A5 鏡の先の甘夢

 やかましい騒音で目が覚める。音の発生源は、耳元すぐ側。起き上がり、睡眠妨害の主を手に取ると、画面がチカチカ点滅を繰り返して、お店でよく流れている話題の曲が奏でられていた。

「…携帯電話?誰のだ?」

操作を忘れてしまった文明の機器を手探りで操作し、目覚まし設定を止めてプロフィール欄を見つけた。

「美良 京介…俺の名前…?」

携帯電話は既に解約してお店に返還したはず。それが何故か自分の枕元にある。考えても答えが出ず、ひとまず不審物を元の位置に戻す。ベッドから降りようとしたところで、新たな違和感を覚えた。足がしっかりと床を踏んでいる。いつもならば、第一歩目に漫画雑誌の感触を得られるのだが、床板の冷たさが足の裏を伝った。それだけではない。そもそも普段であれば、床板すら見えない暗闇の棺となっている室内だが、弱い明かりがぼんやりと照らし、部屋の様子を伺えるぐらいの薄暗さを保っている。部屋の様子を観察していると、別の家に間違って泊まってしまったのではないかと疑うほどに綺麗に片付いていた。大穴が開いていたテレビは買い換えたように傷が癒えており、凹んでいたはずの洋服ダンスも反対側から槌で打ったように元通りになっていた。

「どうなっているんだ…?」

まだ寝ぼけているのかと自分の頬を強く引っ張るが、痛みが余計に眠気を覚めさせるだけだった。なんだか調子が狂い、頭を掻いて部屋を後にする。居間へと歩き出すが、すぐに足を止めた。いつもは開放的な妹の部屋の入り口に、大きな木の板が立ち尽くしている。誰も手をつけないままだったため、本来であれば床に不貞寝をしていたはずだが、役目を思い出したようにしっかりと門番の仕事を再開していた。

「母さんが直した…?いや、あの人はもう壊れていてそれどころでは…。」

開いていたものがいつの間にか閉じていると、中身が気になってしまうのが人の性。キョウスケは閉ざされたドアのノブにゆっくりと手を伸ばす。ノブが手の平に収まろうとした瞬間、それを拒むようにノブが独りでに回り始めた。慌てて手を離し、後ずさってドアから距離を置く。無人のはずの部屋のドアが静かに開け放たれていく。番人がゆっくりと体を傾けていくと、内側から封を破った張本人が姿を見せた。キョウスケはその正体に言葉を失う。

「あれ、京?おはよ!京も今起きたところ?」

それはしばらく振りに対面した妹の祐美だった。祐美は、ただただ驚くキョウスケの様子に首を傾げる。

「京?大丈夫?朝一でラブリー祐美ちゃんに遭遇して照れちゃった??」

ふざけて投げキッスをして見せる祐美。しかしキョウスケは反応に困り俯く。

「ありゃ?今日はノッてないね~兄上殿。昨日失恋でもした?それともおねしょ?どっちでもいいけど、一日の始まりにそうしょぼくれてると、お天道様に笑われちゃうよ!」

祐美はキョウスケにガッツポーズをすると、両手をパタパタと動かしてスキップしながら居間へと去った。さも当たり前のように家にいて、さも当然のように自分に話しかけてくる妹。キョウスケはもう一度自分の頬をつねったが、やはり痛いだけだった。

 陽気な妹の後を追って居間へと向かう。丁度、朝御飯をテーブルに並べていた母と対面した。

「あら、京介おはよ。京介が祐美と同じぐらいに来るなんて珍しい。今日は午後から槍の嵐かぁ~?」

「母さん…?今、何て…?」

「え?午後から槍の嵐って。でも京介は昔から晴れ男だったから、今日も一日すっきり快晴かな?」

「うん…。」

確認して間違いではないと分かり、頭が混乱する。彼女は確かに、自分のことを「京介」と呼んだ。亡き想い人の幻影を重ねず、正しく息子として。

「京介、泣いてるの!?」

「えっ?あっ…。」

呼び方一つで、瞳の堰はいとも容易く決壊した。否定された自分の存在、強要された父の代役、母との歪んだ愛情…背負い続けてきた重石は、ほんの些細なきっかけで粉々に砕けた。

