鏡介-交差する意識-
B5 鏡の国の悪夢
体の痛みで目を覚ます。旅行先にて慣れない布団で眠ったときのような、不適合感に襲われた。ゆっくりと目を開けて体を起こす。開いたはずの視界は依然として暗闇のようにはっきりしていなかった。
「暗っ…。起きるの早すぎたかな…?」
頭を掻き、大きくあくびをして枕元に置いた携帯電話を手探りする。
「あれ?え?あれ??」
彼の頭の側で眠りついていたはずのそれがどこにもない。枕の下にも反対側にも、自分の寝ていた場所にも。困った京介は、ひとまず部屋の明かりをつけようとベッドから降りる。
「うおっ!?なっ、何だ!?」
体重をかけて踏み締めた第一歩で足の裏に違和感を感じる。ベッドの上に座り、目を凝らして足元の異物を拾い上げる。
「…少年サーセン?何ヶ月も前の号じゃん。捨ててなかったっけか?ゲホッ!」
被っていた埃でむせながら、そっと漫画雑誌を端に退ける。嫌な予感がして、周囲を手探りしてみると、コップのものと思しきガラス片や滅茶苦茶に引き裂かれた小説、壊れた何かのトロフィーもあった。
「おいおい、まさかうちに強盗でも入ったんじゃないよなぁ…。」
足元に気をつけて、記憶に覚えている窓の位置に近付き、カーテンに触れる。付着した埃を吸わないように息を止め、カーテンを開いて窓を開けた。篭っていた空気が自由を求めて外に飛び出していくと、代わりに新鮮な空気が待ってましたと言わんばかりに部屋の中に駆け込んできた。京介は呼吸を再開し、汚染された体内を洗浄するように窓の外に顔を出して美味しい空気に舌鼓する。
「ふほぉぉぉぉぉーーーー!!フレッシュウ~!まだ時期的に寒くないから、窓も開けていたはずなんだ、け…どぉ…?」
体内を爽やかにして背伸びをしながら振り返ると、せっかくの爽快感を台無しにする光景が広がっていた。床は最初に気付いた通り散乱したゴミや部屋の物で埋め尽くされ、身支度用の鏡は割れて、テレビの画面にも大穴が開き、洋服ダンスは凹んでいたり蝶番が外れてそのドアが傾いていたり…本当に自分の部屋なのかと思わず疑ってしまった。
「…とりあえず片付けるか。いやいや、これは異常事態だし、まずは家族の安否を確かめないと!!」
足場の安全地帯を慎重に通り、なんとかドアに着き、廊下に出る。リビングに向かいながら物置や書斎、両親の部屋を見て回るが、そちらは何故か綺麗なままだった。通り道最後に目に留まった妹の部屋は、ドアが外れ、京介の部屋ほどではなかったが、床に物が散乱していた。
「祐美、大丈夫か!?」
倒れたドアを避けながら、窓が開いたままの祐美の部屋に入る。しかし探し人の姿どころか、生き物の気配さえなかった。大事な妹の姿が見られずに不安が募る。
「父さんと母さんは無事だろうか?」
無人の部屋を飛び出し、慌てて居間に向かうと、味噌汁のいい匂いが漂ってくる。恐る恐る台所を覗くと、母が朝食の準備をしていた。京介は第一家族を発見できてホッと胸を撫で下ろした。
「母さん、無事でよかった!」
「あら、あなた。おはよう。今日は早いのね。」
「何か体の痛みで起きちゃってさ。そしたら何故か部屋が荒れ果てていて。祐美の部屋も散らかってたから泥棒でも入ったのかと。」
「ふふ、泥棒なんて入るわけ無いでしょ。それに私たちの部屋、荒れてなんてないわよ?寝ぼけてるの?」
「ぐーぐーぐー…はっ!?寝てない寝てない!私は正常その…ぐぐぅ…。」
「あはは。何それ!今日のあなた、随分コミカルね!」
「僕は万年陽気な道化師さ☆…それより、祐美のやつはどこ行ったの?」
「ユミ?部活の合宿でしばらく帰ってこないって言ってたでしょ?」
「え?初耳だけど。」
「あら確かに言っていたわよ?忘れん坊な道化師さん。」
母はクスクス笑いながら、料理の手を再開する。家を空ける予定であれば、自分が覚えていないはずも無いと首を捻る京介だったが、母が嘘をついているとも思えず、ひとまず母の様子から恐らく父も妹も無事だろうと確信できて、抱いていた不安はすっきりと消え去った。洗面所で顔を洗い、雑巾とバケツ、ゴミ袋を数枚に箒と塵取りの完全装備を整えて、いつの間にか出現し領地を蝕むゴミ帝国に宣戦布告をするのであった。
