第17話『白の歪み』1


「っ! 危ないナギちゃんっ!!」


 僕の悲鳴の先。


 道路に飛び出したナギちゃんと、聞こえる車のクラクション。


 無邪気で無防備で無警戒な女の子の暴挙に、僕と華黒はある種の驚きとともに瞳孔を見開いた。


 なんて無知な!


 道路に急に飛び出すなと親に習わなかったの!?


 そんなとても重要で、同時に今は重要でない言葉が浮かぶ。


 けれどそれも一瞬。


 思わず脳裏に閃いたグロテスクな想像を封印して僕はすぐさま神経を研ぎ澄ます。何かを考えている余裕はない。焦燥の思考はそのまま行動へ。直接助ける以外の選択肢が思いつかないままナギちゃんの背中めがけて加速し、


「っ!?」


 ようとして何者かに阻まれた。


 急加速から急減速。連続的な速度変化に僕の体が大きく揺れる。


 いったい何が、という疑問。


 その答えはすぐに出た。


 腕を掴まれている感触。捕まえられている感覚。


 僕は細い小路を駆けて、華黒の隣を通りぬけざまに飛び出そうとして、


「華黒!?」


 当の華黒に邪魔されてしまっていたのだった。


 走るに際して振っていた僕の腕、その右手首を何故か華黒が掴んでいる。いったい何の嫌がらせか。容易には離してやらないといわんばかりの握力を僕の右手が感じとっていた。


 何をするのさ、と目だけで問いかける。


 はっきりいってふざけている場合ではない。人一人の命がかかったこの状況では一秒が惜しい。


 ほとんど睨みつけるにも等しい僕の瞳。


 けれど華黒も同じだけの意思を持って見返してきた。


 その瞳が語る。


 絶対に行かせません、と。


 僕のやることが人助けと知っていて尚これを許さない決然たる意思が彼女の瞳に映りこんでいた。


 正気の沙汰じゃない。非人道ここに極まれり。


 でも、それは。


 つまるところ。


 例えナギちゃんを切り捨ててでも僕をトるということに他ならない。


 非人道的に見えるけど、極めて人道的な選択。まったくもって合理的。


「……けど、その判断は却下だね、華黒」


 即断。


 残念だけど迷えない。


 僕は思いきりの力を込めて妹の邪魔を振りほどいた。


 ふつ、という幻聴とともに互いの手が僕によって切り離される。


「兄さんっ!?」


 聞こえる華黒の悲鳴も聞こえないふり。


 躊躇いもなく妹に背を向けると、助けるべきに向かって再度僕は駆け出した。


 華黒のせいで生じた幾ばくかの遅れは頭のネジを外すことで補完する。


 視覚が、赤いフィルターを被せたかのように真っ赤になる。


 聴覚が、雑音を静寂へ書き換えたかのように静かになる。


 感覚が、世界から切り離されたかのような浮遊感に満ちる。


 発症だ。


 小路と歩道との境目にあるポリバケツを蹴飛ばし、歩道も一歩で踏み越えて、僕もナギちゃん同様アスファルトへと飛び出した。


 ナギちゃんはもうすぐそばに。


 そして……すぐ隣をチラリと見るとブレーキ音を高らかと響かせながらスリップしている大型トラック。


 とてつもなく……質量大。


「……うわぁ」


 僕は自分の行ないを激しく後悔した。



 

    *



 

 華黒曰く、僕は“病気”らしい。


 いや……僕自身その自覚がないわけではない。


 いくらナギちゃんを助けるためとはいえ大型トラックの前に飛び出すなんて正常な考えとは言いにくい。


 当然、これが特異だということは事実として認識している……のだけど……やってしまうんだからしょうがないと思うんだ、僕は。


「あ、あはは」


 乾いた笑いが口からもれる。


 もう目と鼻の先に迫ったトラック。


 どうにか止まらないかな、などとどこか現実逃避気味なことを思い浮かべる僕なのだけどトラックの持つ大質量がたかだか急ブレーキ程度の気休めでピタリと止まるはずもなく、結局僕とナギちゃんがいた空間のガードレールを飴細工のようにグニャリと歪めてしまっていた。


