8

 一瞬何が起きたのか分からなかった。握っていた手がピクンと反応を見せて、はっと顔を上げたその瞬間、朔夜の体は何かにとりつかれでもしたように弓なりに反ったのだ。



「ぐ…あ……」



 瞠目するシンの前で朔夜は唸り声のようなくぐもった声をあげて、寝台に背を叩きつけた。

 その姿はまるで水揚げされたえびのようで、足や手を激しく動かしながら、ベッドの上でバウンドをくりかえす。


 シンはどうすればいいかわからなくて、しばし呆然としていたが、反り返り跳ねる朔夜を前にして、とにもかくにも落ち着かせなければ、とあたりを見回した。


 ジグラが置いていった湿布を見つけて手に取ったが、これを貼れば安静にはなるだろうがまた深い眠りについてしまうのではないかとの思いが、すぐの行動をためらわせた。



「あ…あ…ぐ……」



 そんなわずかな迷いの間に朔夜はまたもや唸り声をあげた。

 足や手をばたつかせ、眠っているとはにわかには信じがたいほどの暴れ具合を見せる。



 どうしよう。



 ジグラに指示を仰ごうと端末を開くが、自動音声が流れるばかりで一向に繋がらない。



「くそ! 何でこんなときに……っ」



 シンは朔夜の体を押さえた。けれどもその力は思いのほか強かった。

 正攻法では難しいかもしれないと、シンは間接を押さえ、無理やりその動きを封じた。



「朔夜!」



 暴れまわった朔夜によって髪はもうぐちゃぐちゃだった。けれども両手で朔夜の体を押さえているせいで邪魔な髪を後ろに流すことも出来ない。



「朔夜」



 このままの状態では長くは持たない。朔夜が落ち着くのが早いか、自分の体力がなくなるのが早いか。


 精神安定剤を使えばこの発作も直に治まるはずなのだが、もっと深い眠りについてしまいそうで、やはり使用には踏み切れない。



 やはりこれしかないか。



 他に妙案など思い浮かばず、シンは力を使うことにした。

『ユエ』にはじかれてしまえばどうしようもないのだが、やってみる以外方法がない。



 この方法が駄目なら、そのときは安定剤を使おう。



 憶測を土台にした仮定の上での仮定だったが、幸い失敗しても悪い方向へは進まない。やらないで放っておくよりかは遥かに建設的だと、シンは実行に移すことにした。



「よし……」



 朔夜に馬乗りになった体勢のまま、すうっと息を吸う。



 この力が役に立つのなら。



 シンは静かに目をつむると、眠る少年の名を呼んだ。



「朔夜」



 ◇



 どこをどう走ったのか、気がついたら大通りにいた。

 普段は人や車の行き交いが激しいそこも、今は何もいない。


 路肩に止めてある違法駐車の車ももう何十年も前からそこにあったように存在感がなくなっていて、景色の一部にすっかり溶け込んでいた。

 アイラとともに隙をついては横断していたメインストリートもあの活気は感じられず、中央を走っても怒号や注意の声は飛んでこない。



 誰か、誰か。



 はあはあと荒々しく息を吐きながら、忙しなく首を回す。

 青い空気に霞む直線道路、その脇を固めるように建つ民家。どこを見回しても動くもの一つ見つけられない。



 どうしてこんなことになったのか。



 数時間前までのことが幻のようだった。


 街挙げての誕生パーティー。隣で笑う幼馴染みや綺麗な恰好をした母親。何もかもが素晴らしくて、この日が人生で最上と云える日の一つになることは間違いなかった。

 様々な色の飲み物や食べ物。御伽噺の中に出てくるような素敵なドレス。花びらのようなそのドレスをまとって出て行くと、会場にいる全ての人が笑って祝福してくれた。


 それがどうしてこんなことになったのか。


 街のどこにも人の気配がない。夜明けにはまだ早いとはいえ、朝に強い老人などはこのくらいの時間から起きているはずではないのか。



 ううん。ルナは走りながらかぶりを振った。



 昨日は沢山騒いだからみんな疲れて寝てるだけ。そう。みんなもうすこし経ったら起きてくれる。ママたちだってきっと緊急の実験か重要な解析結果か何かが入って塔に行っているだけ。



 しっかりしなきゃ。



 ルナは自分に云い聞かせるようにその言葉を何度も何度も反芻した。涸(か)れ切ったはずの涙がまたじわじわと目尻から零れ、あふれて頬を伝う。



 そんなわけない。そんなことあるわけない。



 あふれた涙で視界はとうに見えなくなっていた。青の濃淡がかろうじてわかるくらいに滲んだ画面。それでもルナは走ることを止めなかった。


 疲労のあまり脇腹が痛み、咽喉のどに熱がこごり、体中の筋肉が悲鳴をあげている。意識は全てその苦痛に向かっているはずなのに、その細かい間をぬって孤独や悲愴といった感情が脳を突き刺してくる。