いっぱいになったゴミ袋をいくつも廊下に並べる。戦争に勝利した京介は、元の…とまではいかないが、家具や家電製品以外の汚れやゴミは完璧に駆逐した。勢いそのままに妹の部屋に進軍し、とりあえず触っても怒られなさそうな目に見える部分だけゴミや汚れを取り除いた。最後にカーテンを洗濯し、京介は仕事終わりの一杯を冷蔵庫から取り出して一気に飲み干した。
「っはーーー!!ひと汗かいた後の牛乳は格別だぁ!」
「あなた。」
汚れた服を着替えてパンツ一丁で牛乳を飲んでいる不審者に声が掛かる。振り向くと、身支度を整えた母が妖しく微笑んでいた。
「あっ、これから仕事?休日なのに大変だね。」
「ふふ、でも働いた分だけ生活も楽になるでしょう?行ってくるわね!」
母は京介の頬に口紅の跡を残す。一瞬の出来事に固まる京介。母は笑顔で手を振り、玄関へと去っていった。
「…どうしたんだ?今日の母さん。」
唇を当てられた場所を擦ると、鮮やかな紅色が手についていた。
「…やっぱりない。」
片付けた部屋を片っ端から探してみたが、日々の相棒である携帯電話の姿はどこにもなかった。試しに自宅の電話でコールしてみるが、呼び出し音は鳴るのに、携帯からの着信音は全く聞こえてこなかった。
「父さんが帰ってきたら要相談だな…。携帯会社への問い合わせは…後でいいか。」
携帯のことは諦め、カバンの中から見つけた財布を手に、出掛ける準備をする。今日は、山田、梅田と地元サッカークラブの試合を見に行く約束をしていた。待ち合わせの時間まで30分はあるが、家にいてもやることがなかったため、少し早いが待ち合わせ場所に向かった。
約束の学校校門前に着いたのが20分前。父の部屋から拝借した腕時計をこまめに確認しながら二人の到着を待つ。いつもなら苦にならない待ち時間であるが、今日は一転、居心地の悪さを感じていた。部活動や自習で学校に来た生徒たちが、畏怖とも邪魔とも取れる負の眼差しを向けて来る。人当たりよくしようと愛想笑いで小さく頭を下げるが、余計に不気味がって、目を合わせた生徒は足早に去っていった。内心落ち込みながら、時間を気にする回数を増やして友の参上を今か今かと待ちかねていると、ようやく目当ての人物の一人、ヤマダが現れた。しかし、どこか様子がおかしい。同じサッカー部の仲間と話しながら歩いてくるが、これから出掛けるというのに、ヤマダは部活のユニフォーム姿だった。
「山ちゃんおっは!」
いつもの調子で手を挙げてヤマダに声をかける。声が聞こえたのか、ヤマダは京介の方を向くが、部の仲間とひそひそ小声で話しながら、京介の横を通り過ぎていった。完全にスルーされた京介は、手を挙げたまま石像のように動かなくなってしまう。ヤマダを追う視線の先では、サッカー部の面々がグラウンドに集まり、部活動が始まってしまった。日にちを間違えたのか?それにしてもヤマダが声をかけてこないのはおかしい。ヤマダへの疑念を解決しようと考えを巡らせているうちに、気付けば集合時間を1時間もオーバーしていた。この間、当然のように梅田の姿はなかった。
「おいおいおい…一体どうなっているんだ?アレ、俺もしかしていじめられている??」
事情を聞くにも、ヤマダは部活中だし、さっきの様子では納得のいく答えがもらえそうにない。かと言って梅田に聞こうにも頼みの携帯電話は行方不明中。このまま梅田を待ち続けるか、思い切ってヤマダに凸するか、それとも諦めて帰るか、腕を組んで選択に悩む。
「先輩?こんなところで珍しいですね。」
聞き覚えのある声が正面から聞こえる。意識を現実に戻すと、目の前には妹がよく家に連れてくる親友の姿があった。
「あっ、綾香ちゃん!!おはよう!」
「えっ!?おっ、おはようございます。」
ずっとアウェイを感じていた京介は、ようやく自分に声をかけてくれる顔見知りが現れて心から喜んだ。対してアヤカは、調子を狂わされたように、京介を怪訝に見つめる。
「あの…失礼ですけど、本当にミラ先輩…ですか?」
