第14話『刑法二百二十四条』2


「それでお嬢様? あなた、私の兄さんを困らせてどうしたいのですか?」


「し、シロちゃんは困ってなんかないわよ……でしょ!?」


 でしょ、と言われても……。


「いいえ困っていますよ兄さんは。口に出す人ではありませんけれど」


 ナギちゃんへの答えに窮した僕を差し置いて、何故だか華黒が間髪いれずに返した。


 ちょっと。僕の意見は?


「そんなのクロちゃんの思い込みかもしれないでしょ!?」


 おーい。僕の意見は?


「いいえ、私は兄さんの事なら兄さん以上に知っていますから。何も言えない兄さんに代わって言語化するのが私の役目です」


 …………。


「いい加減にして早く手早く素早く家に帰りなさい。兄さんに私以外の人間は有害です」


「華黒」


 ビームでも出すのかと疑いたくなるほどに激情のこめられた華黒の視線。僕はそれから庇うようにナギちゃんの顔を手で覆った。


 さすがにこれ以上は許しかねる。


「いいすぎだよ」


 大して力んだわけじゃない。むしろ淡白な口調でさえあったのだけど、それが華黒にはよく通じた。優しく見つめるその先で、妹はビクリと一度震えた。


「だって……」


「わかるよね?」


「むー」


 むー、じゃないよまったく。相手は小学生だってのに何を考えている妹なんだか。


 あからさまに呆れてやる。ついでにナギちゃんの顔から手をどけてやると、今度はナギちゃんが華黒へと強気な視線を送った。


「ほら、やっぱりシロちゃんは私の味方じゃない」


 いや、そういうわけでもないのだけれど。


「お嬢様、理解なさってください。お嬢様が駄々をこねればお館様だけでなく百墨様たちも困らせることになりますよ」


「シロちゃんは困ってないわよ。それにお爺様なんて困ってしまえばいいのよ」


「聞き分けてください、お嬢様」


「いーや」


「お嬢様……」


「いやって言ってるでしょ!?」


 何度も説き伏せようとする獅子堂さんに向かって、とうとうナギちゃんが激昂した。僕の服の裾の掴まれかたがさらに酷くなる。そして通行人の皆様方が彼女の甲高い声に驚いて一斉にこちらを向きだした。


 あいやー。さらに注目しちゃってるよ。


 一般人に溶け込んでいたい日本人気質の僕としては針のむしろにも近い境遇だ。


 だけどもけれども当然そんな心中がナギちゃんに伝わるはずもなく、


「お爺様が認めるまで帰ってなんてやらないんだから!」


 彼女は火がついたかのように喚いた。


「ではどうなされるのですか?」


「そんなことあなたの知ったことではないわ! シロちゃん!」


「何?」


「私を連れて逃げて!」


「うぇ!?」


 さすがに唐突すぎて理解が追いつかなかった。


「な、何だって?」


「だから私をこの白痴から引き離してって言ってるの!」


 獅子堂さんを指差しながら僕に訴えかける。


 しかし白痴って……。最近の小学生は嫌な言葉を知ってるね。


「いやぁ、でもそれはさすがに……。刑法二百二十四条にも引っかかっちゃうし」


「私の言うことが聞けないのぉ!?」


 怒ってるんだから当たり前なんだろうけど、理屈が破綻してきてるよナギちゃん。


 困った。


「そういうわけじゃないけど……」


「私を連れて逃げてよ。私を助けてよ!」


「…………」


「馬鹿! そんなこと兄さんに言ったらっ!」


 …………。


 どうとも答えられない僕の沈黙を上書きするように華黒の焦りが聞こえてきた。


 …………。


 そんなことを兄さんに言ったら?


 …………。


 言ったら何だというのだろう?


 …………。


 でもプログラムは絶対だ。


 …………。


 融通や誤算の入る余地はない。


 …………。


 脳は電気信号と化学物質で成り立つプログラムであって……つまり思考とは、精神とは形而上的なものなんかじゃ全然なく、むしろその逆。形而下的で物理的なものにすぎないってこと。





 

 ―― フラグを確認 ――





 

 僕という人格が先の定義によるアプリケーションならば、その中に内在する関数はある種の変数を受け取り、内在するプログラムに従った変数をまた返さねばならない。


 それは……、


 なんて……、


 …………自動的。


「…………シロちゃん?」


 既に変数は受け取っている。


 なら、後は僕が答えを吐き出すだけだ。


 しまった、という表情をしている華黒が気になったけど、でも並行してどうでもよくさえある。


「……獅子堂さん。ごめんなさい」


「百墨様?」


「できれば警察に通報しないでくれると助かります!」


 妙な陶酔感を覚えながら、僕は手近のナギちゃんを担ぎ上げた。


「きゃっ!」


「兄さんっ! 待ってください!」


 華黒の声が耳に届くけれど、言葉だけでは制止たりえない。


「本当にごめんなさい! ナギちゃんは後でちゃんと返しますから!」


「私は物扱いなのぉ?」


 何をやっているのか自分でもよくわからないけど、それでも不満げなナギちゃんを抱えて僕は走り出した。


 三歩で全速まで引き上げる。


 快晴の日曜日。僕はモールに買い物に来ている人波へと分け入り、そしてナギちゃんを誘拐したまま逃走してしまった。

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