第十章 月の子
1
冬休み明けからヒートアップした訓練は二ヵ月後の演習で大いに成果を上げた。
スペースデブリの来襲からも上手く対応出来ただけでなく、破損部分の修理も特に何の支障もなく終わった。
個々に焦点を当てると、勿論課題はあったが、それは些細なこととして特に問題視はされなかった。
ルオウを始めとする教官連はいたく満足げで、最終日の月基地宿泊時には全員に疑似酒精飲料が振舞われた。
生徒たちは大いに盛り上がり、宿泊施設は宴会ムードが漂っていたが、朔夜はその雰囲気についていけず、食事で胃を満たすなり、そそくさと部屋を出た。
低重力空間になっている廊下は、片側がゆるやかな弧状を描く透明プレートになっていて、月面の景色が楽しめるようになっている。
どこまでも深い漆黒の空に、またたくことのない無数の星が常時映し出されている。
基地本部は地下にあるので、作業中に外の景色を見ることはほとんどない。
そのため、月にいるという実感は湧かなかったのだが、こうして改めて見ると地球とはまるで違っていた。
ライトに照らされてようやく見える銀色の砂地はどこまでも平坦で、金波銀波がさざめく夜の大海原のようだった。
マイナス百度をゆうに下回る気温とは到底思えないそこをぼんやりと眺めていると、後ろで自動扉の開く音がした。
誰だと思い振り返ると、そこにはシンがいた。
目が合うなり、ふっと微笑み、海を泳ぐ魚のような優雅さで中空を飛ぶ。
隣に並んだときにも音さえせず、ただ髪がさらりと宙を舞った。
「何やってるんだ? 朔夜」
細い金糸の影から現れたシンの顔はいつもよりもかなり赤かった。疑似であるにもかかわらず雰囲気酔いをしたらしい。
朔夜は顔をしかめて、シンから離れた。
「あんた、酔ってる?」
「ちょっとだけだ」
いやに上機嫌なふうにニコニコと笑うシンに、朔夜はしかめた顔のままバーをつかむ手を変えた。
くるりと体を反転させ、バーの上に座るような体勢を取る。
「クラインは止めなかったのかよ」
「止められたけど、少しくらいいいだろ。無礼講、無礼講」
脳裏に困ったような顔をして微笑むジェセルの姿が浮かんだ。
シンと一緒に出てこなかったのは、多分他の生徒に絡まれているからだろう。こんなやつのお目付け役はさぞかし大変に違いない。
朔夜は、熱い熱いと云いながら、しまりのない顔をしてパタパタと手で顔を扇ぐシンを盗み見た。
シンはしばらく手を動かしていたが、それから少しすると飽きてしまったかのように扇ぐのを止め、片手に持っていた包みを取り出した。
今度は何をするのかと思っていると、包みから奇妙な物体が現れた。色がついたスライムのようなそれを指の間に挿み、口に放る。
「何それ」
「ゼリー。美味いぞ」
言下に指ではじかれたそれが中空を飛んできた。慌ててゼリーを口でキャッチし、奥歯で噛む。
口内にじわりと甘い味が広がり、冷たい破片が舌の上を転がった。
その味はなかなかによく、ナーサリーの食堂のものよりも美味しい。
まだまだ持っていそうなのでもう一つ要求すると、シンは自分で作ったわけでもないのに自慢げに美味しいだろと云ってきた。
「偉そうに」
「持ってきたのはおれだ。云われたくないんだったら自分で持ってくるんだな。まあ、人見知りが激しい朔夜にそんな酷なことはさせられないから、おれが持ってきてやったんだがな」
「……」
おれは優しいなあと自画自賛し始めるシンを歯軋りせんばかりの勢いで睨みつけ、朔夜は顔を背けた。
シンはそんな朔夜を見て肩をすくめて微笑んだ。
「せっかく月まで来たのに残念だな」
「は?」
「何だその反応は。もう忘れたのか? 月に来たのは演習のためもあるが、リュケイオンがお前の絵と似てるかどうかを確かめに来たっていうのもあるんだぞ。云ったじゃないか。見学中に抜け出して探索しに行こうって」
シンに云われ、朔夜はようやく合点がいった。
「確かに残念だけど……でも駄目だっていうんだから仕方ないだろ。素人が団体行動するには、夜は危険すぎるから中止だって。あんたも聞いただろ」
「それが問題だというんだ。月の昼夜周期は大体十五日なんだ。ちょっと調べれば、昼か夜に当たるくらいわかるだろう。わざわざ見学の日程に夜にあててくるあたりに作為を感じる」
はめられたかもしれない、と苦々しそうな顔をするシンに、朔夜は内心、誰にだよと突っ込みを入れながら溜息を吐いた。
「あんたも本当、あきらめ悪いね」
「おれはゆえの正体を暴きたかったんだ。それで詰問して、理由を吐かせて、謝らせようと思ってたのに」
ぐっと握り込んだこぶしを見つめ、シンは本当に悔しそうにプレートを蹴った。後ろに移動する体をバーにつかまって押しとどめ、また蹴り始めた。
その姿が滑稽で、吹き出しそうになるのを空咳をしてごまかした。
「――おれの夢のあの風景が現実にあったとして、それが月かどうか分からないだろ。それに百歩譲ってあんたの憶測が正しいとする。だとしてもゆえは現実の人間じゃない。今、月面で動いてる人間はこの基地内にいる軍人か役人しかいないはずなんだから」
「見逃している可能性だってある」
朔夜は溜息を吐いた。
「ルナレアは地球に帰りたいって云ってた。ゆえがルナじゃないとしても逃げるメリットなんてない。それに在籍してる軍隊がそんなザルじゃないって可能性を信じたいね。……あれは夢。それでいいだろ」