「お母さん、言い過ぎちゃった!?ごめん!そんなに傷付くとは露にも思わず…。大丈夫よ!さっきも言ったけど、京介はお天道様の化身だから、今日は間違いなく笑顔満点の大快晴!!お母さんが保証する!!」

「違う…違うんだ、母さん。ちょ、ちょっと悲しいことを思い出してしまって…。母さんのせいじゃ…ないんだ。」

「そっ、そう?でも、そんなに辛いことなら、いつでも相談してね。お母さんに言いづらいなら、お父さんでも祐美でもいいから。」

「ありがと…えっ、父さん?」

パジャマの袖を濡らし、ようやく落ち着いたキョウスケに再び耳を疑う言葉が飛んできた。父に相談する、それ即ち父が生きていることに同義だった。

「父さん、生きているの…?」

「えっ?ちょっと京介大丈夫!?昨日だって家族4人で楽しくランラン団欒タイムをしたでしょ?そんな死んでたみたいな言い方したら、お父さん傷付いちゃうよ?」

「ごっ、ごめん…。まだ寝ぼけてるみたいで…。」

妹、母だけでなく父までも。懐かしいあの頃に戻ったのか、それともいつまでも覚めない甘美な夢に囚われているだけなのか。キョウスケの思考はパンク寸前だった。

「…顔洗ってくるよ。さっぱりと。」

「ついでにうがいもしてきて、心の淀みも吐き出しちゃえ!」

「…善処するよ。」

夢であろうと現実であろうと、今この瞬間、求めていた過去の幸福を取り戻したことに変わりはない。キョウスケは、良い方向に狂った日常を授けてくれた、いるかも分からぬ神様に心から感謝した。


 久しぶりに腹と心の満腹感を味わえた朝食を終え、キョウスケは自分の部屋へと戻ろうとしていた。ふと姿の無い父のことだけが気に掛かって、母の言葉の信憑性を求めて、書斎へと入る。両親の部屋を探っても良かったが、家に母がいる手前、怪しい行動は避けるべきだと考えていた。初対面のときのやりとりもあったので、彼女がキョウスケを訝しがる可能性は十分に予測できた。それに書斎には父が使っている据え置きのPCが一台ある。パスワードは父の遺品から見つけて既に知っている。この夢のような世界でも、現実との共通点は多いため、パスワードを解除できる可能性は十分に見込める。早速書斎に入り、本棚の奥にずっしりと構えるPCの前に座る。電源をつけて起動し、現れた情報の番人に秘密の合言葉を伝える。睨み通り、パスワードが通り、デスクトップが表示された。メニューから最近使ったファイルの履歴を確認する。日付は昨日。日記と書かれた鍵つきのフォルダがあった。こちらのパスワードは未知であったため、開くことはできなかったが、他にインターネットの閲覧履歴で父が興味を持っている園芸関係のサイトが確認できたため、PCを使ったのが父本人で彼が少なくとも昨日までは確実に生きているという確証が得られて安堵した。これ以上は父のプライベートに関わるため、作業を終了しようと操作していると、ピコンと何かを知らせる電子音が鳴った。すぐに画面右下にメール受信の通知が表示される。メールサイトにログインしたままなのだろうか。本来であればそのまま手をつけずにPCを落としているところだが、表示された差出人を見てそうもいかなくなった。いけないと分かっていながらも、メールサイトを開き、受け取ったメールを確認する。キョウスケは心臓を握られたように胸に苦しさを感じた。


 自分の部屋に戻ると、センサーでそれを察知したようにいつの間にか自分の所有物になっていた携帯電話が彼を呼ぶ。ベッドに座り、元気に喚く小さな同居人を手に取る。画面を見ると、山田と大きく表示されていて、どうやら彼から電話が掛かってきているらしかった。

