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「――何なんだよ…あいつ……」
朔夜が去り際に入れていった珈琲のカップを口元に持っていきながらシンは溜息を吐いた。
仲良くなれるかもしれないと思ってついてきたのにやはり無理なようだ。
家出同然でアスガードからナーサリーにやってきたシンはたとえ休暇であっても自宅に帰ることは出来ない。だから、朔夜の故郷に一緒に行くという話を彼自身から聞かされて、とても嬉しい気分になった。
なのに。
「何のために呼ばれたんだか……」
たちのぼる芳ばしい香りとともに鼻をかすめる白い気体が熱い。
シンは鼻の頭を指でこすると濃い褐色の液体に吐息を吹きかけた。
幾重にも波紋が描かれ、カップの縁に当たっては砕ける。|咽喉(のど)が渇いていたので入れてくれたのは嬉しかったが、熱すぎたため飲めそうもなかった。
他人の家を勝手に探索するわけにもいかず、熱い珈琲を冷ますことしかやることが見つからない。何か持ってくればよかった、とシンは浅い溜息をついた。
泥色の液体の表面が
何度目かの呼気を当てて出来たそれを見て、再び嘆息したシンの耳に聞きなれぬ音が響きわたった。びくりと肩を震わせ、反射的に玄関の方を見る。インターホンのようだ。
シンはきょろきょろと部屋の中を見回し、朔夜が戻ってくるのを待ったが、いくら待てど彼が現れる気配はない。その間にも、いるのはわかっている、と云わんばかりの勢いでベルは鳴り続けた。
「――出るか……」
重い腰をあげてシンは玄関の方へ走った。
朔夜を呼ぼうとも思ったが、そもそもどこにいるかわからないし、探しているうちに帰ってしまう可能性もあったのでこうするしか方法がなかったのだ。
自動式のガラス戸の脇に置いてある受信機で相手の顔と名前を確認する。が、当然のことながらわかるはずがなかった。
「ヒイロ・セイヴ・ネカー……」
スキャン結果のデータを見るに、危険物は所持していないようだった。
モニター上に表示されるプロフィールに朔夜と
年齢は二十。大分年上のようだ。
望というのは朔夜の兄弟だろうかと思いながら、シンは入り口のロックを外した。
この家の住人ではないが、一応迎えに出たほうが良いに違いないと玄関に行く。
ヒイロ・セイヴ・ネカーなる人物は彼を朔夜と間違えたようだ。
やってきたシンの肩をガッとつかむ。反射的に臨戦態勢を取ろうとした自らの腕を律するシンに、勢いよくこう云った。
「朔夜! ナーサリーに入ったって―――」
そこまで一気に云って青年ははっとする。
どうやら間違いに気付いたようだ。見る見るうちに表情が変わり、口調もしどろもどろになる。
明らかに違う人物なのに普通ここまで大胆に間違えるだろうか。
シンは青年の顔色と態度の変化具合を見ながら、不審感たっぷりの眼差しで来訪者を見遣った。出てよかったのだろうかと不安になりながら、ちろりと背後をうかがう。
しかし朔夜はどこかに消えたきり現れる気配はなかった。どこへ行ったんだと思いながら目線を元に戻すと、唐突に視線がぶつかった。
ガンと硬いものに額をぶつけたような気分になりながら慌てて視線を逸らす。そしてうつむきながらもごもごとつぶやいた。
「悪いな。家主は今、いないんだ」
シンはじろじろと見つめられ落ち着かない気分になった。もっときちんとした姿で出ればよかった、と腰をすっかり隠してしまうほど上着の裾を両手でつかみ、足元を見た。
歩きやすさを重視したため、足元を飾るのは小汚いワーキングブーツだ。現在は家出している芸術家志望の二番目の兄が、出ていく直前に誕生日祝いだと郵送してくれたもので、軍靴のようなデザインをしている。
そんなに汚れは目立たないな。
ほっとしながら顔をあげると目の前の青年はまだシンのことを見ていた。観察されるのは慣れているが、決して気分の良いものではない。
何が云いたいとばかりに眉根を寄せると、青年は慌てたように弁解し始めた。
「あ…えーと、違うんだ……てっきり朔夜が出てくるとばかり思ってたから…ちょっと驚いてさ……」
青年の言葉にシンは眉をひそめた。いくら家族がいないからといっても、友人の一人や二人出てくることもあるだろう。
「――朔夜、人見知り激しいだろ。だからあいつ以外の人間が出てくるとは思わなくてさ、悪かったよ。君、あいつの友達なんだろ?」
そう問われてシンは口ごもった。
頷きたいのは山々だが、朔夜はそんなふうには自分を見ていない。
ついこの間までは近付いただけで嫌な顔をされていたくらいだし、今だって突如としていなくなったきり帰ってこない。