「だが……」
「まだ何かあるのか?」
威圧的な態度の朔夜に、シンは顔を曇らせた。
「他のことはお前の夢で片付けてもいい。でもおれは現実に殺されそうになった。あれはどう説明をつける気だ?」
「……」
「お前の内在能力ということで無理やり納得してもいいが、そうなると、あのときお前がおれを殺したいほど憎んでいたことになる。レセプターテレパスにそんな力はないはずだし、大体おれはお前がそんなふうに思っていたとは思いたくない。お前もそう思われるのは嫌だろ」
朔夜は眉根を寄せてシンを見た。
シンの琥珀色の双眸は真剣な色を湛えていて、先程まで酔ってとろんとしていたものと同じとは思えなかった。
勢いにおされて頷いた朔夜に、シンはふっと笑って肩を叩いた。
「だからおれはゆえを探している」
言下に自動扉が開いた。クラスメイトの何人かが顔を出し、シンを呼んだ。
「シン、まだー? 早く来てよ!」
「今、行く!」
声をあげ、シンは悪いな、と眉根を寄せた。
「じゃあ、おれはまだ向こうにいるけど、お前はどうする?」
「あんた、本気で訊いてる?」
あからさまに不機嫌そうな顔をする朔夜にシンはいいやと笑った。
「じゃあ、行くな。お前もそんなところにずっと突っ立ってないで見学、もしくはトレーニングでもしたらどうだ。ここの廊下、円形だから一周出来るぞ」
「しないし」
「じゃあ部屋に帰るほかないな。お望みなら何か調達してきてやろうか?」
「うるさいな。さっさと行けよ」
苦々しい顔をしながら追い払うと、シンはまた一笑し、それからきびすを返した。
真っ直ぐドアに向かい、そこで待っていたクラスメイトたちと二、三、会話を交わす。
笑い合うその表情が何だかむかついた。
バーを降りようとすると、食堂に入ろうとするシンがこちらを向いてウィンクを投げて寄こしたのが見えた。
早く行けと手を振り、手摺りから降りる。体がふわりと宙に浮き、ゆっくりと床に落ちた。
ドアが閉まると、辺りは途端に静寂に満ちた。
朔夜は大きく息を吐いて、シンがやってくる前と同じようにドームの向こうの月面を見つめた。
とても静かだった。
月面は、光が当たっている場所だけが切り取られたように銀色に輝き、その他の場所は全てが深淵に染まっている。
見ているだけで
「……っ」
朔夜は突如として襲ってきた云いようのない感覚に、心臓を押さえた。
「のぞ……む……っ」
それは息が詰まるかと思うほどの圧迫感だった。
その苦しさから逃れるようにその場から離れると、手摺りにつかまりながらよろよろと移動し、大きく息を吸った。
おかしいくらい心臓が痛くて、
今でも暗闇を眺めているとたまに望のことを思い出す。
黄昏の暗闇に浮かび上がる塔から落ちた双子の弟。
―――朔
脳裏にふっと浮かんだ望に、朔夜は大きく頭を振った。
こちら側を選んだのは他ならぬ自分ではないか。
思い出が苦痛になることを承知で、シンに頼んだのではないのか。
これくらい耐えなくてどうする。
自分に云い聞かせるように何度も反芻し、朔夜は静かに目を閉じた。
もう一度ゆっくりと深呼吸をし、瞼を持ちあげる。
フラッシュバックしたあと特有の余韻がまだ残っていたが、それは取るに足らないほど些細なものだった。
大分コントロール出来るようになってきた。
ほうっと息を吐き、立ち上がりながら外へと顔を向けた朔夜はそこで止まった。
ドームの外、つまり月面に何かぼんやりしたものがある。
「何だ?」
つぶやいて目を
それは
何であんなところに煙が立っているんだ。そもそも宇宙空間に煙が立つことなどあるのか。
目を細めて目元をこするが、白い影は消えない。
何なんだ?
眉根を寄せて顔を近付けた朔夜は、そこで驚愕に目を見開いた。
半開きになった唇がぶるぶると震え、小刻みに息が漏れる。
目頭や心臓が急に熱を増し、鼻と
目で見ているものが脳内で上手く処理出来ず、混乱したような感覚が続く。
それは知っている言葉で構成された文章を見ているにもかかわらず、難解すぎて理解出来ないときと似た感覚だった。
「あ……」
けれども体の方はもうはっきりと反応を示していて、その証拠に頭に向かう熱がどんどん増してきている。
耳から上に全ての血が集中していて、息をするのもやっとという状態だった。
震える声が開いた口から出て行く。
「……ゆ…え……?」
やっとのことで声に出たそれが、向こうにも伝わったのだろうか。
ドームの向こうにいる少女は長い髪をたなびかせ、ふわりと笑った。
それはまぎれもなくあのゆえだった。
「ゆえ!!」
朔夜は叫ぶなり、床を蹴った。
体が中空に浮かび、自然な動作で壁に手をつく。
床に足がつくたびに軽い音がして、天井や壁が近くなる。
そのたびに足の裏や掌、腕を使って全身で跳んだ。
この感じ、懐かしいこの感覚。
朔夜は夢の中でゆえと遊んでいたときのことを思い出していた。
自然と笑みがこぼれ、体がはずむ。
「ラギ……?」
あまりに嬉しすぎたせいか、朔夜は途中エステバンと擦れ違ったことにも気付かなかった。
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