「ああ、私服姿ではあまり会ったことないからね。このハイセンスプライベートフォームを前にしたら、誰だって『この人、なんてイケメンなの!?まさか有名人!?』って勘違いしちゃうのも無理ないもんね!あっ、もしかしてそれで道行く同胞や山田は…なるほど。」
自分で言った戯言ながら、理に適っていると一人頷く京介。アヤカは一層に表情を曇らせた。
「つまりここは一度制服を着て出直して、山田に俺を認識させて…」
「先輩、ちょっと付き合ってください!」
「はいはい付き合って…へ?」
アヤカは京介の手を握ると、有無を言わさずに彼を引っ張り、校舎の中に入っていった。昇降口で靴を脱ぎ捨て、上履きに履き替えずに、ひたすらに歩き続けるアヤカ。京介は積極的な彼女に戸惑いを隠せなかったが、握られた異性の手の温もりに少しばかり心をときめかせていた。
アヤカに連れて来られたのは学校の屋上。休日ということもあり、二人以外に人の気配は無かった。フェンスの側まで引っ張られ、ようやく解放されたかと思うと、アヤカは京介の肩に手を置き、目を見つめてゆっくりと顔を近付けてくる。京介は大胆な妹の親友の行動に胸を高鳴らせて、静かに目を閉じた。顔の紅潮と、唇を突き出す京介のマヌケ面に、アヤカは思わず吹き出してしまった。
「ぷふっ!あはははははは!!!せっ、先輩!!何ですかその顔は!!」
「え?何って…綾香ちゃんがその、き、キスを…。」
「何で私が先輩にキスをしないといけないんですか?」
「それは…うーん。せやな…。すまん。」
酷い勘違いに気付き、大きく肩を落とす京介。アヤカはしばらく腹を抱えて大笑いして、京介の傷口に追い討ちをかけた。程なく笑いが収まった頃、アヤカはもう一度京介の顔を覗き込む。
「やっ、やっぱりキスするの!?」
「ふふ!しませんよ!!」
今度は悪ふざけで口を尖らせる京介にまた吹き出しそうになりながらも、アヤカは監察を終えたようで、顔を離した。
「先輩、いくつか質問いいですか?」
「いくつと言わず、いくらでもどうぞ。あっ、好きな女の子の名前とへそくりの場所は聞かないでね!」
「安心してください。それらは興味の範囲外ですから。」
「一つ目。先輩、今日、起きてからずっと頭をぶつけたり、変なもの食べたりしてないですよね?」
「そういうのはないね。あっ、古い雑誌を踏みつけたという罪深い行為をしてしまったけど。」
「…続けます。二つ目。先輩は、ユミに対して罪悪感を感じていますか?」
「祐美に?うーん、たまにあるかな。内緒で祐美が買ってきたおやつ食べちゃったり、祐美の部屋の本を勝手に女子友達に貸したり…まぁ全部最終的にバレるんだけどね。」
「三つ目。お母さんとの生活はどうですか?」
「どうって聞かれてもいつも通りとしか。あっ、でも今朝は何か変な感じだったな、母さん。」
「…最後です。今日に限って身の回りで違和感が多い、なんてことないですか?」
「それありまくり!朝起きたら部屋が滅茶苦茶だし、祐美は合宿でいないし、山田…友達には無視されるし。」
「先輩…。」
アヤカは携帯電話を取り出し、素早い指捌きで操作をして、京介に画面を見るように差し出した。携帯を受け取り、指示に従うと、画面には怪しげなサイトが表示されており、大きな見出しと文章が綴られていた。
「鏡渡り…?」
「鏡渡り…鏡に映った像のように自分の世界と対を成す性質を持った平行世界が存在する。その対を成す世界同士の同じ人物の意識が突然入れ替わってしまう現象。」
説明文に書かれている内容を暗記しているかのようにスラスラと語るアヤカ。よく見ると、サイトはマイナー都市伝説をまとめたもののようだった。
「先輩は恐らく、この世界の人間ではない。少なくとも意識だけは。」
「ははっ、まさか…。しょっ、所詮は都市伝説なんて迷信だろ?現実にそんな絵空事が起こるはずが…。」
「では、試してみましょうか?これが迷信かどうか。」
アヤカは携帯を取り上げ、また忙しなく操作を始めた。少しして、携帯を再び京介に渡し、画面を指差す。今度は携帯で撮られた写真画像のようだ。
「これ、祐美か!?」