「ヤマダ…クラスにいるお調子者のあいつか?」

居留守も考えたが、家族以外の人間ももしかしたら変化があるかもしれないと気になり、思い切って電話に出ることにした。

「もしもし。」

「もしもし…じゃねーよ!!京、今何時だと思ってるんだコラァ!!」

壁に掛けてあるアナログ時計を見る。相手が求めている通りそのままそっくり答えた。

「9時15分ぐらいだな。」

「そうそう、9時15分頃で食い頃(915頃)…ってバカチン!!待ち合わせの時間忘れたのか!!」

「待ち合わせ…?」

考えても山田と約束をした覚えが思い当たらない。そもそも彼とは同じクラスにいても言葉を交わしたことなどほとんどなかった。ふと時計の下にあったカレンダーが目に留まる。今日の日付を確認すると、日にちの下に「サッカークラブ観戦 AM8:50校門」と枠いっぱいに書かれていた。枠をはみ出して赤丸で囲ってもあり、覚えは全く無いが、大事な約束だというのがわかった。

「サッカークラブ観戦?」

「そうそうそれ!乗るはずだったバスはもう行っちまったが、次のバスに乗ればまだ間に合う!!後10分だから急げよ!!」

「ごめん、忘れてた俺が悪いし、どう頑張っても間に合いそうにないから、お前だけでも楽しんできてくれ。」

「えー!?マジかよ。試合後に選手との交流会で3VS3のミニ試合、やりたかったのに…。」

電話の向こうで山田は心底がっかりしているようだった。落ちた声のトーンに何だか申し訳なくなった。

「本当にすまん。後でちゃんと埋め合わせはするから、気を悪くしないでくれ。」

「そうか!それじゃあ、明日から一年間、学食のデザートをおかわり自由で奢ってもらおうか!!!」

暗い声色が一転、陽気に高笑いを始めた山田。キョウスケは彼の立ち直り様に呆れて言葉が出なくなった。声が聞こえなくなり、キョウスケの異変に気付いた山田は笑いながら前言を改める。

「おいおい冗談だよ!!真に受けんな!!まぁ、今日は残念だったが、欠員は向こうで何とか補充するよ。それと、お前の大好きな爺古じいこ選手のサイン、ちゃんと貰ってきてやるから楽しみにしてろよ!!」

「…うん、ありがとう。じゃあ、行ってらっしゃい。」

区切りのいいところで電話を切る。端から見ていたときは、やたらとやかましいチャラチャラした馬鹿という印象しかなかったが、それは酷い偏見だったようだ。馬鹿っぽさはあるにしても、思っていた以上に友達想いのいいやつだった。キョウスケは興味のなかったクラスメートのことを少しだけ見直し、携帯電話をベッドの上に戻した。


 しばらくベッドに横になり、ぼんやりと天井を眺めていると、ドアが開く音がした。体を起こすと、祐美が制服姿で中に入ってきた。

「ちわーっ!郵便で~す。」

言いながらキョウスケに白い歯を見せると、本棚から数冊漫画を抜き取った。

「明智君、予告通り『ワンペース』5~7巻を綾ちゃんに貸すので、いただいていくぞ!ふははははは!!」

「え?ああ…。どうぞ。」

「んもー!今日の京、歯切れが悪いぞぉ!!…体調が悪いの?」

「いや、別に…。」

「どれどれ?」

本を床に置き、キョウスケに近付いてくる祐美。座ったままのキョウスケの顔の高さに合わせて上体を曲げ、ゆっくりと顔を近付けてくる。

「おっ、おい!?」

一瞬、頭の中にあの時の過ちが思い出される。日常は取り戻せても全てをなかったことにはできなかった。祐美の動きを制止するように両肩を掴んで押し戻す。祐美は不満そうに頬を膨らませた。

「ぷー!何で拒絶するのさ!可愛い妹とおでこで体温チェックなんて、今のうちしかできないかもしれないよ!?あっ、それとも京、私の美貌に照れちゃってる!?きゃー!京ちゃんか~わ~い~い~♪」

