5

 早朝特訓のグラウンドとして利用されている第九エリアにはナーサリーの寮塔の他にも建物がある。暗澹の五百年のデータが集められた温室のごとき形状の資料館と、使用しているところを誰も見たことがない石造りのあずまやである。


 シンは二十箇所ある亭子ていしの内の一つで朔夜がやってくるのを待ちながら、幾度目かの溜息を漏らした。

 サテライト内とはいえ、自然保護区及び風景庭園としても利用されている五つのエリアの気温は各々参照にした植物相フロラの気候条件に合わせてある。

 シンは白くけぶる息を見て、普通はもっと寒いと感じるんだろう、と冬季制服の前を合わせてみた。



「遅いな……」



 後方のテーブルに頭を乗せて仰向けになりながらシンは袖をまくった。

 腕に嵌まったリストウォッチ型の端末には先程見たときからほとんど変わらぬ時間が表示されている。自分が遅れているときには時間は速く経つものだが、待つ側に回ると逆に感じるらしい。

 

 しかしそうはいっても、約束の時間はとうに過ぎている。何かあったのかとも思ったが、最近また様子がおかしくなってきたことを考えると元々来ないつもりだったのかもしれない。


 シンは時計を見るために持ちあげていた腕を下ろすと、大きく息を吐いた。


 天井を覆う、石造りの円蓋には薄い影がこごっていて、来たときには見えていたはずの細かい彫り物はもうわからなくなっている。


 あとすこし待ってこなかったら帰ろう。


 シンは乗せていた頭を離して身を起こすと、伸びをしながら柱にもたれた。


 暮れ方の丘は金色の光に照らされて飴色に染まっている。空気さえもとろんとした蜜のようで、透明なはずなのに霞んでいるように見えた。

 沈みかけた太陽はオレンジの白熱灯のように目映い光を放ち、全ての物を輝きの中に溶かし込んでいく。空に浮かぶ雲さえもその影響を受け、片側を桜色に染めていた。

 

 ふと足元を見ると、薄い影が溜まっている。墨色のそれはかすかな身じろぎをするたびに木漏れ日のように揺れ、じょじょに朱色がかっていく大気と同化しようとしている。それはこれからやってくる夜陰を予感させ、同時にかすかな郷愁を呼び起こさせた。


 目を細め、ナーサリーの寮塔がうっすらと見える丘を見やる。シンがいる場所は数ある園亭の中で最も寮に近い。しかしここにいたるまでの道は二箇所ある。一方は寮への道だが、もう一方は庭を抜けてシャトル発着場へといたる道で、今現在朔夜がどこにいるのかわからないシンにとって、彼がどちらかから現れるかわからなかった。


 シンは辺りを見回した。

 東側は早くも暗くなってきていて、薄い膜が全面に張られているような印象を受けた。透明な水の中に青いインキを数滴垂らしたようなごく薄い青の空気。それはまだ明るいはずの視界に陰を落とし、暗くないのに暗いといった独特の空気を作りあげていた。

 ほんのりと薄暗い丘の合間に筋のように延びる道に朔夜の姿はない。


 やはり来ないつもりなのかもしれない。


 シンはほうっと息を吐くと、もたれていた柱から体を離した。


 帰ったら文句の一つでも云ってやろう。


 嫌がられるに違いないことはシンにも分かっていたが、待ちぼうけを食らった身としてはそうでもしなければ気が収まりそうにない。それでも行き違いになる場合を恐れて一応連絡を入れておこうとシンは口元に腕を近付けた。