やはり嫌われているようだ。
シンは朔夜の表情を思い起こしながら、自嘲するように口の端をあげた。
脳裏に浮かぶルームメイトの顔は全て嫌悪感に満ち満ちていて、笑顔だとかそういう類の表情はそこにない。
どういう関係なのかはよく分からないが、少なくとも友人という枠組みには入りそうになかった。
「俺はヒイロ・ネカー、君は?」
先の問いにも答えていないのに青年は続けざまに質問をしてきた。どうせ先程の問いには答えられないからとシンは前のものを無視し、今現在向けられている質問のみを答えることにした。
「……シン・ゼ――」
しかし最後までそれを云うことは出来なかった。名乗りきらないうちにシンは手首をつかまれ、後方に下げられた。
「朔!」
何をするんだと非難がましく名を呼んでみたものの、睨(ね)めつけられぐっと言葉を呑む。
「向こうに行ってろ」
有無も云わさぬ口調で云われ、シンは引き下がるほかなかった。
◇
「あの子、誰? すっげー可愛い」
すごすごと戻っていくシンの後ろ姿を背伸びするように見送り、ネカーは云った。
相変わらずむかつく奴だ。朔夜は望の悪友だった青年をきつく睨むと、疲れたように脇の壁にもたれかかった。
「紹介しろよ」
にやつきながら肘で小突いてくるネカーの顔はいつにもましていやらしい。
朔夜は不快感をあらわにしながらも黙って腕を組んだ。
「あんた趣味変わったの? あいつ、男だよ。ミカが来たら云いつけてやる」
「マジで?! 見えねー! ついに堅物の朔夜もそっちの道に?」
軽薄極まりない下卑た口調で云うとネカーはげらげらと笑い出した。
声も口調も話す内容も全てが癇に障る。
朔夜は壁に寄りかかりながら、ネカーの不必要に立たせた短髪に目をやった。本人は気に入ってやっているのだろうが、その髪型は破滅的に似合わなかった。
整髪料だろうか。異臭がする。
「――用があるんなら、とっとと云えよ」
臭いを散らそうと顔の前を手で扇ぎながら朔夜は心底迷惑そうな顔をした。
するとネカーはそこで初めて思い出したかのように手を打った。
「そうそう、お前、天下のナーサリーに入ったんだって? 俺もうびっくりしちゃってさあ、慌ててお前ん家に行ったんだ。でもすでにいないじゃん? だから帰ってきたら知らせが来るよう設定しておいたんだよ、律儀だろ」
「律儀? 言葉の使い方、間違ってるんじゃない?」
その台詞を云うためだけに人の家をずっと張っていたのか、何て暇な奴。
朔夜は顔を逸らして溜息をついた。
こんな人間と遊びたくてたまらなかった幼き日の自分が信じられない。寂しさとは全てを超越するものなのだろうか。
「何であんた、ナーサリーに入学したこと知ってんの? おれ、誰にも云った覚えないんだけど」
「あ? ああ。ミカから聞いた。なんか、ナーサリーの特待生受験の日にお前が出かけるの見たらしいんだわ。それでもしかしたら、とか云ってずっと気にしてたわけ。んで、二月にお前が突然いなくなったでしょ? 絶対入学したってあいつがまた云い切るわけよ。だから、じゃ帰ってきたら祝辞でも云ってやろうかなと思い、今にいたるわけ。どう分かった?」
「あんた、予測で人のこと待ってたわけ?」
馬鹿だ。
朔夜は白い目でネカーを見たが、彼はそれしきの視線ではゆらがなかった。
おかしくもないのにケラケラ笑いながら続きを口にする。
「憶測でも間違ってなかったんだからいいじゃん。それよりさっきの子は誰よ」
「男だって云ってるだろ」
「別に恋愛対象として見てるわけじゃありません。俺にはミカがいるし。しかし朔夜の友達って云ったらこれはまた別問題。兄貴分として弟分の友人はチェックしておかなければ」
整髪料でバリバリした髪をザッと撫で、ネカーはさも当然とばかりの口調で云い切った。
朔夜はその云い方も気に食わなかったが、何よりもシンを話題にされたことのほうが感情を荒立てるのには効果があった。
友人? 何を云っているのだ、こいつは。
戯言も大概にしろとばかりに口元を歪ませると、朔夜はギロリとネカーを睨んだ。
「もう帰ってくれない?」
その迷惑そうな口ぶりと顔にネカーは眉間に深い皺を刻んだ。
「何で? 今から甘いひとときを過ごそうとしてた?」
その一言は決定打だった。
理解をする前に頭が真っ白になり、続いて途方もないほどの怒りが湧きあがってくる。朔夜は怒りに身を任せて外をピッと指差した。
「出て行け」
その言葉にネカーは目を丸くした。
何故怒られなくてはならないのかと本気で感じている顔だ。
朔夜はその表情を見てますます苛立った。この空間からさっさと除去したくてネカーの背を強く押す。
