2
「遅くなったな」
ルオウが現れたのは、演習が終わって三十分以上経過したころだった。本当に待ったとは口に出せないためフラストレーションがたまる。
「不満が顔に出ているぞ。まあ本当に待たせたしな、すまなかった」
「いえ……そんな。申し訳ありません……」
「さっそくだが本題に入るぞ。お前、まだ保護者の承諾書を提出していないようだな。上層部からどうなっているのだと催促が来たぞ」
てっきり朔夜のことだとばかり思っていたシンは、溜息まじりのその言葉で一気に全身の筋肉が緊張するのを感じた。
さっと
けれどもルオウの反応は冷淡だった。謝っても仕方がないと軽く肩をすくめ、同情するように目を細めた。
「承諾書は必要なものだ。お前は出自が出自だし、これまでは選抜試験のようなものだったからな。代理人で問題なしと上層部も軽く考えていたようだが、正規の学生となった以上はそうも云ってはいられないということだろう。――まあ、とにかく至急必要らしいから早めに貰ってきてくれ」
ルオウはうつむくシンの肩を叩いた。
「話はそれだけだ。待たせて悪かったな。もう帰っていいぞ」
言下に腕の端末を開き、主任教官は歩きながら何かを確認しはじめた。
シンはぐちゃぐちゃに絡まった鎖を解かなくてはならないようなそんな途方もない気分を味わいながら、去っていく教官の後姿を呆然と見つめた。考えようとしても頭は完全にパニックになっていて上手くまとめられない。
どうすればいい。
それだけが脳内を席巻していて、シンは思いあまったすえに声をあげた。
「どうしてもっ」
ルオウはまさに出て行こうとしていたところだった。
切羽詰ったような教え子の声を聞いて、眉根を寄せて振り返る。
「ゼン?」
「どう……しても――ですか?」
何を云おうとしているんだろうか。
話しても仕方がないことは分かっているのに、どうしても訊かずにはいられない。
「どうしても貰わなければなりませんか?」
「ゼン」
取り乱すシンにルオウはなだめるような優しい声をあげた。そして靴音を高らかに鳴らしてシンの前に来ると、いつもは厳しい目尻をゆるめて見下ろした。
「お前の家が特殊なのは知っている。私とて出来ないと云っている者に対して無理強いはしたくない。けれどもこれは規定なんだ。未成年者を預かる以上は保護者の承諾がなければいけない」
「……すみません」
まだ納得いかない様子ながらも謝るシンにルオウはまたふっと微笑を浮かべると、優しく髪を撫でた。
「キサラギの具合はどうなんだ? 悪くなるようなら医者に見せろと云っているだろう。ユニオンは慈善事業を行っているわけではないからな。いつまでも休んでいる人間に出資する金はないんだ」
「――はい」
シンはぎりっと唇を噛むと瞼を伏せて黙り込んだ。正直に説明したいのは山々だが、今の朔夜の状態を赤裸々に話すことなんて到底出来そうにない。
何しろ今の状態になったのは『ユエ』という、存在しているのかどうかも定かでない少女のことが原因だからだ。
『ユエ』とは何者なのか。どういう経緯で会ったのか。何故自分が彼女の攻撃対象に選ばれたのか。
少女について知りたいことは沢山あったが、どれ一つとして朔夜は教えてくれなかった。
あの事件からもう一ヵ月もの時が流れたというのに朔夜はいまだに『ユエ』が消えてしまったことをひきずっていて、最近では授業に出席するのも稀という状態になってしまった。
朔夜。
シンの脳裏にはあの日屋上で絶叫した少年の姿があった。消えてしまった少女の名を狂ったように呼び、屋上中を探し回る。その姿は狂人そのもので、シンは飛び降りようとする様子さえ見せる朔夜を必死で止めた。
「――ゼン」
突発的に名前を呼ばれて、シンははっと顔をあげた。
「大丈夫か? 顔色がよくないぞ」
「平気です」
「看病するのはいいが、お前まで体調を崩さないようにな」
「……すみません」
シンは反射的に脳裏に浮かんだ朔夜の姿にきつく目をつむった。目の裏に浮かぶ朔夜の姿はとても弱々しくて正視に耐えるものではない。
「明日、キサラギが出られないようなら軍医を派遣する。お前はもう休め」
シンはそれに頷くほかなかった。
◇
更衣室でルオウと別れたシンはそのまま真っ直ぐに寮塔に向かった。
それは朔夜が睡眠導入剤を飲むのを今日こそ阻止しなければ、という思いからでもあったのだが、何よりもシン自身が早く帰りたいと願ったためでもあった。
訓練場を抱える軍直轄のエリアから巡回シャトルに乗って第九エリアに戻り、寮塔に帰る道すがら、シンはひたすら承諾書について考えていた。
ここはぎりぎりまで耐えるべきだろうか。それともやはり戻るべきなのだろうか。しかし、帰ったりすればそれこそ向こうの思う壺。もう戻ってこられないかもしれない。
承諾書を巡り、脳内では激しい攻防が繰り広げられていたが、激しさは増すばかりで一向に沈静化する気配はない。妙案が浮かべばいいのだが、浮かんでいれば初めに求められた時点ですでに提出出来ていたはずだし、わざわざルオウに呼び出されて通告されることなどなかった。
シンをここまで悩ませているのは、承諾書云々というより自宅に帰らねばならないということだった。
捨て台詞を残して家出してきたシンにとっては芳しくない事態だった。
それまではルオウの云っていた通りあまり強くは云われていなかったので先延ばしにしてきたのだが、主任教官がじきじきに通達してきたとなるとこれはもう逃げが利かない。
自宅に戻り父親に頭を下げるか、突っぱねて退学になるか二つに一つだ。どちらにしても家に帰ることになる上に、一度戻ったら二度と出してもらえない可能性が高い。
頭を下げてどうにかなるのであればいくらでも下げる。こうべを垂れるのを忌避するほど高いプライドも持ち合わせていないからだ。問題は頭を下げても、涙ながらに訴えても、許可をしてくれない父親にある。彼はナーサリーの特待生試験に合格したときも頑として首を縦に振らず、外に出ることは許さないの一点張りだった。
今回もどうせ無理に決まっている。
自室へと向かったシンはその足で朔夜のコンパートメントに向かった。
存在を感知して自動的に口を開いた扉から中に入る。
それまではロックがかかっていて入れなかった扉がすぐに開いたのは、朔夜を看病するという理由で一時だけでも鍵を解除してもらったおかげだった。
「朔夜」
想像の範囲内ではあったがやはり返事はない。
「入るぞ」
シンはほうっと息をつくと、部屋の中に踏み込んだ。
以前朔夜の部屋の中に入ったときにはとても整然としているイメージがあったのだが、ゆえの事件があってからそれは一変してしまった。
洗濯に出さないままに放り出された服や、外膜を剥がさなかったせいで溶解出来なかった容器がそこかしこに転がっている。
シンはカーテンの合間から覗くわずかな光に照らし出された床を見て深く溜息をつくと、近場のゴミを拾ってダストシュートに投げ入れた。
「朔夜……」
ゴミ溜めの中に埋まったという感が強いベッドで眠り続ける少年を見下ろし、シンはカーテンを開けた。
今日は天候が晴れていないためにまぶしいくらいの光が差し込んでくるということはないが、それでも開ける前よりかはましな状態になった。
シンは
気持ちが陰鬱なのに景色まで重たげでは救いようがない。
枕元の端末をいじって数百種類ある映像ソースの中から冬場の快晴のものを引き出す。切り替えた途端窓から痛いくらいの陽光が差し込み、部屋は黄色の光でいっぱいになった。
シンは目を細めると、明るくなった部屋の中で再び朔夜の寝顔を見つめて長嘆した。
白いシーツの上にクリーム色の光が落ちている。とろりとしたその光の中にきらきらと光るものを認めて、シンはそろりと手を伸ばした。すこしだけ伸びた爪で雫の塊のようなそれを触り、つまむようにして持ちあげる。
「遅かったか……」
窓から差し込む明るい光に照らされて石英のようにきらめいていたのは喘息の薬だった。
小指の爪ほどの小さな板状をしている。
今回もまた止められなかった。
シンはゆっくりとした動作で屈み込み、枕元に落ちたピルケースを拾った。
すこしだけ色褪せたその容器の周辺にはいくつかの薬が散らばっている。それらを丁寧に拾い集め、容器の中に入れると、何だかそれだけで疲れてしまった。
重々しく息を吐き、朔夜の眠る枕の下に座り込む。演習と承諾書の話でほとほと疲れてしまっていたシンはぼんやりしながら、耳元をくすぐる朔夜の寝息を聞いていた。
催眠剤が入っている喘息の薬は珍しくないので、これを飲んだ朔夜が寝入ってしまうのはごく自然なことなのだが、シンは何となく違和感を覚えていた。
症状に喘息らしさがないからだろうか。それとも服用頻度が高いからだろうか。
シンはこの違和感を晴らしたいとは思っていたが、いくら薬剤についての知識があっても見た目だけでは判断は出来ない。結局朔夜を起こして詳細を訊く他なく、本人が起きない以上自然に目覚めるのを待つしかなかった。
シンはおもむろに顔をあげると、眉根を寄せてピルケースを一瞥した。
灰色のような銀色のような不思議な色合いの髪をそっと掻きあげ、あらわになった額に自分の手を乗せる。
シンはすうっと深呼吸をすると目を閉じて思考を集中させた。
拡散していた意識をあざなうようにして一本の線に凝縮していく。
目の裏に映る光の揺らぎ、肌にかかる羽毛のような吐息、脈打つ音、外部からの細かい刺激全てに意識を同化させていく。
早く目覚めてくれ、早く。
針のように尖った切っ先が暗がりを刺し、そこから紺色の闇が噴き出してくる。あっという間に青一色に染まった空間は夜明けの空がじょじょに明るくなるように白んでいき、シンを包み込んだ。
が、そこまでだった。
意識が光の中に溶けるその一歩手前で静電気のようなピリッとした痛みが全身を走る。
「っ……!」
小さく叫び、反射的に朔夜から体を離した。力を使ったのと、はじかれたせいで体が痺れている。
シンは痙攣する手首をつかむと、軽く唇を噛んで朔夜を睨みつけた。
「『ユエ』……」
朔夜は何も知らずに眠り続けている。
シンは苦々しげに顔を曇らせると、心中で自分をはじいた『ユエ』をなじった。
『ユエ』とは朔夜の記憶を守る、シンにとっては妨害者の名である。
それがあの日屋上で消えてしまった少女の仕業なのか、それとも自分の意識を守ろうとする朔夜自身の力なのか、シンには区別がつかなかった。
朔夜が探している少女も、その存在は明確ではなく、一般的にいう幽霊のようなものなのか、それとも家族を失って絶望の淵に建たされていた幼い子供が作りあげた幻または別人格なのか、とても曖昧なものだった。けれどもそれがどういった存在であれ、何かが深層心理に接触しようとするのを妨げているのは事実だ。
シンとしては朔夜の意識が部外者の介入を拒んでいるという説を信じたかったが、現段階ではそれにも明確な回答は出せない。
シンは痺れの緩和された手で制服をはたき、溜息まじりに立ち上がった。
体には力を使ったせいで紋章が浮かびあがっている。
体温が上昇することによって浮かびあがる
シンは夕食を食べにいくまでにはどうにか消えて欲しくて浴室へ向かった。
「……っ…」
それは本当に微かな音だった。
歩いていたならその音で掻き消えてしまうかと思うくらいに細やかなその音にシンは反応し、淡い期待を抱いて振り返った。
しかしそこで目にしたのは先程と何ら変わりない朔夜の寝姿だった。近寄って呼吸速度を計ってみてもやはり変わりはない。どうやら単なる寝言だったらしい。
シンは大きく溜息を吐くと、髪を掻きあげるような仕草で自分の額に手をやった。紋章が浮かびあがる額は熱っぽく火照っている。
シンはもう一度肩を落とすように嘆息して、枕元に屈み込んだ。
「朔夜」
その声は随分とかすれていた。
シンは空咳をして声の調子を整えると、もう一度呼びかけた。
シーツの合間から伸びた手を握り、会話するように語りかける。
「サイトやライカが心配していたぞ、早く戻ってこいよ」
前回目を覚ましたのは一体いつぐらい前の出来事だっただろうと思いながらシンは目をつむった。
包み込むようにして持った朔夜の手の体温がじくじくとこちらにまで伝わってくる。
「早く……」
◇
頭の中ではじけた光の粒に朔夜は顔を上げた。
真っ青な空間を見つめる目の裏で金色の欠片がちらちら光りながら散っていく。その光はぱきんぱきんと砕けながらルビーのような赤いきらめきを頭の隅に残していった。
不可思議でどこか心地よい感覚。郷愁さえ感じるその感覚を朔夜は知っていた。
「……シン」
声はゆえを呼ぶときと同じようにまたたく間に空気に溶けていった。余韻も残らず、刺すような静寂だけが逆に際立つ。
朔夜はそっと耳に手を当てると、静かに目を閉じた。
真っ黒に染まった脳裏には先程の光がさらに細かく散っていく様子が見て取れる。気持ちよさとくすぐったさが
くしゃりと歪めた顔のまま、漆黒の空を仰ぎ、瞼を伏せる。
「…悪い……」
声に出さずにつぶやくと、朔夜はさっときびすを返し道路を蹴った。
体がふわりと宙に浮き、発生した気流が髪をなびかせる。
朔夜は見る見るうちに小さくなっていく足元を一瞥し、再び叫んだ。
「ゆえ!」
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