 知らない、わたしは知らない。



 こんな悪夢のような光景を知っているはずがないのに、見たことがあると何かが云っている。



 見たことなんてない。あるはずがない。



 風で冷やされた涙の筋が痛い。

 ルナは走りながら涙を拭い、つまずきかけながらも大通りを駆けた。

 拭っても拭ってもつきることがないように涙は出続ける。



 わたしはひとりじゃない。



 またもやあふれた涙を拭ったルナは眼前に広がっている光景を目にして足を止めた。



「え……」



 そこは大通りではなかった。

 曇ったような青い空気はそのままだが、周囲にあるもの全てが異なっている。目の前を埋めつくすように立ち並ぶ木々、裸の足に絡みつくように伸びた細い草。そこは森だった。



「どうし…て……」



 学校の環境映像で一度見たきりの森の映像。それをそのまま暗くしたような深い森が、目の前に横たわっている。

 逃げ場を求めるように見あげた空は紺碧に染まり、漆黒の林冠がざわざわと音を立てている。



「あ……」



 ルナは驚きというよりも場所が分からない恐怖であたりを見回し、後ずさりした。けれども数歩も行かないうちに岩か倒木か、判別出来ぬ何かにつまずき、その場に倒れてしまった。



「痛……っ」



 倒れたときに打った尻がじんじんと痛みを発している。


 ルナはその鈍い痛みに泣きそうになりながら、打撲した部分を擦り、またきょろきょろと首を回した。



「誰か……っ」



 あげた声は自分では想像もしないほど小さなかすれ声だった。

 ここには自分しかいないことを余計に感じてしまって、ますますこの場所にいるのが怖くなる。両手で体を抱き締め、出来るだけ周りを見ないようにしながらルナはもう一度声を張りあげた。



「誰かいないのっ?!」



 その声は暗闇に吸収されるようにして消えた。耳に残る余韻が痛さをともなって脳に響く。


 誰もいない。ここには誰もいない。


 心に沈殿した不安の塊はますますその範囲を広げ、全身を覆いつくそうとしていた。



 ああ、そうだ。前にもこんなことがあった。



 脳裏には今と同じくらい青くて暗い森の光景がある。星がまたたくベルベットの空、闇を切り裂くように漏れる黄色い光、崩れかけた塔。



―――あと、もうすこしだったのに……



 誰かの声が耳の奥から聞こえてきた。

 誰の声なのか、何が分かったのか、何も分からなかったが、それをどうしても止めなければならないということだけは理解出来た。


 酷い焦燥感とそのあとに何が起こるか分かる恐怖が脳内を埋めつくし、思わず叫びそうになった瞬間、脳裏に赤い光がまたたいた。


 青い闇を掻き消すようにきらめくその色は、感情の昂りや悲壮感まで光の中に隠していく。


 ガラスの欠片のような鋭い光。ルビーの輝きを放つそれは、落ちてくる中途でパキンパキンと砕け散り、四散した。ビリヤードの球のように散っていく光はそこだけがいやに遅くて、眩暈にも似た感覚を覚える。


 色と光とそれらが奏でる音。

 酔ったようにくらくらとする頭を押さえて崩れ落ちたルナは、赤い光の向こうに女性の姿を見た。両手で顔を覆い、深く項垂れている。



―――生きて



 脳裏でまたたく赤い光が邪魔してほとんど見えなかったし、聞こえなかったが、ルナにはそれが母親だということが分かった。


 小さな粒が落ちてくるその合間から、悲しみに満ちあふれた感情が伝わってくる。それがあまりにも悲しくてルナは泣かないで、と呟いた。


 気泡のような粒が弾けて、赤銅色の音が脳の奥深いところをかすめる。



―――あなただけは生きて



 映像は光で埋もれていく。



 泣かないで。泣かないで、ママ。



 わたしは――



 赤い光がはじけとび、思考も映像も全てが掻き消えた。




 ◇




「さく…や……?」



 眼前の光景は、ゼリー状の物体を覗いているように歪んでいた。


 大きくまばたきをし、目元を拭った朔夜は、画面の真ん中に懐かしくさえある顔があるのを発見し、もう一度目をしばたたかせた。



「し…ん……?」



 その名を呟くように口にすると、目の前の顔は目を見開き、そして感極まったようにその面をくしゃくしゃにした。



「朔夜!!」



 叫び声とともに上半身に衝撃が走った。


 思わずけほっと息を吐いて、自分の肩に顔を埋める金髪の少年を見る。

 艶のあるハチミツ色の髪。かなり癖の強いそれを見たのはもうかなり昔のことであるかのように思えた。


 おもむろに首を動かし、もう一度その名を呼ぶ。



「……シン?」



 呼ぶとシンはビクンと肩を揺らし、それからゆっくりと顔を上げた。その額にはうっすらと発光する紋章が浮かび上がっている。

 

 

「よかった…。本当によかった……っ」



 うわごとのように同じ言葉をくりかえすシンを見ながら、そう云えばこんな顔だったとぼんやり思った。


 朔夜は疲れたように息を吐き、顔を背けた。



「シン……」



「よかった……」



 そうだ、ここが現実だ。


 朔夜はアイラやルナの母親であるエラのことを思い出した。


 苦しいほどの痛みをともなった夢。どこからが現実でどこからが夢なのか、わからないということが余計につらい。


 広すぎる街の中でひとりきりになったときの絶望と孤独を思い出し、朔夜は思わずシンに手を伸ばしていた。



「朔――」



 脳裏で光がはじける。


 きらきらと光るその雫は、驚きと焦りと困惑と言葉には出来ない何かの感情で彩られている。


 朔夜は腕に感じる優しい温もりを逃がすまいとするかのように手に力を込めた。



「ただ…いま……」



 シンが目を見開くのが見えた。

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