B5 陽の出ずるその場所で

 母さんが生き返った。始まりはある日の朝。ベッドから起き上がり、部屋を出てリビングに向かっていると、いつものように確認している妹の部屋の中に母さんが座り込んでいるのが見えた。イレギュラーな出来事に、恐る恐る彼女のほうに近付いていく。珍しく片付けをするつもりだったのか、側には掃除機が寝そべっていた。床に座ったままの母さんに近付くと、胸に何かを抱いて彼女は涙を流していた。心配になって声を掛けると、彼女は振り向き、俺の名前を呼んだ。失いかけていた本当の名前を。母さんは抱いていたものを俺に手渡し、何度も謝罪の言葉を漏らして居間へと帰っていった。変わらず母さんのことが心配だったが、先に託されたものを確認することにした。それは、写真立てに収まった一枚の写真だった。俺とユミがまだ小学生の頃だろうか。家族4人でピクニックに行った時のものだ。父さんの膝に座る俺、母さんの背に抱きつくユミ。写真には眩しいほどに輝く笑顔が溢れ、見るものに幸福を与えてくれるように思えた。中の写真を取り出してじっくり見ようと、写真立てを裏返すと、そこには手書きのメッセージが綴られていた。見覚えのある丸っこい特徴的な筆跡。ユミが書いたものだとすぐに分かった。そこには短く一言だけ彼女の想いが込められていた。

『あの時間、あの笑顔をもう一度だけ』

彼女が残した小さな陽射しは、凍結した氷河をゆっくりと解かし、滴る露を生んだ。温められた海底の奥底から、沈没していた希望への執着心が再び浮き上がってきた。


 その日から母さんとの日常が変わった。親子の歪な愛情は捨て去り、ゆっくりと着実に元の関係に戻っていった。物置で埃を被った父さんの仏壇を二人で居間へと運び、涙を零す母さんを支えながら、綺麗に掃除した。並んで座って手を合わせ、無礼な仕打ちを詫び、彼の好物をたんまり供えた。ユミが戻ってきたら墓参りもすると母さんは前向きに父さんの死を受け入れるように弱い自分と向き合い始めた。彼女に感化された、というわけでもないが、俺も自分にできる弱さとの向き合い方をしようと決意した。

 会う度に心の内を針で刺してくる妹の親友、アヤカに無理を言ってユミに合わせてもらうことになった。彼女の案内で女子寮に向かったはいいが、ユミは俺の姿を見るなり、押入れに篭ってしまった。無理もない。心通わせていた兄に暴力を振るわれて未遂とはいえ、犯されそうになったんだ。怖くない、なんて方が無理ある。ユミの反応を予想していたため、俺は前もって準備しておいた手紙をアヤカに託して部屋を出た。手紙には、俺も母さんも、自分の罪に向き合ってもう一度やり直そうと行動を始めたこと、俺のことがまだ怖いかもしれないが、ユミに帰ってきて欲しいこと、伝えたいことを全て詰め込んだ。勿論、ユミの部屋にあった例の写真も添えて。

 数日後、ユミは家に帰ってきた。同伴者を連れて。俺とは距離を取って顔も合わせてはくれなかったが、彼女が家に戻ってきてくれたのは大きな進歩だった。ユミのたっての願いで、オプションが居候することになったが、母さんもアヤカ本人も了承しているようなので、俺が拒否する理由もなかった。

 こうして、再び4人家族に戻った我が家は、ぎこちないながらも真の再生に向けて各々が己と向き合い、あの時間、あの笑顔をもう一度だけ取り戻すために歩み続ける。

 陽の出ずるその場所で、その輝きがまた奈落の底に沈まぬように。そしてまた、新たな家族4人で心から笑い合える日が来るのを夢見て。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キョウカイの表裏 夕涼みに麦茶 @gomakonbu32hon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