「そうじゃないけど、本当に大丈夫だから…。」

「本当?」

「ああ。」

「本当に本当?」

「心配してくれてありがとな。」

「へへっ!優しい妹を持ってよかったね!」

祐美はニコニコしながらふざけて腰を左右に振り、本を再び回収して部屋を出ていった。小さな嵐が去り、ホッと一息吐いてまた横になる。

「そういえば、屋上…。…今日はいいか。」

別に用事がある訳でもないが、日課となっていた休日の登校をすっかり忘れていたことに気付く。家の中の息苦しさが解消された今、彼は本来の安息地を取り戻したことに自然と頬が緩んでいた。


 自堕落に一日を過ごし、夕方。外出から戻ってきた祐美が私服に着替えて晩御飯を知らせに来た。大きく腕を伸ばしてあくびをしながら居間に向かうと、長らく自分の席になっていた場所に、大きな背中が座していた。

「父さん…!」

「おぉ、京介。ただいま。」

仕事疲れを感じさせない優しい笑顔と口調、在りし日の父その人が目の前にいた。湧き上がる様々な感情は、全て目から溢れ出る流水へと変換された。

「京介、いきなり泣き出してどうした!?どこか痛いのか?」

「京、大丈夫!?」

突然の涙に戸惑う父と妹。キョウスケは取り繕うように腕で顔を拭い、無理に笑って見せた。

「ああ、ごめん。大丈夫!大丈夫だから…。ちょっと大あくびしたら涙が出てきちゃって。」

「もう、びっくりしたよ!お父さんが目力で無言の圧力をかけていたのかと。」

「お父さんそんなことしないぞ!?見なさい!この御仏のような清らかで慈悲深い眼差しを!!」

「あら、パンダのような愛くるしい瞳ね。あなたのまん丸お目目、大好きよ♪」

「もう、母さん!」

「あはははは!!おのろけ、いただきましたぁ!!」

「お粗末さまです♪」

賑やかな3人の団欒にキョウスケも自然と笑い声を上げていた。もはや不可能だと思われていた家族4人揃っての陽気で楽しい時間。キョウスケは忘れかけていた幸福というものを取り戻したように感じていた。


 夕食が終わり、仕事の続きをするために父は書斎に入った。母と祐美は居間で少年アイドルグループの番組に夢中。新聞の番組欄を確認した限りでは、一時間は釘付けになっているはずだ。父には申し訳ないが、今が絶好の機会だった。形は違えど、二度と同じ悲劇を繰り返さないように、キョウスケは自室に戻る振りをして、書斎へと足を運んだ。部屋の奥からカタカタとキーボードを忙しなく押す音が聞こえる。画面に夢中になる父の背にゆっくりと近付いた。

「父さん、ちょっと。」

「おぅ!?京介か、びっくりしたぁ!どうした?」

父はイスの向きを変えて座ったままキョウスケの方を向く。キョウスケは近くにあった予備のイスを運んで来て、父に対面する形で腰を下ろした。朗らかな表情を一転させた息子の様子を見て、父もまた真剣な顔で応える。

「…何かあったか?」

「何かあったのは…父さんの方でしょ?」

「え?」

息子の言葉に我が身を振り返る。夕食の団欒でも、彼に心配事を話した覚えは一切なかった。

「父さん、別に何もなかったと思うが…?」

「体のこと…。」

父は音を立てて唾を飲み込む。常人であればなんてことのない一言。しかし父は困惑の色を見せ、すぐに取り繕いはしたものの、刹那の変化をキョウスケは見逃さなかった。

「はは、何のことか分からないよ。見ての通り父さんは健康そのものだよ?ほら!」

両手を広げて大きく上下させて見せる父。しかしキョウスケがそれで納得することはなかった。

「とぼけないでよ…。父さんには申し訳ないけど、PCのメール、見たんだ。」

「え…?」

「隣町の大病院名義の差出人から、国内でも実績のある有名病院への紹介状を書いてくれるってメールが今朝来てた…。」

「なっ、何かの間違いじゃないか?」

「それだけじゃない。消してなかった同じ差出人からのメールも同じ内容のものばかりだった。それも、まるで父さんを説得しているような文言ばかり。」

「キョウスケ…。」

「父さん!何か重い病気を患っているんだろ!?隠さないで、ちゃんと話してくれよ!!」

「…すまない。」

父は、脇に置いていたカバンから鍵を取り出すと、PCが置かれた机の小さな引き出しに挿し、鍵を開けた。中から一枚の紙を取り出し、キョウスケに渡した。紙は、どうやら診断書のようだった。