 しかし実際に声を吹き込むことは叶わなかった。



「…何だ……?」



 シンは視界の端に映ったおぼろげな影を見て、思わず口元に当てていた手を離した。


 淡青みず色の大気の中で煙のような白い光が散っている。真珠のような光沢を持った白い霧。小さな粒がぱちぱちと弾け、かすかな軌跡を描きながらすうっと消えていく。

 風とともに長い髪がさらさらと棚引き、それに呼応するように光の粒が空気に溶けていった。不思議な形状のワンピースが芙蓉の花弁のようにふわりと波打つ。


 それを見た瞬間、シンの心臓はドクンと音を立てて跳ねあがった。



「――お前……」



 ドクドクと早鐘を打つ心臓を押さえ、シンは掠れた声でつぶやいた。唇の合間から漏れた白煙のような息が中空を舞い、薄暗い空気の中に溶けていく。



「何で……」



 次の台詞は云えなかった。咽喉のどの奥に何かが詰まったように声が出せない。次の瞬間、シンは自分の体にまるで力が入れられないことに気がついた。


 長い髪を風に流しながら佇んでいた少女はシンをじっと見つめたのち、不意にくるりときびすを返し、歩き始めた。薄暗い丘の上に白い残光が散り、少女のたどった軌跡を示す。


 シンの体はちょうど彼女を追うような形で動き始め、それに抗うすべは何もなかった。



 ◇



 朔夜が辿り着いたとき、待ち合わせの場所にシンの姿はなかった。

 かなり遅刻をしたという自覚があったため、帰ってしまったのかとも思ったが、それならば端末に連絡の一つでも入っているはずだ。朔夜はメッセージが入っているかもしれないともう一度端末を開けた。


 東天は一面濃い淡青(みず)色で、西の空には名残とでもいうように赤とオレンジの炎がくすぶっていた。冷たい色をした東の空がそれを鎮火するようにじわじわと範囲を広げ、それとともに足下にこごった影も濃さを増していく。


 朔夜は墨を落としたように曇る視界の中で一心不乱に履歴に目を通していた。空気が色を帯び始めてきたので白のホログラフィースクリーンはとても目立つ。今日一日分の履歴を見直すのに大した時間はかからなかったが、それでも納得出来なくて朔夜はもう一度頭から見直した。けれどもどんなに丹念に見たところでやはり目的の名前を探し出すことは出来ない。


 朔夜はシンの名前のない履歴を見てショックを隠せなかった。しかしシンからのメールがなかったためにそうなったのではない。履歴に乗っていることをひそかに期待した自分自身にショックを受けたのだ。


 どうして期待なんてしていたんだ。


 必ずメールを入れると約束をしたわけではない。しかも遅れたのは朔夜の責任であり、シンのせいではない。怒って帰ったとしても不思議ではないのだ。反対の立場なら朔夜は間違いなくそうしていたし、もしかしたら遅れてやってくるかもなどと思っても連絡など寄こさないに違いない。

 シンの行動は充分理解に足るものだったが、朔夜はどうしても自分の感情に納得がいかなかった。履歴を見た瞬間に湧いた憎悪にも似たあの感情。どう考えてもおかしい。



「馬鹿じゃねえ? メールが来なかったぐらいで……」



 自分自身に云い聞かせるようにつぶやき、朔夜ははっとした。



「メール……」



 その言葉をつぶやいた途端、心臓がどくどくと波打ち始めた。

 脳裏に血管が伸縮する様子がまざまざと浮かび、こめかみに電撃のような頭痛が走る。



「痛っ」



 頭を押さえて座り込んだ朔夜の脳裏に映像はなおも流れ続ける。

 赤黒い液体が管の中を流動し、ばくばくと波打った。氷を口に含んだときに感じるようなキンとした痛みが脳を襲い、それとともに血管の映像は溶暗していく。じょじょに薄くなっていく映像。それと入れ替わるように新たな映像があぶり出しの絵のごとく現れ、血管の像に重なった。


 雪。


 雪が降っている。


 朔夜はゆっくりとした動きで上から下へと移動していく物体を見ながらぼんやりとそう思った。


 重々しく垂れ込める薄墨色の雲。その合間から注ぎ込む幾筋もの斜光がふわふわと落下してくる雪を照らし出す。濡れた石畳。雪をかぶった赤い椿の花。新緑の幾何学ラインが入った白のマントがぱたぱたとはためく。


 鼓動がほんのすこしだけ速くなった。



―――メール、出すから



 そのとき差し込んでいた光を雲が覆い隠し、辺りに灰色の膜をかぶせた。それと同時に今までまぶしさのあまり見えなかった目の前の人物の顔が明らかになる。



―――絶対出すから



 艶やかな黒の頭にマントと揃いのシリンダー帽が乗っている。すこし長めの髪が風に揺れ顔の前を過ぎったが、少年はそれを意に介しないふうに黙って、こちらを見つめていた。深いエメラルドの双眸には言葉に出来ないような悲しみが宿っている。



「…サヴァ……」



 朔夜は頭を抱えるようにしてしゃがみこんだ。


 脳が何かを思い出そうとしているのに、それを阻止するかのように黒や赤、青といった色がその上から塗りたくられていく。

 それは痛みとともに脳内に挿入され、朔夜の感情を激しく掻き混ぜた。苛立ちと焦りと恐怖と怒り。人が持つ負の感情全てをごちゃまぜにしたようなわけの分からない衝撃が内側から襲いかかってきた。皮膚が突き破られるかと思うほどのすさまじい衝撃。


 朔夜はのた打ち回りたい衝動を無理やりに抑えながら、頭に浮かんだ嘘つきという言葉に抗おうと激しく首を振った。

 咽喉が焼けつくように痛い。


 朔夜は吐くように咳をすると、胸元を叩き、そのままの拳で地面を思いっきり殴りつけた。



「やめろ……っ」



 しかしどんなに叫んでも体を痛めつけても、内側に張りついた残滓(ざんし)のような塊が取れることはなかった。



「やめてくれ!」



 絶叫して頭を抱えると、朔夜はその場に倒れ込んだ。


 声は余韻を保つ余裕もなく広い空間に掻き消え、そのあとには波紋を描くように沈黙が広がった。


 吹き荒れる大風に揺らされて、梢を震わせる木々が豪雨のような音を立てているが、人が出す音とはやはり異質で、静寂の一環にしかならなかった。冷たく尖った葉が、風が吹くたびに何度も肌を刺し、かゆみにも似た痛みを皮膚に残していく。


 朔夜は頬に爪を立ててその部位を掻くと、ごうごうと鳴るその音から耳を塞ぐように頭を抱えてうつぶせた。



 ◇



 透明な水に墨を数滴垂らしたような不透明な空気が流れている。

 桜並木は早くも石畳に埋め込まれた発光剤によって照らされていて、白い光が薄い闇の中でこごっていた。その光に照らされてぼおっと浮かびあがる木々は葉がなくともざわざわと音を立て、ミイラの指に似た枝幹しかんを揺らした。キリッとした冷たい花色の空には不穏な影の薄雲がかかっていて、それが余計気味悪さを助長させている。


 シンは桜並木の道を歩きながら前を行く少女の後姿を見ていた。


 発光剤が出す光のような白のもやをまとった少女は、腰をすっぽり覆い隠すほどに長い髪を揺らしながら遅くもなく速くもない足取りで歩いている。白い髪と花びらのような不思議な形のミニワンピース。手足さえも白い少女はまぎれもなくヤーンスで見たあの人物だった。

 テレパシーでの会話のように頭に直接響き渡るような声で「返して」と叫んだ少女。今回もあのときと同じで自分以外の他人には一切見えていないようだった。

 通りがかる知人はシンの方へは声をかけるが、彼の目の前を歩く部外者の少女に対しては関心を払わないからだ。


 ナーサリーは軍事衛星の内部にあるので、部外者への対応は厳しい。民間人が普通にパス出来るものではなく、まして見たこともない人物とその奇異な服装に視線が集まらないのは変だった。見えていないとしか云いようがない。



 一体、何なんだ。



 シンはこちらを振り返りもせず、ひたすら前進する少女の背をにらむように見据えた。


 ここにいたるまでシンは幾度となくこの金縛り状態を抜け出そうと試みた。しかし思いついた方法はいずれも上手くいかず、結局徒労に終わってしまったのだ。


 不思議なことに通り過ぎる知人に挨拶だけはすることも出来るし、その際に必要な挙動もとれる。けれどもそれ以外は一切自由にはならず、さらに足だけはどんな状況であっても前に進むことをやめない。



 今度は一体何をする気だ。



 シンはヤーンスでのことから少女が自分に敵意を感じていることを知っていた。


 今はガラスを割ったあの事件とは違い殺気は感じられないが、それが嵐の前のなぎのようで余計恐ろしい。わざわざ目の前に現れて、こうしてどこかへ誘おうとしているのだ。今度こそ危ないかもしれない。

 シンは挨拶時に自由の利く首を動かして辺りを見回した。これまでのパターンから推察すると、何かが降ってくるか割れた破片を浴びせられるかといった攻撃を受ける可能性が非常に高い。


 しかしはなだ色の空を始めとして周囲にあるのは自然のものばかりだ。桜並木の木がいっせいに倒れてくる可能性も考えられたが、そのような気配はない。



 もっと簡単で確実に事故死に見せかけられるもの。



 そう思い首を巡らせていたシンは、ふと目に止まったそれを見て体の中が凍りつくのを感じた。



 まさか。



 心の内に真っ黒な淵が現れた。絶望にも似た底の見えない暗がり。悪寒が皮膚の上を走り、総毛立つ。


 シンの目の前には空を貫かんばかりにそびえるナーサリーの寮塔があった

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