4

「……何で、お前がここにいる」



 硬い声が耳を貫く。

 瞬間脳裏にあのときの映像と台詞が蘇り、パニックになりかけたが、いざその言葉を放った少年を目の前にしてみるとその感情はまたたく間に沈静化していった。



「ここ、落ちたやつらがいる階なんだけどな。お前がいるべき階じゃねえんだよ」



 ルオウと話していた少年――ウェーバーは侮蔑を含んだ笑みを口元に浮かべると、朔夜の隣に並んだ。

 チューブの中で昇降筒が動く低い機械音が聞こえる。


 朔夜は思いがけずかつての自分らしい感情が戻ってきたことに喜びはしたものの、同時に戸惑いも覚えた。感情は当惑してしまうほどに動かず、目の前の映像もテレビの中のもののように現実感がない。

 昔からそういうふうに世界が見えていたはずなのに、何故か今になってそれに違和感を覚えるようになっていた。エレベーターが駆動する音が今なお続いている。朔夜はそれをぼんやりと聞いていた。



「お前」



 突然かけられた声にもやはり現実を感じない。

 朔夜はゆっくりとした動作で顔をあげ、その声を発した少年に目を向けた。



「俺を笑いに来たのか?」



 何を云っているんだ、こいつは。



 朔夜は怪訝そうな目でウェーバーを一瞥すると、早くエレベーターが来ないかと、目の前のチューブの群れを見あげた。

 いつもはすぐにやってくるはずなのにこういうときに限って降りてくる気配がない。



 時間はかかるがいっそのこと非常階段で降りてしまおうか。



「お前さ、気分いいだろう」



 まだ何か云うつもりか。


 

 朔夜はしつこく絡んでくる少年を迷惑そうに見やると、また視線を元に戻した。



「自信がなかったと思ってたわりに合格だったんだもんな。半分の人間は落ちたっていうのに本当に運のいいことで。俺もそんな運の良さ、欲しかったなあ」



 自信がなかったと思っていたことをどうして知っているのだと朔夜は思ったが、一瞬のちにその疑問は消えてしまった。他人がどう思っていようが、自分には関係ない。



「な、どんな手を使ったんだ? 教えてくれよ。ルオウ教官に直訴でもしたのか? それとも噂通りライザーに頼み込んで入れてもらったのか?」



 ライザーという名に朔夜の意識は馬鹿みたいに反応した。

 それまで白濁していた意識が一瞬にしてクリアになり、もう何度も経験したざわざわとした感情が心の中を蝕み始める。

 エレベーターの稼働音や周囲の景色、口内に溜まった生唾の味、辺りの無機質な匂い。それまで感じられなかった全てが自分の意識として感じられる。ざわついていた感情が泥のような質感をともなって体内の奥の方で蠢いているのも、手に取るように理解出来た。



「いいよなぁ、天下のライザーと近しい関係にあって。俺もお知り合いになりたいとは思ったけど無理だったもんなぁ。それにも何か特殊な方法があるのか? 同性でも口説き落とせるテクニックってやつ、俺にも教えて欲しいよ」



 それまではどうにか自分を御していられた朔夜だったが、その言葉だけは看過出来なかった。

 突如として噴き出した途方もない怒りが体のうちにあふれ、脳の支配権を一気に奪う。それは朔夜自身の手にも余るほどの激しい感情で、激しすぎて怒りと分類出来るかも分からないほどだった。

 限界値を超えて把握出来なくなった感情のまま、朔夜はウェーバーのタイをつかんだ。



「何だよ、この手」



 ウェーバーは鼻で笑うと朔夜の手首を逆につかみ、力を込めて押し返した。そして痛みに面をしかめながらもにらむことをやめない朔夜に顔を近付けるふうにして口元を歪めた。



「いつもは冷淡で薄情なキサラギもライザーのことになると態度変えるんだ。噂通りだね。お前らデキてんの?」



 気持ちわりぃ、と嘲笑するウェーバーの顔はこの上なく醜い。人はこんなにも汚い顔が出来るものかと朔夜は嫌悪感を覚えた。



「お前ってさあ、自分だけはいつも蚊帳の外って顔してるけど、何様のつもり? 何でいつもそんなとりすましたような顔してるわけ? その見下したようなツラが人の気にどれだけ障るかって考えたことある?」



