Ce 鏡の中のアリス
『鏡渡り(かがみわたり)
鏡に映った像のように自分の世界と対を成す性質を持った平行世界が存在する。その対を成す世界同士の同じ人物の意識が突然入れ替わってしまう現象。
対を成す…といっても対極的な関係というわけではなく、軽度重度問わず、正負のバランスが逆方向に向いていることを意味する。例えば、3人家族が仲良く過ごしている世界があるとする。鏡渡り先の世界では、同じ姿をした家族の父親が母と娘に暴力を振るい、一家は破滅の一途を辿っている。
鏡渡り先から戻る術は、明らかになっていないが、渡って来た人物がその世界の因果に抗い、それを打ち破った時、元の世界に戻れるのかもしれない。』
自分が書いた記事を更新して、編集画面を閉じる。早速、物好きな人間がコメントを残してきた。帰り方よりも渡り方が知りたいという内容。自由に渡れるのであれば、出し惜しみせずにとっくに記事に載せているというのに。いや、そうなればそもそもこんなサイトともおさらばして、別の世界の自分に変わっていることだろう。返信しても、相手を納得させる言葉は持っていなかったため、いつものように無視してブラウザを閉じる。電源を落としてノートPCを閉めると、背後で眠る家出少女が可愛らしく唸っていた。またおぞましい悪夢に囚われているのだろうか。しかし現実に立ちはだかるナイトメアを克服しようと決意を固めた彼女だ。心に積もった塵の残渣が見せる幻など、容易く乗り越えられるだろう。少女の頭を優しく撫でてやると、気持ち良さそうに甘い声を出して、以降は苦しむ様子はなかった。隣に敷いた布団に入り、額に手を置いて目を瞑る。
アヤカは今頃、向こうでどんな人生を送っているだろうか。
二度と戻れることのないであろう、私が穢れを残してきたあの世界で…。
昔々、一人の明るく元気な少女がいました。少女は、力持ちで優しい父親と美人で陽気な母親の三人暮らし。一家は朝昼晩と毎日毎日、溢れる笑顔と笑い声の絶えない幸せな日々を送っていました。
そんなある時、母が交通事故で亡くなってしまいました。母を誰よりも愛していた父は、酷く心を痛めました。そう、少女よりも深く深く母を愛していたのです。少女が慰めようとすると、父は娘の行為に苛立ち、頭に角を生やした鬼に変わり、少女に暴力を振るいました。初めは体の痛みに負けずに父を励まし続けた少女でしたが、父は彼女の心遣いを傷に塩水を掛けられているとしか思っていませんでした。やがて、諦めた少女は、父に声を掛けるのをやめてしまいました。するとどうでしょう。暴力に味を占めた鬼は、何もしなくなった少女に向こうから攻撃を仕掛けてきました。少女は訳が分からず、ひたすら理不尽な仕打ちに耐えました。しかし泣こうが謝ろうが、鬼の手は止まらず、少女の体はいつも赤と青のおかしな色に変わっていました。
鬼の鞭打ちが続きながらも、必死に生き延びてきた少女。気付けば、彼女の顔は、美人な母親の面影を宿していました。それに気付いた鬼は、日課となった暴力を止め、優しい顔を取り戻しました。少女はようやく終わった悪夢に安堵し、父との生活をやり直せると信じていました。しかし、それが実現することは叶いませんでした。父はもう完全に鬼になってしまったのです。鬼は亡き母の名前を呼びながら、少女の体を求めました。当然少女はこれを拒みましたが、そうすると鬼は再び拳を握り締め、愛するものを傷つけないように、少女の体を痛めつけるのでした。少女は躾けられた獣のようにすぐに抵抗しなくなり、鬼はその柔らかく甘い果実を飽きることなく貪り続けるのでした。
逃げ出すこともままならない涙すら枯れ果てた日々。少女を憐れに思った神様は、少女を鬼の手から解放しようとおまじないをかけてくれました。おまじないの効果はすぐに発揮され、車を運転していた鬼は、ブレーキも踏まずに道を飛び出し、川に転落して溺れ死んでしまいました。これで少女は笑顔を取り戻せると喜ぶ神様。しかし少女の心に晴れ間が戻ることは二度とありませんでした。少女が求めていたのは、家族の再生であって、鬼に変わり果てた父の死ではなかったのです。少女の身を引き受けてくれることになった叔母さんの車の後部座席で、少女は目を瞑りながら神様にわがままを言いました。
「もう一度、あの頃の幸せを私に下さい。」
次に目が覚めると、少女は何故か自分の部屋に戻っていました。全身の傷は初めからなかったように消え去り、部屋を出た彼女の前には、彼女がずっと求めていたかつての両親の笑顔がありました。少女は夢のような現実に幸せを感じながら、神様に感謝しました。
ところが、幸せな日々を過ごしているはずの少女は恐怖を覚えるようになりました。また何時母が亡くなり、父が鬼に変貌するかも分からない。幸せを求めていたはずの少女は、家族を信じられなくなっていました。そんな少女の様子を見ていた神様は、欲張りな少女に今度は罰を与えました。少女が寮で一人暮らしを始めるようになってから、両親は近所の火事に巻き込まれて亡くなってしまいました。少女は二度目の両親との別れに反省し、もう一度神様に最後のチャンスを請いました。
しかし神様は少女に愛想を尽かし、二度と少女に手を差し伸べることはありませんでした。
エスカレーター式に高校に入学した私は、アルバイトをしながら引き続き寮での一人暮らしをしていた。学校生活がなんとか落ち着いてきたある日、私の部屋に一人の少女が駆け込んできた。少女は部活で仲良くなったユミという名の元気な女の子。時刻は深夜。彼女の尋常じゃない様子に、受け入れずにはいられなかった。事情を聞くと、多少の差異はあるものの、かつての私と同じ境遇にあることが分かった。否、彼女にはまだやり直せるチャンスがあった。過去の自分を彼女に投影していたのだろうか。私は彼女を救ってあげたくなった。その日から彼女との秘密の同棲が始まった。
次の日から、私は彼女を傷付ける鬼に会いに行くようになった。霊媒師でも退魔師でもないため、鬼を払う有効な手段は持っていない。あるのは暴力に怯えるだけの心に巣食った弱虫一匹。けれど、今自分に出来ることは、鬼に自分の罪を認識させて心を改めさせることだけ。鬼を前にして大騒ぎする一寸の虫を押さえつけ、永い鬼退治を始めた。
接触してみると、やはり彼はあの人と同じ。理由が違うだけで、十分に鬼の因子を持っていた。それと同時に、彼は私自身でもあった。彼もまた鬼の犠牲者に他ならなかった。しかし、だからこそ、私は彼に罪状を読み上げ続ける木偶の坊な閻魔に徹した。彼の中の悪鬼を目覚めさせないために。彼の冷え切った感情を温め起こすために。
結局、私の偽善な行動は全て無駄に終わった。かれが私のように神に招かれたのだった。かれは私と違い、目の前に現れた問題に果敢に挑み、たった一日で事態をひっくり返してしまった。それには神様も満足したのだろう。かれはそのままあるべき場所に還っていった。与えられたチャンスを棒に振り、壊してしまった私と違い、かれは大きな偉業を果たしたのだ。
今の私に出来るせめてもの償い、それはこの家族の再生を傍らで見守ることにあると勝手に思っている。それが、私の穢れを押し付け、カノジョの帰る場所を台無しにしてしまった私の贖罪。
鏡の中のアリスは、今日も顔を映すあなたに背を向けて懺悔を続ける。
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