 ……そう。


 あくまでガードレールを、だ。


 肝心の僕は、ナギちゃんを抱きとめると一瞬早くガードレールを飛び越えて歩道へ。


 目と鼻の先まで迫ったトラックなのだけど僕らに到達することなく、ただ国費の負担によって設置されたガードレールだけを事故の対象として巻き込んでいた。


 ……最初に「道路にガードレールを設置しよう」と言いだしたのはいったい誰なのだろうか。


 ともあれ……、


 国家、万歳。


 国土交通省、万歳。


 税金、万歳。


 おかげで僕ら、生き延びました。


 もし、あと半秒でも僕らがその場に留まっていたなら、あのガードレールと同じ形になっていたのだろうことは想像に難くなかったりして。


「いやはや、本当に勘弁してよ……」


 僕は腕の中で抱きしめた少女に軽く頭突きをしてやった。


 コツンと軽い音が鳴ったのは、はたしてどちらの脳内が空っぽだったからなのか。


「シロ……ちゃん……?」


 華黒の真っ赤なショ……下着を握り締めたまま呆然とした様子でナギちゃんが呟く。


 明確な言葉が出ないらしい。


 ……当然だ。


 ここまで濃密に死を想起させられたのは僕だって久しぶりなのだから。


 今度は一度目より強く頭突きをしてやった。


「痛っ!? 何するのよシロちゃん!?」


「……僕も痛い」


「じゃあしなきゃいいでしょ!?」


「……馬鹿言わないでよ。もう少しで痛みすら感じられなくなるところだったんだから」


「……う゛」


 ひりひりと熱くなったおでこが妙に気持ちいい。


 今痛みを感じているってことは頭のネジも元に戻ったみたいだ。


「あ、あのねシロちゃん。これは……」


「言い訳は無し」


 どもるナギちゃんをピシャリと遮る。


「…………」


「ごめんなさいは?」


「ふぇ?」


「だから、ごめんなさいは?」


「むぅ」


「むぅ、じゃないよ」


「……じゃあ、ごめんなさい」


 多少渋ったもののナギちゃんは存外素直に頭を垂れた。


「道路に出る前には一度止まること」


「むぅ」


「右と左を確認して、もう一回右を確認してから道路に出ること」


「むぅ」


 ……本当にわかってるのかな、この子は。


「わかってるわよ」


「僕の心を読まないで」


「でも今回は助かったわ」


「次にまたこんなことがあったらどうするの……」


「そのときは……またシロちゃんが助けてくれるんだよね?」


「…………」


 まったく、こんなときばかり子供っぽい口調に戻りなさって……。


「だいたい君が――」


「――兄さんっ!!」


 おげぇ。


 いきなりだった。


 話途中に後方から首を絞められ、気道の流れが逆流してしまう。


 いや、多分これは首を絞められたのではなく首に腕をまわして抱きつかれたのだろう。


 なにせ相手は……。


「華黒……」


 妹なのだから。


「馬鹿っ! 兄さんの馬鹿!」


「そうなんです。君の兄さんは馬鹿だったのです」


 学力の校内順位も下から数えたほうが早いしね。


「そういう意味じゃありません! 馬鹿! ロリコン! わからず屋! セーラーマニア! ビーフシチュー!」


「華黒、罵倒のレパートリーが滅茶苦茶になってるよ」


 今日の夕食はビーフシチューなのかな?


「何で何で何で飛び出したりしたんですか!」


「いや、だって急いでたし……」


「道路に出るときは一回止まって右見て左見てもう一回右を見てからだといつも言ってるじゃないですか!?」


「言ってないし、それ僕に言うことじゃないし、そんなことしてたら間に合わなかったよ」


 とか言いつつ僕もそっくり同じ内容をナギちゃんに注意したような。


「たかだか他人の生死のために兄さんが命をかける理由はないじゃないですか!」


「あー、いや、体が勝手に……」


「だから馬鹿だって言ってるんですっ!!」


「…………」


 うーん。


 会話がグルグルとリングワンデルング。


「兄さんに死なれたら私、私……」


「四十九日までお酒が飲めないじゃないですか、と?」


 ちなみにこれを精進落としという。


「冗談でもやめてくださいよ! 私は、私は後追い自殺などしたくないのですから!」


「冗談でもやめてよ!? ウェルテル効果じゃあるまいし!?」


「いいえ、絶対に死んでみせます! 兄さんが死ぬのなら私も死ぬ。もしそれを望まれないというのなら何を捨てても生き延びてくださいな!」


 金切るような声でそう言い切ると、僕の首にまわした彼女の両腕がさらにギュッと絞められる。


 ぐえ。

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