第15話『刑法二百二十四条』3
「シロちゃん、どこ行くの?」
「僕にもさっぱり!」
聞くナギちゃんにそうとだけ。
さすがに子供一人抱えたまま走り続けることもできず、二人の視界から消えた時点で僕はナギちゃんの手を引いて逃げていた。
既にショッピングモール百貨繚乱も抜け出し、見えるのは駅周りのビル群像。
車のクラクションと音響装置付信号機の音がやけに響く。
そんな中を大通り際の歩道を駆け続けて僕と彼女はビル影にひっそりと伸びる一つの小道へと入っていった。曲がり角にちょこねんと置いてあるポリバケツを通り過ぎ、日射から避難して、ようやく僕の足は止まる。
「ここなら大丈夫、だと思うけど……」
少し荒くなった呼吸を整えつつナギちゃんの手を離してやる。
想像した以上に暗いその場所は、逃げたい隠れたいといった感情を満たしてくれるような、そんなひっそりとした静寂と停滞に包まれた空間だった。僕たちが曲がってきた歩道がすぐ傍に見えるけれど、日が当たり人に溢れる向こう側とは色相も彩度も明度も音も匂いも何もかもが対照的だ。
そして落ち着く。
冷静になれる。
けれどもそれは、
「うわぁ、やっちゃった」
我が身を振り返ることにも繋がるのだった。
よく考えるとすごいことをしてしまった。
「何よシロちゃん。後悔してるわけ?」
しないでか。
下手をすれば刑事事件だ。せっかく僕を信頼してアパートに入れてくれた父さん母さんにも申し訳ない……のだけど、もう遅い。
「それはもういいや。そんなことよりさ……」
さっきまでナギちゃんと繋いでいた手を、彼女の頭にポンと乗せる。
「どうしたのナギちゃん?」
「どうしたのって?」
「だからさ。何があってこうなったのかなって。なんで僕に声をかけたのかなって」
「…………」
「ああ、ちょっと急かしすぎるかな? ゆっくりでいいよ。自分が話せるタイミングでね」
そう言って微笑んでやる。何より大事なのは彼女を安心させることだ。
冷えた空気で肺を満たしながら待つことしばし。
「あ、あのね……」
ナギちゃんが話し出したのは、意外とすぐだった。
彼女の可愛らしい口元から流れ出る言葉に耳を傾ける。
「私にはお兄様がいるの」
「お兄様?」
「そう、お兄様」
僕のオウム返しにゆっくりと頷くナギちゃん。
「正確には従兄弟。でも私の家は大きいから私のお母様も伯母様もそこで一緒に暮らしていて、本当だったら私はお兄様とそこで一緒に育つはずだったの。だからお兄様……」
「…………」
いきなりな身の上話に少し面食らってしまったけど、これはきっとナギちゃんには大切なことなのだろう。
黙って聞いてやる。
「私が生まれるずっと前の話だってお母様は言ってたわ。お母様の姉、つまり伯母様はさる男性とのお付き合いをお爺様に認められていなかったの」
んーと……。
それは「うちの娘をどこの馬の骨ともしれん奴にはやれーん!」ってことなのだろうか?
テレビの向こう側の世界ではよく見るけど、実際の話と言われると現実味に欠ける。
いや、この考えはナギちゃんに失礼か。
「でも伯母様はその男性の子供を妊娠していて、そのまま行方知れずに」
「駆け落ち……」
ふとそんな単語が閃いた。
ナギちゃんも頷く。
「唐突にいなくなって、それっきりそのまま。今も伯母様がどこにいるのかはわかってないって。お母様はとても伯母様のことを慕っていて、だからこの話をするときのお母様はいつも悲しそう。そしてお爺様はいつも不機嫌になるの」
「…………」
そんな重い話を幼いナギちゃんに話すほうがどうかしている。
これは完全に“お母様”と“お爺様”の責任だ。
「……あれ?」
そこで僕は一つの不可解に気付く。
「お兄様って言ったよね?」
ナギちゃんの伯母の妊娠に家族が気付いたときには既に伯母は出奔している。
「なんで男だって断定してるの?」
たしかに妊娠中でも性別を知ることはできるけれども、わざわざ家を出ようという大立ち回りの際にそんな繊細な情報が行き来するだろうか?
