第4話『民法七百三十四条』4


 とりあえず、


「いい子いい子」


 頭を撫でてやったら不機嫌に払われた。


「戯れないでください。それに、だからこそ自分に腹が立つのですから」


「華黒……」


「わかりすぎるほどにわかるなんて嫌なんです。もっと無知に、もっと盲目に、もっと一心不乱に恋していたいのに。私をあしらう時の兄さんもこんな気持ちなのかなって……そんなこと考えたくもないのに……」


「華黒」


「結局同じなんです。私を好きになってくれる人たちは私を見上げてくれるけれど、私だって同じなんです」


「華黒って」


「兄さんが困ってることなんて知ってます! でも、しょうがないじゃないですか! 兄さんのことが大好きなんですから!」


「華黒ってば!」


 これ以上言わせちゃ駄目だ。


「……っ!」


 だから僕はためらうことなく妹を抱き寄せた。


 華黒を黙らせるにはこれが一番。兄である僕が一番よく知っている。


「迷惑だなんて思ってないから!」


 力強く通る声で。


「妹に好かれて迷惑だなんて兄貴、この世界にはきっといない。それが華黒なら尚更だから、ね?」


「……兄さん」


 何とか沈静できたらしい。抱き返してくる華黒の口調はすっかり落ち着いていた。


 それにしても妹の胸が……じゃない。冷静を保て、僕。


「えっと……だから、そんなに気にしなくていいよ、みたいな?」


 動揺のせいで疑問形になってしまった。


「そりゃあ恋人になってくれって言われても困るけど……」


「ふふ、やっぱりそこは譲れないんですね」


「だってそれはそれ、これはこれじゃないかな?」


 言い訳がましい僕から抜け出すように一歩下がると、華黒はニコリと笑ってみせた。


「ま、甲斐性なしの兄さんならこんなところですか」


 華黒が残念無念と両手を挙げる。さっきまでの悲壮感はなんだったのかというほどに淡白な態度だ。


「慰めついでに抱きしめるところまでいってくれるんですけど、その先は中々」


 ぶりっ子みたいにわざとらしく悩んでみせると、こちらを見返してウィンクさえしてきた。


「どうすれば兄さんの心まで奪えるんでしょうね?」


 ……っておい。


「今までのは、まさかの演技!?」


「さて、どうでしょう?」


 先の尖った黒い尻尾を生やして、華黒はからかうように微笑した。


 それから僕の手をとって引っ張り出す。


「ほらほら、もうすぐスーパーのタイムセールスが始まっちゃいますから急ぎましょう」


「え? ええ? ええ~?」


 そんなのありかーい。


「心配して損したよ。僕の善意を返せ」


「今度は私から抱き返せばいいんですか?」


「勘弁してください」


 妹の左手に引っ張られる自分の右手を情けなく見つめながら、それでも僕は抵抗もせずについていく。


 そんな二人を繋ぐ手に、ぎゅっと力が入った。


 僕……じゃない。


 華黒のほうからだ。


「あ、あの……ですね」


 心なしか、握り方がぎこちない。


「さっきのは少し嬉しかったです、お兄ちゃん」


 夕日で耳を真っ赤にした妹は、身内贔屓を抜いてもなお抜群に可愛らしかった。


「うん。まぁね」


 だけど僕はそれを指摘することなく、ただ妹の手を強く握り返した。



 

    *



 

 結局夕方のアレは何だったのか。


 あのあとの華黒はカラッと晴れて何から何までいつもの調子だった。


 夕飯の煮物も文句なく。


 切れてたはずの牛乳もちゃんとストックされていて、風呂上りの僕も機嫌よし。


 本当は少し心配なんだけど、妹が弱みを見せない以上、僕から尋ねるのもおせっかいなのかな、とか。


「お風呂あいたよー」


 手狭な2DKのアパート。ダイニングから個室へは小声でいいのに、僕は通る声で妹をせかす。


 本来なら入浴の順番というのは女性が先なんだろうけど、僕らに関しては一貫してない。


 牛乳を一口。


「はーいはい。ところで兄さん、私の勝負下着知りませんか?」


「ぶっ! けほっ!」


 思わず吹いてしまった。


 は、鼻に牛乳が。


 恨みがましく個室の方を睨むと、ドアの隙間から覗くように華黒が顔を出していた。


「どうしたんですか兄さん」


「わかってて聞いてるでしょ。絶対」


 ティッシュティッシュ……。


「濡れ衣です。そんなことより今度とある応募に挑戦しようと思うんですけど、私一人じゃ心もとないから兄さんの名前も貸してくださいませんか?」


「……いいけど」


 なんだかいいように話を逸らされてるような。


「そうですか! ありがとうございます。これが記入用紙ですから、よろしくお願いしますね♪」


 そういって華黒は部屋から持ってきた紙を僕に渡すと、そのまま風呂場へと消えていく。


「何の応募なの?」


「見ればわかりますよ」


 見れば、ね。


 裏返しになっている紙を表に晒し、顔の前まで近づける。


 単純な葉書サイズじゃないのは見てわかったけど、意外と枠が多くて僕は顔をしかめた。


 最近の抽選はややこしい。


 牛乳を一口。


「受理……発送……届出……氏名……」


 つらづらと読み進める。


「初婚……再婚……夫になる人……ってヲイ。これは……」


 婚姻届。


「ぶーっ! ぶほっこほっ!」


 本日二度目。鼻の奥がむやみに痛い。


「華黒!」


 油断も隙もない。


「~♪ もちろん氏名を記入してくれるんですよね?」


 そう言って僕の妹は悪戯が成功した子供そのままに笑ってから、すりガラスの向こうに消えていった。


「まったく!」


 妹の心配なんてするもんじゃないよ、本当に。

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