 つかまれた手首はすっかり赤くなっている。朔夜は手首を押さえながらも冷笑でもするかのようにウェーバーを見ていた。

 怒りなのか蔑みなのか、自分の感情であるにもかかわらず判断出来ない。

 朔夜の表情に、ウェーバーは激昂した。



「むかつくんだよ、お前!」



 殴られる。

 朔夜はウェーバーがこぶしを振りあげた瞬間そう思ったが、不思議なことに怖いとは感じなかった。そればかりか勝利の感覚が脳内を満たし、その快感から思わず笑みをこぼしてしまった。


 無抵抗の人間を殴って後悔するがいい。


 けれどもその思惑とは裏腹にウェーバーのこぶしが朔夜の顔面に到達することはなかった。

 てっきり痛みがあるものだと想像していた朔夜は、代わって響いた音に思わず目を開いた。ウェーバーは目の前にいなかった。


 朔夜は目をしばたたかせてあたりの状況を確認し、自分の足元にウェーバーが倒れているのを発見した。頭を打ったのか後頭部をさすりながら、朔夜とは別の方向を見上げている。



「痛ってえ……っ 何すんだよシアク!」



「それはこっちのセリフだ。アル、お前何してんだよ」



 緊張したような声が耳を掠める。朔夜はウェーバーを押したとおぼしきオレンジ色の髪の少年を瞠目しながら見ていた。



「邪魔する気かよ」



 ウェーバーは憎々しげにオレンジ髪の少年を睨みながら立ちあがった。



「邪魔するも何も軍施設内での暴力行為は軍規律で禁じられてる。それくらい知ってんだろ?」



「先に手、出してきたのはこっちだし。俺は防戦しただけ」



「お前が何か云ったからだろ!」



 声を荒げるオレンジ髪の少年にウェーバーは肩をすくめた。



「何怒ってんだよ。お前がそんなに怒るなんて珍しいじゃん。それともお前もキサラギの虜になった口?」



「アルノルト!」



 少年は叫んだのちはっとしたように口をつぐみ、顔を曇らせてウェーバーを見た。



「アル、どうしたんだよ。いつもの品行方正のお前らしくない。当り散らすなんて――」



「らしい? らしいって何だよ」



 ウェーバーは顔を上向けるようにしてオレンジ髪の少年を見下したのち、はっと嗤笑(ししょう)した。



「お前が俺の何を知ってるんだ?」



「アル……」



 ウェーバーはぎりりと唇を噛むと一瞬朔夜の方に視線を投げた。朔夜はそれにどう反応していいかわからなかったのだが、行動を起こす前にウェーバーが顔を逸らしたので、ほっとして息をついた。



「当り散らしてる? そうだよ、当り散らしてるさ。俺は今回の試験で自分が通る自信があった。演習はいつもトップクラスだったし、専門も一般科目も努力してきた。なのに……なのに、駄目だったんだ!」



 黙り込んだオレンジ髪の少年にウェーバーは懇願でもするような目つきで云った。



「なあ、お前にも分かるだろ」



「……分かるさ」



 眉間に皺を深々と刻み、オレンジ髪の少年は苦悶に彩られた表情で朔夜を見た。



「……でも、だからってキサラギに当り散らしていいなんてことあるわけないだろ」



「シアク」



 ウェーバーは言葉を遮ると軽く首を振ってから唇を噛んだ。



「当たり散らすのはそんなに悪いことなのか?」



 少年は何云ってんだよ、と口を開きかけたが、ウェーバーは彼の答えを待たずに先を続けた。



「……俺はさ、落とされないために出来るかぎりのことをやってきたつもりだったんだ。結果はね、出たよ。試験の手ごたえはばっちりだった。上位に食い込む自信もあった。でもこのざまだ。俺は試験結果は良くとも才能がなかったんだよ。十二教科も追試を食らってもまだ居残れるようなそんな素晴しい才能は持ち合わせていなかったんだ。だから落ちたんだよ」



 オレンジ髪の少年は黙っていた。


 そのとき、待ちに待ったエレベーターが降りてきた。ウェーバーは長嘆して昇降筒に乗り込んだが、朔夜には一瞬とはいえ彼と密室に閉じ込められることが耐え切れなかった。


 足を前に踏み出さない朔夜を見て、ウェーバーは凍りついた笑みを浮かべると一言、お前が憎いよと云い残して扉を閉めた。低い稼動音がして昇降筒はチューブの底に吸い込まれるようにして消えていく。