「心臓に縮小の兆し有り…?」

「…ある時、仕事中に胸が苦しくなるのを感じて、気になったんで医者に診てもらったんだ。初診では特に異常が見られず、しばらく様子を見ることになったんだが…。」

父は作業ファイルを全て閉じ、PCの電源を落とす。改めてキョウスケとの話に集中する。

「三度目の受診前にまた苦しさを感じて、検査をしてみたら、心臓が前回検査よりも縮んでいたんだ。」

「原因は分かってない…んだよね。紹介状の話が出てるし。」

「ああ。他に異常が見つかっていないから、遺伝病の可能性があると先生は話していたが、同じ症状の人間が父さんの両親や兄弟には一人もいないんだ。」

キョウスケはもう一度手元の診断書を見る。隅々まで入念に検査したのだろう。数値の適性値については分からなかったが、他に言及されていないのを見ると、父の言うように心臓以外は健康そのもののようだった。

「初めのうちは紹介された病院に行って診てもらっていたが…どこに行っても結果は原因不明。これ以上続けても進展はなさそうだし、何より、お前たち家族や親戚に知られて余計な心配をかけたくなかったんだ。」

「家族の心配に余計なんてない!」

診断書にしわを作り、手を強く握る。体を震わせて俯くキョウスケは、壊れた母、家を出た妹の寂しい日々を思い返していた。父もまた俯き、キョウスケの肩にそっと手を乗せる。

「そうだよな…。大切な家族の関わるべき事柄に余計なんて…すまない。」

「父さん…。」

「でも、どうしても言えなかったんだ。お前たちの悲しむ顔、何より母さんがどれほど心を痛めるか…。自分で言うのもなんだが、母さんは、父さんに依存しているところがあるから。」

母が脆く崩れやすい人間だというのは、身を以って体験した。父が亡くなってすぐ、母は自殺を試みた。早期発見と親戚からの説得でなんとか彼女を踏み止まらせることができたが、葬儀も終わり、日常に戻った時には既に彼女は狂ってしまっていた。もし父が原因不明の病と聞かされたら…想像するだけでもおぞましい結末しか浮かばなかった。しかしそれでも、最悪の未来、父のいない世界にはさせたくなかった。

「確かに母さんはどうなるか分からないけど…。でも、今度こそ俺が!俺と…ユミが!全力で母さんを支える!父さんが治療に専念できるように何だってやる!」

「キョウスケ…。」

「進展が無いからって立ち止まってしまったら、それこそ打つ手なしでおしまいじゃないか!そう簡単に希望を諦めないでよ、父さん!」

父に向けたはずの言葉は、気付けば自分の心をも痛めていた。胸を手で押さえ、その痛みを真っ直ぐ受け入れる。

「せめて母さんやユミには話そうよ。それから、もう一度、紹介してもらった病院を頼ってみよう?父さん…。」

「…ふふ。」

「父さん…?」

父はいつもの穏やかな表情に戻り、キョウスケの頭をクシャクシャと撫でた。手の温もりが心地良かったが、あまり父にこういうことをされた記憶が無いため、どこか歯痒くもあった。

「京介、お前もすっかり大きくなったな。一人の男として逞しく、頼もしく。」

「俺なんて…まだまだ…。」

「ありがとな、キョウスケ。これからも頼りにしているよ。」

「父さん…うん!」

笑顔で握手を交し合う二人。今後も自分を頼りにしている。その一言だけで、父の覚悟は十分に伝わった。話が終わり、父が仕事の続きに戻るため、キョウスケは部屋を後にして自室に戻った。机の前のイスに座り、自分の頭にそっと触れる。そこに父の温もりがまだ残っているように熱を感じた。


 風呂に入り、自室に戻って、電気を消す。ベッドに横になると、すぐに睡魔がキョウスケの意識を奪いに来た。深夜に眠りつく時よりも心地良い感覚。その気持ち良さに身を委ね、キョウスケは深く、深く、黒い海に沈んでいった。


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