? は! とんだお笑い草ですね!?」
「それは! だって……お爺様が……」
「つまり他人の意思に左右される程度の……あなたの打算が働く程度の感情でしかないということですか? 私があなたなら、何に代えてもお兄様の傍にいようとしますけれど?」
「うるさいうるさい! 私の気持ちもわかんないくせに!」
「ええ、私にあなたの心情は理解できません。口でお兄様を心配していながら、やっていることは癇癪のあげくの家出ですか。言動の不一致も甚だしい」
ナギちゃんの目の前まで歩み寄った華黒が、少女の胸倉をグイと掴み上げた。
彼女達の顔はもう目と鼻の先だ。
「真白兄さんの傷はですね、そんなクズみたいな理由でついたものではありません。私を守るために傷ついた代物。私を庇って傷ついた証です! あなたが誤解で同情したような理由と兄さんとを一緒にしないでください!」
「うるさいうるさいうるさいうるさーいっ!」
止まらない華黒と騒ぎ出すナギちゃん。
腕を振り回すナギちゃんの様は地団駄のそれだ。
そんな彼女に顔や腕を殴られながらも華黒は掴んだ胸倉を離しはしなかった。
もうこの場所に静寂さなどありはしない。むしろそんな二人の騒動を聞きつけて大通りの歩道から何事かと覗き込む人がちらほら出てきているくらいで。
いっそ華黒を止めるべきなんだろうけど先ほど言葉中途に遮られたばかり。
僕の言葉で止まるかといえば、これは甚だ疑問といえる。
などと案外のんびりと二人を傍観してると、
「何にも知らないクロちゃんなんかに……あ!」
「あ」
ナギちゃんと同時に僕は「あ」を口にした。
そして同じモノを目で追いかけた。
唐突。
ハプニングが起きたのだ。
それも結構重大な。
振り回されていたナギちゃんの腕が華黒の荷物にぶつかって、それで……
「あぁあっ!?」
僕ら以上の驚愕が華黒の口から滑り出た。
ついでに彼女の手荷物から中身が滑り出ていた。
それは軽やかに風に揺れて、その姿は赤く、繊細な刺繍が見るに栄えて、つまり……先ほどから華黒が持っていた袋のもので……ええと……その……ランジェリーショップの……商品の……シ、ショーツ……うぅ。
……ていうか何で赤いの?
何で真っ赤なの?
とても下着にあるまじき色をされているんですが、うちの妹はあんなものを……いや、考えないようにしよう。
目下問題なのはそれが大衆の眼前に晒されようとしていることだろう。
布製品であるそれは適度に軽量で、小路を吹き抜けるビル風に乗って大通りまでふよふよと舞い飛んでいった。
「兄さんのために買った下着が!」
「ちょっと!? 二重の意味にとれるようなこと言わないでよ!?」
華黒の悲鳴を看過できずにつっこんでしまう僕。
第一どちらの意味にとっても僕の人格が疑われるじゃないか。
などと意味のないやりとりをしている間にもショ……下着は風に流されて。
「あぁ……」
表通りの歩道を通り抜け、華黒の悲嘆と同時にアスファルトの上へと着地した。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
気まずい静けさが僕らを支配した。
唐突に辱められた華黒と、意図せず辱めてしまったナギちゃんと、何と声をかけたものか困っている僕と。
三人揃って道路に落ちた下着を見つめ続ける。
歩道を歩く見知らぬ通行人が僕らとそれとを交互に見比べ、何とも言えない表情をしては去っていく。
「……うぅ」
華黒が呻いた。
ギギギと錆びたロボット関節のような動きでナギちゃんへと振り返る。
「…………」
無言の睨み。
「な、何よぉ?」
「兄さんのために新品を買ったのに……」
ひるむナギちゃんにそんな一言。
「わ、わかったわよぉ。取りにいけばいいんでしょ……!」
罪悪感に背中を押されてか、ナギちゃんもしぶしぶ華黒に従う。
もう先ほどまでの諍いは鳴りを潜めてしまっていた。
「(おお、下着で二人の不和が解消してしまった)」
変な感心をしてしまう。
ランジェリーショップに連れていかれたときはこんちくしょうなどと思ったものだけど、こんなところで役に立つとは。
下着を回収しようと道路に飛び出していったナギちゃんの背中を見つめながら、今回ばかりは華黒の迷惑に感謝などしてしまう現金な僕だったり。
…………。
ん?
道路に“飛び出し”ていった?
誰が?
ナギちゃんが。
ちなみに駅近くということもあって道路の交通量は少なくなどない。
…………。
「っ! 危ないナギちゃんっ!!」
思考そこに至って、ようやく僕は駆け出した。
が、既に事態は転がりだしていた。
踏み出しの一歩目を踏もうとしたその時、すぐ近くでやけにうるさい車のクラクションが僕の耳に鳴りとどいた。
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