画面に映し出されたのは、隠し撮りしたのだろう。ユミが着替えている姿だった。風呂場で下着姿のユミ、その体にはいくつもの青アザが出来ていた。体にできたものについては、妹の裸をしばらく見ていないため、分からなくても仕方ないが、腫れた目の周りの色は、隠し様がなく、京介が気付いていてもおかしくないものだった。
「この怪我…誰が祐美にこんな酷いことをしたんだ!?祐美は、妹はどこにいるんだ!!」
携帯を手にしたまま、アヤカの肩を力強く掴む。加減を忘れるほどの強さで、アヤカは顔を歪ませる。その表情で我に返り、手を離して携帯を返した。
「ごめん…。つい興奮してしまって…。」
「いえ…。それより、ユミなら心配せずに。寮の私の部屋に匿ってますから。」
「そっか。それなら安心だ…。でも一体誰が…。」
「あなたですよ、先輩。」
「えっ?」
「あなたが…正確には『この世界の』あなたが彼女を傷付けたんです。」
「まさか…。」
「信じられないかもしれませんが、これは事実です。ユミの部屋、もう見ましたか?」
朝一番の見回りを思い出す。自分の部屋同様に荒らされていた妹の部屋。当然自分が暴挙を働いた記憶などこれっぽっちもなかった。現実が揺らぎ始め、京介は険しい顔になる。更に畳み掛けるようにアヤカは続ける。
「心当たりがあるようですね。それから、あなたの母親。」
「…母さんがどうした?」
「彼女はあなたを『旦那』つまり『あなたの父親』だと思い込んでいます。」
「母さんが…?何でまた!?」
「この世界では、あなたの父親は亡くなっています。それが原因ですよ。」
「父さんが死んでいる!?いや、でも昨日確かに!」
「あなたの世界では生きている。…ちょっと失礼。」
再び携帯をいじるアヤカ。この瞬間だけ、京介は文明機器の発展を恨めしく思った。差し出された画面には、地方新聞の半年ほど前の記事が掲載されていた。
「普通乗用車が大型トラックと正面衝突…トラックの運転手は酒気帯び運転で逮捕。被害者…」
「ミラ キヨヒコさん、事故で即死。あなたの父親ですよね?」
「まじかよ…。」
事故現場は父が通勤の際によく通る道。姓名の漢字、年齢は完全に一致。疑う余地のない事実であった。足腰の力が抜け、地に膝をつく京介。彼の絶望に気遣うこともなく、アヤカは言葉を続ける。
「さて、ますます都市伝説に現実味が増したところで、先輩には申し訳ないですが、一番重要なことをお伝えしておきます。」
アヤカは京介の耳元に口を近付け、残酷なとどめを囁いた。
「先輩は、ご自身の母親と肉体関係を持ってしまっている。」
「!?」
「それはお父さんが亡くなったことが引き金になっているようですが、悲劇というものは連鎖しやすい。母の欲求を拒めない弱い先輩。それを実の妹が知ってしまったら…。犠牲となった我が身を、その妹に非難されたら…。先輩なら彼女をどうしますか?」
「まさ…か…。」
最後に重い一撃を心中に受け、眩暈を起こし、上体を支えようと、床に両手を着く。呼吸が荒くなり、不快感・嫌悪感が頭の中を駆け回る。アヤカは不敵に微笑み、携帯をスカートのポケットにしまってフェンスに寄りかかった。
「暴力を振るい、果てにはその妹にまで…。カレは本当に腰抜けの屑野郎ですよ。」
アヤカが空を仰ぐと、眩しいほどに照りつけていた太陽は、小さな雲の固まりに阻まれ、顔を隠されてしまった。
「あの人と同じ…。」
後ろ手にフェンスを強く握り締める。手の平に食い込むほどに強い力で握っていたが、網目状の跡ができても、彼女は痛みを感じなかった。
「…祐美に会わせてくれ。」
アヤカが顔を戻すと、京介はゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐ彼女を見ていた。
「会ってどうするつもりですか?ユミはあなたの姿を見ただけで逃げ出しますよ?あなたに一体何ができるというんですか?」
「何もできないかもしれない。そもそもやれる資格がないのかもしれない。」
カレにはない光を宿す彼の瞳に、アヤカは釘付けになる。