そんな僕の疑問に納得いったのか。彼女は訂正を挟んできた。
「それは、従兄弟の存在を知ったのが最近になってのことだから。伯母様のことは何もわかっていないけれど、伯母様の子供の情報だけを偶然手に入れたらしいの。そして調べてみた過程で性別はわかったってだけ」
「なるほど」
「むしろ問題は、顔も知らないお兄様を調べることができたことにあったの……」
「というと?」
「私の家が懇意にしている興信所がお兄様のことを調べたんだけど、いくら職能集団だからって漫画みたいに簡単に情報を得られるなんてのは嘘なのよ。人一人を調べるにしてもそこには多くの経費と捜査のために歩く足が必要になるわけ。ましてや今まで知りもしなかったお兄様のこれまでの一生を事細かに調べることなんて、いつも身近にいる人でもなければ知る由も知れる由もないのよ」
「えーっと、どういうこと?」
小学生の話についていけない僕っていったい……。
「探偵にも調べられないことは多いってこと。それなのに、お兄様のことはほぼその人なりを知れるほどに情報が集まった。それも比較的簡単に……」
「良かった、わけじゃないの?」
「問題だって言ったでしょ? お兄様はね、小さい頃に社会的なニュースで取り上げられていたの。普通の人以上に個人の記録が残っていたらしいわ」
言ってナギちゃんは薄らげに笑った。
「父親からの虐待でね」
「…………」
う、わーお。
こんな子に喋らないでよ。お爺様にお母様。
「もちろんニュースに取り上げられてるくらいだから今はもう父親とは暮らしてないそうよ。でも、これはそういうことじゃないでしょ? だから私は言ったの。今からでもお兄様を家に迎え入れるべきだって」
「そんな無茶な……」
当然お爺様とやらが許すはずもない。何せ交際を認めていない男との子供だ。
「それでお爺様と大喧嘩して家を飛び出した、と」
「……そうよ」
なるほどなるほど。
いくつかのことに納得がいった。
きっとナギちゃんは事実を知る過程で、その会ったことのないお兄様が大好きになってしまったのだろう。
……一種の『あしながおじさん』だ。
けど、それなら、
「僕に声をかけたのは代償行為のつもりかい?」
「っ! そんなんじゃ……」
「ないとは言えないんじゃかな?」
軽く笑って僕は自分の左手を掲げてみせた。
そこに見える“モノ”をナギちゃんにしっかりと見せ付ける。
彼女の目が泳ぐ。
あからさまな動揺をするナギちゃんは、けれど釘付けになったかのように僕の左手から目を逸らそうとはしなかった。
まぁ当たり前か。
ある種のショッキング映像のようなものだ。
あるいは目を逸らすことが僕にとっての失礼とでも勘違いしたのかもしれない。
「君が気まぐれで話しかけたのだとしたら、なんでそれが僕なのか。その必然性がわからなかった。でも君が偶然を装って僕に近づいたのなら……いや、君自身ももしかしたら自覚なく僕を選んだのかもしれないけど、それは不自然なことなんだ」
いつもはそんなに意識してるわけじゃない左手を僕もまたまじまじと見つめてみる。コレとは長い付き合いだ。感情のわきようもない。僕の一部であり同時に証でもあるコレを嫌悪することは今更で、かといって幸せな気分になれるものでも全然ない。両親には隠せとよく言われるのだけどそこまで過敏に扱うものでもないのだ。
「僕には友達ができにくい三大コンプレックスがあってね」
挙げっぱなしの左手で握り拳を作ると、そこから人差し指だけを伸ばす。
「一つが全てにおいて僕に勝る妹がいること」
勉強も運動も人付き合いも、はては殴り合いの喧嘩ですらも僕は華黒には勝てないだろう。それは比較対象としての僕を貶め、同時に華黒を想う男子の嫉妬を煽る。
「一つが微妙に女顔なこと」
今度は中指を伸ばす。
鏡など持たないので自分ではあまり気にしたことはないけれど、統夜曰く「話しかけ辛い」らしい。
「一つが左手の……コレだね」
薬指を伸ばす。
左手の……正確には左手首に深く刻まれた傷跡と、その傷に沿う縫い目。
手術の痕跡だ。
「なもんだからさ。普通は僕に近づこうとする人は少ないんだよね」
軟弱そうな顔の男が左手にこんなものをぶら下げつつ妹の背中をついてまわれば、誰だって下に見るのが当然と言える。
「だからもしかして、その虐待されたお兄様に僕を重ねたのかなって……」
「……っ」
図星らしい。
わからないでもない。
僕のことをそういう風に見る人はナギちゃんだけじゃないからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます