第六章 千年の孤独

1

 その街を通る風は青い。ぼんやりと青い空気を掻き混ぜるようにして街の中を駆け抜ける。

 星一つ見えない漆黒の空の下や淡青みず色に染まった丸い屋根の上、誰もいない小さな庭にひとけのない入り組んだ隘路あいろ。風は街のいたるところを訪れ、やがて街を六つに区分する大通りの一つに静かに降り立つ。


 何もない道路。幅が数百メートルはあろうかというその空間は誰もいないという事実を助長させ、孤独感を一層強めている。風はそのまま中央の塔に向かうようにして突き進み、やがて道の真ん中にたたずむ子供の元に辿りついた。


 突然吹き抜けた風にビクリとして朔夜は肩を震わせた。

 恐る恐る後ろを振り返って見る。しかしそこには何もなかった。霧のようにくぐもった大気が空間を満たし、時折震えが走るほどの冷風がはだえをかすめる。



「ゆえ」



 乾燥した唇の上を空気がふわりとかすめる。空気さえも色づけしたように青い街。海底都市のごとき様相をしたその街は今唯一無二の存在であった少女を欠いて、一層の悲壮感を漂わせていた。

 あたりを見回しても自分以外の存在が感じられないそこは、普段では決して感じられない異様な圧迫感を作りあげている。


 朔夜は唇を噛み締めるようにして湿らせると、すうっと息を吸ってもう一度口を開いた。



「ゆえ」



 誰もいない街の中で、その声は染み入るように溶けていった。



「ゆえっ」



 もう何度呼んでも返事がなかったにもかかわらず、朔夜は再び声をあげた。

 けれどもそれで少女が姿を現すということはなく、沈黙だけが虚しくその場を支配する。



「ゆえ!」



 あたりは不気味なまでの静寂を保っている。

 朔夜は挙動不審なまでに首を動かしながら、パニックになったかのようにひたすら少女の名を叫び続けた。



「ゆえ! ゆえ!!」



 青い空気の中で声はたちどころに形を失い、空間に吸収されてしまう。

 朔夜の声も熱に触れた雪のようにまたたく間に沈黙に溶けてしまい、更なる沈黙がそのあとを支配した。



「ゆえ!!」



 朔夜の全身をこめた叫び声でさえも静寂に打ち勝つことは出来なかった。水紋のように広がり、たちどころに霧散する。

 朔夜はそれでも諦めず、声が枯れて出なくなるまで少女の名を呼び続けた。


 ゆえが返事をすることはなかった。



 ◇



 朔夜が休みはじめてから今日でちょうど一週間になる。


 シンは本来なら朔夜が在籍しているはずの自分たちのグループの面子メンツを見遣り、溜息をついた。

 吐いた息がヘルメットの中にこごり、そこから発生する生温かい雰囲気が大層気持ちが悪い。


 現行の船外活動衣の売りは、冷却装置も脱臭装置も完備されているにもかかわらず一般仕様のジャンプスーツと変わらないくらい薄くて丈夫とのことらしいが、シンからしてみればそれらは生かされているようには思えなかった。


 その船外活動衣をまとって部屋に入ってから、もう何十度目かになる無性にヘルメットを脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。しかしここは通常の空間ではなく、サテライト内の擬似宇宙空間だ。ヘルメットを脱げば数分も経たないうちに窒息死判定が出て退場となってしまう。いくら生温かい空気とともに昼食に摂った食事の臭いが混在していようと、突発的に髪や鼻といった顔面の部位を猛烈に掻きむしりたくなろうとも、数時間あまりは耐えなければならない。



 あと二時間か。



 シンはヘルメットの向こうに見えるホログラフィーの時計を見て、再び溜息をつきたい衝動に駆られたが、ぐっと耐えて手元の作業に集中した。



 病欠の朔夜を抜いたシンたち六名が現在行っているのは、船外活動演習である。その内容は船の修理解体や保全、機械部品等の取りつけなど多岐に及ぶ。

 無重力環境施設訓練場に置かれた宇宙船の実物大模型がその舞台で、宇宙軍に所属する全ての人間は、実際に宇宙で作業を行う前に限りなくリアルに近いこの場所で経験を培っていくのだ。


 生徒たちはここで入学してから今までの八ヵ月間で培った知識を総動員してレシーバーからの指示に応えていくわけだが、本来ならば何年もかけて会得する技術を一年以内で出来るはずもなく、しかも初めての演習とあって、先程からルオウの怒号がひっきりなしに飛び交っていた。



「あっ」



 ヘルメットの中で小さく声を漏らし、シンは己の犯した失態を呆然と見つめた。

 ツールを間違えたのか何なのか、指示されて取りつけた機械は作動しなかった。一体どこを間違えたんだと蒼白になりながら記憶を手繰るシンのヘルメットに怒声がとどろく。



「ゼン!!」



 空気がびりびりと振動する。


 シンははじかれたように顔をあげると、ルオウのいる窓を仰いだ。


 ボールを内面から見たような形をしている訓練場の一角に開いたそこには、正規軍の制服をまとった主任教官の姿がある。

 緑の双眸に燃えあがらんばかりの憤怒ふんぬを湛え、こちらを見下ろすその姿は恐ろしいという言葉以外当てはまりそうにない物凄いものだった。


 緊張で凍りついた体を無理に動かし、慌てて頭をさげる。



「すみません!」



 けれどもそんなものでルオウの剣幕はおさまらなかった。強化ガラスをレシーバー越しでも聞こえるほど強く殴りつけ、謝るくらいなら始めからするなと更に怒鳴る。



「今のお前の失態で時間内に終わるはずだった演習時間が延びた。酸素ピルの制限時間ぎりぎりだ。予備ボンベと合わせても充分に余裕を残しておけと云ったはずだな。貴様は八ヵ月も授業で習っておいて、こんなに簡単な修理一つ出来ないのか? 一体、今まで貴様は何を習ってきたんだ? 授業は演習前のつまらない前座か? それとも寝るための時間か?」



 それは心外もいいところだったが、今のシンに否定の言葉を口にする権利はない。たたみかけるような謗言ぼうげんの数々に耐えながら、ひたすら謝る。



「すみません!」



「謝ってすむなら怒鳴りなどしない!」



 では何と云えば良いというのだ。



 クラスメイトが注目する中での叱責に、シンはうつむいたままアストロスーツの表皮をつかんだ。


 衆人の目にさらされているということがこの上なく苦痛だ。穴があったら入りたいというのはこういうときの気分を云うのだろう。

 冷たい汗が全身を這いずり、心臓がバクバクと音を立てる。鼓膜を震わせる声も叱責の間に流れる時間も、全てが一緒くたになって泥のように溶けていく。


 その感覚がこの上なく不快で唇を噛んでいると、ルオウの怒声が再び耳を貫いた。



「貴様らもだ!」



 耳がキンと引きつる。

 その声の大きさに、シンは思わずレシーバーを切りそうになった。



「貴様ら、そうやって自分は関係ないというようなそぶりを見せているがな、私に云わせれば貴様らも同じだからな!」



 その言葉でレシーバーの向こうから聞こえていた雑音が取り払われた。

 水を打ったように静まり返った空間の中で、ルオウの声だけが高々と響く。



「船外活動は元々二人一組で行うものだ。六人も七人もがぞろぞろと出てやるものじゃない。本来ならばこの作業自体マシンが行うものだ。緊急時、たとえば敵からの攻撃を受けてマシン自体が稼働しない場合を想定して行う訓練だと始めに云ったはずだ。演習は初めてだとか、もう四時間も作業をしているから、などということは云い訳にはならん! 授業では貴様らの耳にたこが出来るぐらい繰り返し説明をしたはずだし、船外活動は長ければ八時間以上に及ぶこともある。そんな長時間作業の中で人の失態を他人事のように考え、あまつさえくっちゃべっているような奴らに演習を続けさせるわけにはいかない。今話していた奴は即刻ここから立ち退け!」



 ルオウの叱責がやんだあとのレシーバーはいやに静かに聞こえた。怒りの矛先を向けられていた身で気付かなかったのだが、先程までは随分と騒がしかったらしい。静かになったことでようやく分かった。


 ひそめたような静寂の中、動き出そうという者はない。


 ルオウはどうした、出て行かないのか、と再び告げたが、それでも誰一人動き出そうとしなかった。


 凍りついたような雰囲気が訓練場内に蔓延し、ヘルメットの中の空気すらも固めたころ、ルオウは溜息を吐いた。



「続けろ」



 それは怒りを極限まで抑えた結果、出てきた声という感が強く、言外に氷点下の冷気が漂っていた。



「独りで出来ないと思ったならばそのままにしておかず、必ず周囲に助けを求めろ。船外活動は結果だ。中途でつまずいても任務を遂行できれば構わない。六人もいるということを念頭におき、自信がないのだったら、すぐに周りに訊くように。出来ないことは悪いことではない。自惚れは自身だけではなく、班全体を危険にさらす。そのことを常に頭の中においておくように」



 窓からこちらを見下ろすルオウは意外にも平静そのものだった。

 その様子が余計に怖くてシンは目を逸らしていたが、クラスメイトたちは声を聞いてほっとしようだった。


 周りと通信をしながら、模型の上を浮遊し、どこがおかしいのかを検討していく。その結果、何故機械が作動しなかったのかも判明し、残りの時間はその作業に費やすこととなった。



 ルオウの言葉通りに実践した二時間は何事もないまま過ぎていき、小言まじりのねぎらいで演習は終了した。


 歓声があがり、生徒たちは敬礼もそこそこに出口へと群がる。

 明日の予定を次班のリーダーに伝えておけというルオウの声も聞こえていないようだ。一分一秒たりともここにいたくないというようなその態度に、シンは苦笑気味に口角を上げると、少し遅れて出口へと向かった。


 訓練場を出ると、クラスメイトたちは水面で息を吸うように我先にとルオウの悪口を云い始めた。全員が彼女に怒られているので、それに歯止めをかける人間もいない。

 悪口はじょじょに白熱していったが、ある時点までいくと飽きてしまったのか、それともそれ以上のネタがなくなったのか、次第に沈静化していった。


 シンは最初こそ、同意を求めてくるクラスメイトたちと普通に会話していたのだが、本来なら七人いるべき空間に六人しかいないことを認識してしまうともう駄目だった。もう目覚めているだろうかとか、明日になったら授業に出られるだろうかと、そればかりが気になって生返事しか出来ない。


 早めに帰ろうと手早く制服を着込む。船外活動衣の圧縮ボタンを押したところで腕に嵌めた端末が呼び出し音を鳴らした。


 疲労感もあり、少し不機嫌気味に答えたシンは、端末の向こうから聞こえた声にびっくりして思わず声をあげてしまった。



「る……ルオウ教官!」



 反射的に敬礼しようとする体を抑え、あたりを見回すと、シンは手首を極限まで近付けて用件を訊いた。



『話がある。その場に待機するように』



 綺麗なアルトボイスが鼓膜を震わせる。



「朔夜のことですか?」



 云ってからまずいと口をつぐんだが、それについてルオウは特に言及してこなかった。



『――それもある。とにかくその場に待機せよ』



 微妙な沈黙をはさんで通信は切れた。



「シーンっ」



 切れるのを待っていたかのように明るい声が飛んできて、背中に体重が乗った。


 シンは首だけを反らして、抱きついてきた少女の名を呼んだ。



「サラ」



 ナーサリーのクラスメイト、サライ・ゲランは体を離し、ツインテールにした髪の先をいじった。



「ね、このあと一緒にご飯食べに行かない? シャオがシアクとエステバン誘って食堂で待ってるって」



「誘いはありがたいが難しい。ルオウ教官から待っているよう指示があった」



「……もしかしてキサラギのこと?」



 サラは思い切り顔をしかめた。彼女は朔夜に対し良い感情を抱いていない。

 シンは笑って否定した。



「いや多分違う。それよりシャオたちに謝っておいてくれ。次は参加させてもらう」



「絶対だよ。約束だからね!」



 残念そうに去っていくサラに重ねて謝り、ひらひらと手を振りながら見送った。

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