 それを見送りながらオレンジ髪の少年がぽつりと呟いた。



「大丈夫か? キサラギ。ごめんな、なんつーか、オレが謝るのも変だけどさ。あいついつもはあんなんじゃないんだ」



 朔夜は下への呼び出しボタンを押して、後方を振り返った。



「――何で……」



 磨いていないがために薄汚れた靴を見ながら朔夜は吐き出すように言葉を紡いだ。



「何でらしいとか、そんなこと分かるんだよ。勝手に分かったふうになっているだけかもしれないだろ」



「キサラギ?」



 訝しげに眉根を寄せる少年に朔夜ははっとした。


 何を云っているんだ。こいつには関係ないじゃないか。


 朔夜はきゅっと唇を噛むと眉根を寄せてうつむいた。



「……悪い」



「全然っ。何でだよ。そんなんで謝んなくていいよ」



「でも……」



 いまだうつむいたまま唇を噛む朔夜に少年はにこやかな顔でこう云った。



「だってそういう取り方だってあるじゃん。オレは自分がそう思ったから云ってるだけだし、キサラギが云うように決めつけてるってとられても仕方ないと思う」



「……」



「でもさ、オレ的には話すだけで結構相手の本質って結構見えてくるもんだと思うわけ。何だろうな、喋り方とか音の調子とか……ほら! 怒ってる人間とかと話してると機嫌が悪いんだなとか思ったりするじゃん。そんな感覚に似てる。おぼろげな感じでもさ、まあ、それもこっちの勝手な判断かもしれないんだけどね。でもそんな気がする。――キサラギはそんなふうに思ったこと、ない?」



 オレンジ髪の少年からの問いかけに朔夜は言葉を詰まらせた。

 一瞬脳裏にシンと会話したときのことが蘇ったのだが、何を思い出しているのだと慌てて首を振った。



「もちろん今のはさ、さっきも云ったけどオレ個人の意見だからキサラギは全然気にすることないよ。ホントにさ」



 チューブが唸り声をあげている。透明な筒の中を音もなしにカプセルが降りてきて、二人の前ではない、反対側のチューブに止まった。

 今度はまたいやに早くやってきたな、と思いながら乗り込むと半歩送れて少年も入ってきた。


 そういえば、何でこの階にいたのだろう。本来なら特待生クラスが使用している上の方にいるはずの少年を朔夜はちらちらと見た。そのあけすけな視線に彼はすぐに気がついたらしい。あはは、と笑い声を立てるとすこし困ったように眉根を寄せた。



「オレがここにいるの謎?」



 一旦乗ってしまうとエントランスに着くのはあっという間だ。


 朔夜は頷きながら開いた扉から外に出た。エントランスホールのまぶしさは相も変わらず半端ではない。電光量が多いのも原因の一つだが、床の輻射ふくしゃ率の高さもそれに一役買っているに違いない。鏡のようにピカピカ光るフロアの上を歩きながら目を細める朔夜の前で、少年はオレンジ色の髪をぼりぼりと掻いた。



「ま、その、な…云いにくいんだけどさ……」



 本当に云いにくそうに口ごもると、察しはついているんだろうけど、と前置きを置いた。



「オレ、落ちちゃったんだ」



 一度はっきりと云ってしまうと胸のつかえが取れたとでもいうように、オレンジ髪の少年はべらべらと喋り始めた。

 その顔は壮快そのもので、特待生から落ちてしまった人間だとはとても思えない。

 対する朔夜はどうして洞察することが出来なかったのかという悔恨の念でいっぱいで、彼の話など聞けるような状態になかった。


 話の合間を捉えておずおずと謝る。

 すると少年は驚いたように朔夜を見、それから突然手と首を同時に振り始めた。



「何だよ! 全然、そんなこと気にすんなって! オレ、お前のせいだなんてホントに全く、一ミリも思ってないからな! 信じろよ。絶対違うからな」



 何か悪いことでも口にしてしまっただろうか、と思うほど力いっぱい否定する少年を見て、朔夜は目をしばたたかせた。



「恨んだりとかそういうの全然ないから! だって、お前のせいじゃないじゃん。オレ、アルみたいに自信があったわけじゃないし、家のメンツがとかもないし、当然の結果っていうの? 落ちるのはうすうす分かってたからなあ。それにさ、何つーの? これでよかったかなとかって思ってる」



「よかった?」



 眉間に皺を寄せる朔夜に向かってオレンジ髪の少年は大きく頷いた。



「オレさ、やってみたいこと見つけたんだ」



「やってみたい……」



「そう、お前、オレが物いじるの好きだっていうの、それも才能だって云ったじゃん? 覚えてない? 覚えてないよな、すげー些細な会話だったし」



「覚えてる」



「え! マジ?! それがきっかけで整備士になりたいって思ったんだよ。特別クラスはコース分かれてないけど一般は整備あるしさ。――だからさ、何だ……、そう! お前にはちょっと感謝してんの」



「感謝……」



「そうだよ、オレ、キサラギの言葉でわりと励まされたもん。家ではさ、姉ちゃんたちによく変な趣味とか云われてたから、自分がおかしいんじゃないかって思ってたんだよ。それをさあんなふうに肯定してくれる奴とかっていなかったんだよ。アルは色々云ってたけどさ、さすがに何かないと合格しないと思うんだよね。その合格の決め手がオレはキサラギの才能なんだって信じてる」



「……ライザーのコネかもしれない」



 呟くとオレンジ髪の少年は瞠目して、それから体を二つに曲げて笑った。



「悪ぃ。でもそんなん信じてんのかよ。ライザーのコネだけでどうにかなるんだったら、何回も試験する必要ないじゃん。ライザーとお友達になった人間だけ合格するんだったら、ゲーリングとかライデン、レスポーなんて多分話したことすらないぜ? それだけは違うって断言できる」



「じゃあ何で……」



「それはオレもわかんない。オレはともかく、落ちたやつらは結構優秀なやつ多いし、成績じゃないのだけは確かかな。これはライカが云ってたことだけど、軍人としての才能が必要なんだったらわざわざ一般人から募集しないって。しかも年齢制限が割と狭いから思春期の子供が持つ何かなんじゃないかとか推測してた」



「でも……」



「受かったんだからくよくよすんなよ。さっきも云っただろ。何か光るものがあったから選ばれたんだからさ」



 オレンジ髪の少年は合格したにもかかわらず悲壮な顔をしている朔夜を笑って慰めた。

 これではどちらが合格者なのかわからない。


「オレ、こっちだから」



 少年は別の方向を指差すと、朔夜に手を振って去っていった。


 もう夕方だというのにどこへ行くのかと思ったが、やることを見つけてきっと忙しいのだろう。何も云わずにきびすを返そうとすると、後ろであっという声があがった。



「キサラギ!」



 呼び止められて朔夜は怪訝な顔で振り返る。

 表情を曇らせる朔夜に、オレンジ髪の少年は今までになく大きな声でこう告げた。



「オレ! サイト・シアク」



 思いもかけず云われた言葉に朔夜は目をしばたたかせた。



「お前、オレの名前、知らないだろ?」



 サイトは朔夜の側に戻ってくると、その顔を覗き込むようにして口角をあげた。



「……何で」



「顔見りゃ分かるよ。人ってね、お前が思ってる以上に見てる」



 呼んでみてよ、とにっこり笑って云われ、朔夜は戸惑った。

 呼べといわれているのだから、一言それに答えてやればいいだけの話なのだが、何故か声が出ない。些細なことだと思っている割に恥ずかしいらしい。


 朔夜は自分の心情を客観的に観察しながら、恥ずかしいのは一時だけだと深呼吸した。



「シアク」



 言下に気恥ずかしさが込みあげる。

 赤色に染まった空気が紅潮した頬を隠してくれたので、目と鼻の先にいるサイトにも気付かれることはなったというのがせめてもの救いだろうか。



 呼んだのだからさっさと去って欲しい。



 視線逸らしに腕に嵌めた端末を見る朔夜だったが、どういうわけかシアクは一向にその場からいなくならなかった。朔夜はいぶかしんで顔をあげた。



「あー、あのさ、出来れば名前の方が嬉しいかも。親しくなれたって感じするし」



 言葉を濁らせたのち、サイトがつきつけてきたのは更にとんでもない要求だった。

 シンにも台詞にこそ違いがあるものの、似たようなことを云われた記憶が朔夜にはあった。


 名前で呼ばれるのがそれほど嬉しいことなのだろうか。


 ファミリーネームとファーストネームにそこまでの差があるとは思えなかったが、不思議なことにこの少年に対しては呼んでもいいかなという前向きな考えが出来た。



「サイ…ト……?」



 消え入りそうな声ながらもどうにか云うとサイトはそれでようやく満足したように頷いた。

 朔夜の肩をこぶしで強く叩くと、驚きに目を見開く彼に対し、またなと真っ白な歯を見せて笑った。



「負けんなよ、サクヤ!」

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