「でも、だからこそ俺は行動を起こしたい!祐美に会って、それから母さんとも話し合いたい!確かに俺はこの世界の人間じゃないかもしれないが、同じ名前に同じ容姿のもう一人の自分、それは俺が成り得た、もしくは今後成り得る自分自身。カレの罪を償い、家族を元に戻すのは俺の役目だ!」
京介はアヤカの前で跪き、地に頭をつけた。
「綾香ちゃん、頼む!!祐美に会わせてくれ!!俺は家族を元に戻したいんだ!」
「…それは先輩のワガママでは?ユミは望んでいないかもしれませんよ?」
「いいや、祐美だって再生を望んでいるはずだ。絶対に。」
「どうしてそう言えるんです?」
京介は膝を払い、立ち上がって笑って見せた。その表情には、確固たる自信が満ち溢れていた。
「あいつが俺の妹で、俺があいつの兄貴だからさ!」
雲は眩しさに耐え切れず、場所を移し、地上に再び温かな光の雨が戻ってくる。アヤカはカバンを持ち、京介の横を通って入り口へと歩き出した。中に入る前に、足を止め、振り向かないまま口を開く。
「…今日の夕方4時頃、校門前に来てください。案内します。」
足早に去っていくアヤカを見送り、屋上からの景色に目を移す京介。遥か天高く上ったもう一人の父に、大きく頷いて見せた。
新たな待ち合わせ時間まで、暇を潰そうと自分の教室に向かう。別の世界とは信じられないほど、席の配置や壁に貼られた展示物が全く同じだった。当然自分の席も同じ場所にあったが、引き出しの中には教科書類がびっしり詰め込まれていて、もう一人の自分のずぼらさに苦笑いが出た。ちゃんと授業を受けているのか気になって、板書を書き写しているであろうノートを漁る。数学のノートを見つけて中を読んでいると、ガラガラとドアを開く音が聞こえ、クラスメートが入ってきた。
「おっ、土井じゃん!おっs」
いつもの調子で声をかけてしまい、途中で思い出す。今の自分は別の世界にいる。このドイが京介の見知った土井と同じく交友関係にあるとは限らない。朝に遭遇したヤマダが良い例だ。
「あっはっは!!こ、こんにちは!」
頭を掻いて誤魔化すように挨拶すると、案の定ドイはやや困惑した様子だった。
「やっ、やあミラ君…?」
ドイは首を傾げ、自分の席に着く。こちらを気にしながら、プリントを取り出して勉強を始めた。京介もまたドイを意識しながらノートの確認を続けていたが、10分もしないうちに気まずさが強くなって、駄目元でドイの席に歩き出した。
「それって課題?」
「うん…え?」
顔を上げて固まるドイ。プリントを覗き込む京介の姿を見て、信じられないといった表情をしていた。
「あの…ミラ君。だ、大丈夫なの?」
「何が?」
「何がって…。あまり自分と関わるなって言ってたの、ミラ君じゃ…?」
「え!?そうなの!?」
「えぇ…?」
京介が近付いてから辺りの様子を気にし始めたドイに違和感を感じていたが、あっさりと彼が答えを教えてくれた。この世界のキョウスケは何故だか人を遠ざけている節があるらしい。道理で道行く生徒は勿論、ヤマダも怪訝な様子でいたわけだ。
「あー…ごめん!あれやっぱ無しで!京介さんも所詮は一人の寂しんぼ人間なんです!何卒、何卒!仲良くしてやってください!」
両手で拝みながら、頭を下げる京介。ドイは一瞬ぽかーんと呆気に取られていたが、おどけた京介の姿に思わず笑い出した。
「あはは!なんか今日のミラ君、別人みたいだね!」
「ノーノー!私ハ本物。影武者デハナイデース!YAMIUCHI、YOBAI、怖イデース!!」
「ぶふっ!夜這いは関係ないじゃん!!」
「ホーリー嫉妬!!」
身振り手振りでツボを突いてくる京介に、ドイは腹を抱えて大笑い。静かな教室に賑やかな声がこだました。
「ふふぅ!!ギブギブ!!ギブアップ!!もう勘弁して!」
「はぁっ、はぁっ、俺様の恐ろしさがようやく分かったらしいな、勇者殿。これに懲りずに、今後は気軽に声を掛けてくるがいい!!貴様の挑戦をいつでも待っているぞ!!」
「では、早速挑戦させてもらおうかな。」
「何や…つ…?」
聞き慣れない第三者の声に目を向けた二人は冷や汗を流す。教室のドアを開き、仁王立ちする学年主任のシジマ先生が眉をこれでもかと吊り上げていた。
「ミラ君、休日とはいえ本校生徒である君が私服で校内にいるというのはどうかと思うなぁ。」
言われて自分の服装に気付く。時間を潰すなら、外に行けばよかったと今更に後悔した。
「学校で私服のままワイワイ騒ぐ暇があるなら、丁度いい。倉庫整理を手伝ってもらおうかな?」
「あの、いや、でも俺、これから約束が…。」
「手伝ってもらおうかなっ!!」
「…やらせていただきます。」
肩を落として小さく手を振り、ドイに別れを告げて先生の後をのそのそとついていった。ドイは開いたままのドアを閉め直し、京介とのやりとりを思い出してまた吹き出した。
夕方、校門の前にはお出かけ用の私服を埃まみれにした京介が疲れた様子で立っていた。腕時計を確認すると、約束の二分前。入念に体を手で叩いていると、アヤカがやってきた。朝に出会ったときに比べて汚れまみれの京介を見て、首を傾げる。
「先輩、野良犬と喧嘩でもしてたんですか?」
「もっとたちの悪い部類の輩に絡まれてしまってね…。」
「着替えた方がいいんじゃないですか?」
「平気平気!さっ、行こう!!」
部屋を汚す心配はしないのか、という野暮なツッコミは飲み込み、アヤカは京介を率いて歩き出した。
学校から徒歩5分、あっという間に学校で経営する学生寮の女子寮に着く。本来であれば、男子禁制の場所であるが、アヤカが同伴していたおかげで、事なきを得た。アヤカの部屋は外付きの階段を上って二階の突き当たりに位置している。部屋の前に着くと、鍵を開き、いないはずの住人に声をかけた。
「ユミー!!ちょっと来て!!」
少しの間があって、押入れの戸を開けたのだろうか、板が床を擦る微かな音が聞こえ、足音を抑えるようにゆっくりと近付いてくる気配があった。
「アヤちゃん、おか…」
壁からちょっとだけ顔を出した少女。紛れもなく、京介の知る実の妹であった。しかし、顔半分には痣を隠すためだろうか、包帯を巻いていて、大怪我をしているような印象を受ける。
「ユミ、突然連れてきちゃってごめんね。でも…」
「…っ!」
ユミは京介の顔を見た途端、大急ぎで引っ込み、押入れを強く締め切った。アヤカは京介の顔を見て、この後どうするかを問う。京介は一度頷き、靴を脱いで部屋の中に入り、押入れの前に腰を降ろした。押入れの中から大きく唾を飲み込む音と荒い息遣いが聞こえてくる。京介はこれ以上脅さないように、穏やかな口調で話し始めた。
「祐美、はじ…えっと、久しぶり。最低屑野郎の京介お兄ちゃんです。」
「…。」
「その、謝って許されるとは思ってないけど…ごめん。大事な妹を心身ともに傷つけるなんてサイテーな兄貴だよな…。」
「…。」
「今更言い訳するつもりも、無理矢理祐美を連れ帰るつもりもないんだ。」
呼吸が次第に落ち着いてくる。今度は泣いているのか、鼻を啜る音が増えた。
「だからさ、気持ちが落ち着いてからでいい。それまで綾香ちゃんには迷惑をかけちゃうけど、もし祐美の中にもう一度家族を元に戻したいって気持ちがあるのなら、一度家に帰ってきて欲しい。祐美自身の意思で。」
「…。」
「母さんのことは、俺がなんとかする。祐美が帰ってこられるように、定期的に部屋の掃除もする。勉強は…アホ全開の遊び人京介さんより、才色兼備なアヤカ先生にフォローしてもらおっかな?ねっ、先生?」
「授業料は高くつきますよ?」
「うへぇ…ローンでお願いしますぅ~。」
ユミはすっかり落ち着いたようで、しかし外に聞こえまいと声を殺して小さく笑っていた。
「…と、そういうわけだから、マイシスター。もうここには来ないと思うけど、お兄ちゃんもお母さんも、君の帰還を心待ちにしている。それだけははっきりと伝えたかった。」
京介は立ち上がり、体を探る。丁度、お昼を買ったときに飲み物についてきたおまけの携帯ストラップが出てきた。
「それじゃあ、再会のその日まで、君が寂しくないように、このミニフラレター君をお供に置いていこう。えっと、じゃあアヤカ先生に…。」
不意に押入れの戸が少しだけ開く。その隙間から、ホラー映画のようにすらっとした女の腕がゆっくりと出てきた。京介は二つの意味で驚きながらも、ユミの手に直接触れないように注意して、ゆっくりと、ストラップを落とした。すると手は素早く引っ込み、また岩戸は閉ざされてしまった。しかし京介は満足した様子で、押入れに手を振った。
「またな、祐美!」
返事が無いまま、部屋を後にする京介。彼が出ていったのを隙間から確認し、押入れを出たユミは、兄からの贈り物を強く握り、胸にその手を押し当てた。
女子寮の入り口に戻ってきた京介は、見送りに来たアヤカに再び頭を下げる。
「勝手なこと言っちゃったけど、祐美の分の生活費はこっちでなんとかするから、もうしばらく、祐美のことよろしく頼む!」
「今更って感じですけど…任されました。それより、あれでよかったんですか?話し合いになってなかったですけど。」
「言いたい事は言えたから、後は祐美の気持ち次第だよ。それに祐美は家族思いの優しい子だ。絶対戻ってくるって信じてる。」
「先輩、本当に自信家ですね。」
「おう!自信がなくなったら、できるものもできなくなっちゃうからね!」
「その前向きさが羨ましいですよ、ほんと。」
「何言ってるの!前向き具合だったら綾香ちゃんだって…」
「それは向こうのアヤカ…でしょ?」
「あー…でも、君が前向きじゃないって言うのなら、これから変わっていけばいいじゃないか!なんなら俺がサポートしてあげちゃう!」
「結構です。先輩に補助を任せたらアホがうつりそうですから。」
「んぎぎ、手厳しい!」
周りを気にせず二人で笑い合い、京介は改めてお辞儀をして、手を振った。
「それじゃあ、綾香ちゃん、また明日!!」
「ええ、また明日。」
女子寮を後にし、京介は家路を進む。頭の中は、次のことでいっぱいになっていた。
ふと、通り道のスーパーに目が留まる。財布の中身を確認して、主婦や学生で賑わう店内に足を踏み入れた。
日が落ちて、明かりのついた家の中、本を傍らに置いて、京介は台所に立っていた。鍋の中身は、にんじんやジャガイモ、豚肉にたまねぎが溺れる茶色い海。白く立ち昇る蒸気と共に食欲をそそる香ばしい匂いが漂った。お玉で小皿にひとすくいして、味を確かめる。
「うーん…まぁ素人にしては上出来なんじゃないかな…。」
味に自信は持てないが、家庭科の授業やキャンプ実習以来の自作料理だったので、作り上げたという達成感は大きかった。後は母が帰ってくるのを待つだけ。調理中に片手間で作った野菜サラダをテーブルに運んでいると、玄関の方から物音が聞こえてきた。しばらく待つと、仕事の作業服を着た母が疲れた様子で入ってきた。
「お帰り、母さん。」
「ただいまー…あら?カレーの匂い。あなたが作ったの?」
「たまには、ね。美味しいかどうかわかんないけど。」
「あなたが作ったものなら何だって美味しいわよ!ありがとう、あなた!」
母は京介に接吻を求めてくるが、京介は肩を抑えて制し、ゆっくりと距離を置いた。
「あなた…?」
「着替えてきて、早く食べよう?もうお腹ペコペコでさ。母さんも腹減ったでしょ?」
「ふふ、そうね。すぐ着替えてくるわ。」
バッグをその辺に放ったまま、母は自分の部屋へと着替えに行った。その間に、ご飯とカレーを皿に盛り、二人分のスプーンと箸、コップと大きなペットボトルの麦茶を出し、食事の準備が完了した。京介は自分の席に着き、母を待つ。数分後、着替えを終えた母が到着し、夕食が始まろうとしていた。腰を下ろした母は、不思議そうに京介を見る。
「あら?今日はキョウスケの席で食べるの?珍しいわね。」
今更疑うつもりも無いが、アヤカの言っていた言葉が信憑性を増した。
「うん。だって、ここは俺の席だから。」
「何を言ってるの?あなたの席は…」
母が指をさした場所、父の座席のテーブルに京介は写真立てに収まった亡き父の写真を置いた。
「そこは父さんの席だよ、母さん。俺の、美良 京介の席はここで合ってるでしょ?」
先程まで笑顔だった母は、引きつった表情で、首を横に振る。
「ちっ、ちが…。あなたは…キヨヒコさんは…。」
「美良 清彦は不慮の事故で亡くなった。父さんは天に昇ったんだよ…。」
京介は用意していた位牌を取り出し、写真の隣に並べる。帰宅してすぐ、家の中を確認して回っていた時、物置で埃を被っていた仏壇とこの位牌を見つけた。恐らく、別の部屋にあったのをここに運んできたのだろう。足元の部分には何かにぶつけたような傷跡や床を引きずった後が見られた。こんな罰当たりな所業を行なったのは、重い物を一人で持つ力があり、父の位牌を見ても精神的に取り乱さない強さがある人物、もう一人のキョウスケの仕業だと容易に想像できた。ひとまず場所はそのままに、仏壇を綺麗に掃除して、位牌を拝借してきたのだった。出てきた亡き夫の戒名が記された札を見て、母は顔を青くし、苦痛の表情で頭を抱えてうずくまった。
「いや!!違う!!!違う違うチガウチガウチガウチガウ!!!!」
頭を左右に激しく振り、呼吸を荒げて大声で泣き叫ぶ。
「キヨヒコさんは!!キヨヒコさんは生きてるの!!!!違う違う違う!!!あなたがキヨヒコさんなの!!!キヨヒコさんは!!キヨヒコさんはここに!!!」
「母さん、もうやめよう。」
京介は立ち上がり、母の背後に回って、後ろから優しく抱きしめた。事実を突きつけられ、苦痛と悲しみにより生じた震えが、京介にも胸の奥深くまで伝わってきた。
「俺が父さんを演じるのにも限界がある。だって俺は父さんじゃない。父さんと母さんの息子、京介だから。それに、父さんの場所を俺が父さんとして奪ってしまったら、未練を残したまま逝ってしまった、本当の美良 清彦の立場はどうなっちゃうの?彼が死んだことをなかったことにしてしまうのは、つまりこれまでの父さんの人生を否定することと同じだよ。誰よりも彼を愛する母さん自身が、誰よりも酷い仕打ちを父さんにしているのも同じだよ。きっと天国で母さんのように父さんも泣いていると思う。」
母は降りしきる雨露で顔をびしょ濡れにして、父の写真の方に手を伸ばす。淀んだ視界が、その笑顔を曇らせて映した。
「あなた…。ごめ、なさ…。ごめんなさい…。」
涙にむせる母の背を擦り、優しく言葉を続ける。
「俺は父さんの代わりにはなれない。でも、『京介』として母さんを支えることはできる。今はいないけど、祐美だって同じ気持ちのはずだよ。俺たちじゃ役不足かもしれないけど、自分たちのためにも、何より天国にいる父さんのためにも、もう一度やり直そう。」
母は呼吸を整え、京介の方に振り向く。土砂降りの中、温かい陽射しが射し込んでいた。その微かな輝きだけで、京介は十分に満足した。
「さっ、ご飯食べよ!京介ちゃん特製のドシロートカリー!熱いうちが食べごろだぁ!」
いつもの調子になって、自分の席に戻る京介。母も顔を拭って鼻をかみ、スプーンを手に持った。カレーをすくい、口に運んで咀嚼する。一口目を飲み干し、目を瞑っていた母は、口元を緩めてピースサインを作った。
「…ルーがちょっと緩い。野菜の大きさがちょっと小さい。…20点!」
「20点満点中?」
「1000点満点中。」
「ぎゃー!厳しすぎでしょ!!」
「ふふふ!」
赤点確定の残念カレーを二人で黙々と食べる。まだ口数は少なかったが、母は終始、本物の笑顔を絶やさなかった。
電灯を取り替え、活力を取り戻した部屋の照明を一番弱いものに切り替え、物置から持ってきたパイプイスに座り机に向かう。食後、風呂に入って就寝前のこの時間、京介はカレに手紙を書いていた。明日自分の世界に戻れるかもしれないし、もしくは一生この世界で生き続けることになるかもしれない。一生このままであれば、母と妹を自分が精一杯支えていく覚悟ができていたが、もし帰れるのであれば、戻ってきたジブンが何をしでかすかわかったものではない。カレにも伝えたい事が一つあったため、こうして文を綴っていた。
「これでよし。」
机のど真ん中、すぐに気付くようにルーズリーフを置き、ベッドに向かった。100円均一で買ってきた安い目覚まし時計をセットし、明日からの生活に思いを巡らせて、意識を落とした。
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