「なんで怒んだよ! 俺は祝いのためにここに来たんだぞ。普通ありがとうとかそういう言葉の一つでも云うだろ。怒ることなんて今日云ってねーし、大体お前、何でそんなにすぐ切れんだよ。そんなんだから友達も増えねーんだろ」
「友達なんていらない」
「可愛くねーぞ、朔夜。そんなんだからサーヴァインからメールが来ないんだぜ」
そう云ったあと、ネカーはしまったという顔をして口を閉じた。
朔夜は幼馴染みの不審な様子に一瞬眉根を寄せた。
「そんな奴は知らない」
云いながらネカーを締め出す。はっとして足を入れようとしてくる青年を突き飛ばし、強引にドアを閉めた。
ネカーは何事かを叫びながら扉を叩いているようだったが、ヤーンスの建物は防音機能が発達しているため、詳しいことは何も聞き取れない。
どうせ碌でもないことを叫んでいるに決まっているのだ。近所迷惑な奴。
朔夜はネカーの叫びを黙殺するとその足でリビングに戻り、ヒイロ・セイヴ・ネカーの名を排除項目に入力した。
これでやってきたとしても門前払いを食らうだろう。
「ざまぁみろ」
小さくつぶやいてきびすを返す。
怒声に対し割と敏感に反応を見せるシンに、先程の声が聞こえていないかどうかが気になる点だったが、幸いにも気ついていないようだった。
防音性でよかったと溜息を漏らし、はっとする。
何故、おれがあいつの心配などしなくてはならない。
ちょっとでもシンの心配をした自分に、朔夜は吐きそうなくらいの嫌気を覚えた。人目がなければ脇の柱に額を打ちつけたいくらいの気色の悪さだ。
「朔?」
ドア前で百面相をする朔夜に不審を抱いたのか、シンが声をあげた。
両手に包み込むようにして持っていたカップを円卓の上に置いて寄ってくる。大きめの白い上着から伸びた細長い足が妙に艶かしくて、朔夜はまたしても動揺してしまった。
あの馬鹿が変なことを云うから。
「どうした? さっきの奴と何かあったのか?」
ミカという彼女がいるネカーが女と間違え、あまつさえ可愛いと評した顔が心配そうに見あげてくる。
朔夜は顔をついと逸らし、指差した。
「あんた、その恰好どうにかならないの? 女に見える」
「そうか?」
気がついていなかったのなら余計たちが悪い。朔夜が嘆息交じりに
癖のついた琥珀色の髪が天井の明かりに照らされてきらきらと光る。
「でも昔からこんなものだったぞ? 誰も何も云わなかったし」
「だってあんた男なんだろ? あんたが女装趣味持ちで家では常に女装してるっていうんでも別にいいけど、外ではそれ相応の恰好をしてくれ」
顔を背けながら朔夜はもう一度、今度は大仰に嘆息した。シンはそれにムッとしたらしく、眉間にくっきりとした皺を寄せた。
「違う」
「は?」
顔をあげると、シンはしかめつらしい顔をして立っていた。
何だよ、と眉を寄せるとシンは朔夜を睨むようにして見た。
「おれは男じゃない」
「何それ。あんた女だったの?」
「違う」
「じゃあその他に何があるって云うんだよ」
はっきりしないシンの言葉に苛立ったように返すと、少年はさらに顔を曇らせた。
唇を噛み、お前信じてないだろとつぶやく。
「は?」
「お前、おれが
絞り出すような声に朔夜はますますわけが分からなくなった。今の話と
シンは理解出来ないといったふうな顔つきをする朔夜に
「どういうことだよ」
アースリングという云い方は主に衛星連合が好んで使う地球人の呼び名である。シンがそれを使用したことに朔夜は顔を曇らせた。
「
「性別がないって、どういうことだよ。理解出来ない」
「生殖器官が存在しないんだ」
「……そういうセンシティブな話題を真顔で云うのもどうかと思うけど……。恥じらいとかないの、あんた……」
「話題を出したのはお前だろ」
「……まあいいよ。それで存在しないってどういうこと? それ病気とかじゃないの?」
朔夜は苛々したように目の前の卓に置かれた珈琲を口にした。
冷め切ったその液体は砂糖を入れていなかったため、想像以上に苦い。
思わず吐き出しそうになったものの、もちろん他人がいる前でそんなことは出来ない。
朔夜は目を白黒させながらもそれを表情に出さぬよう努めた。
「性染色体異常で起きる病じゃない。それに病気の場合は発現していないだけで性別はちゃんと分かれてる。
「……え、じゃあいつも健康診断どうやって切り抜けてんの?」
「病気で異常があると云っているに決まっているだろ。あの検査じゃ性染色体の有無までは調べられない」
希少生物についての知識を吐露するような口調でシンは語った。
図鑑の中の説明書きを呼んでいるようなよどみないそれに、最初朔夜は大人しく聞いていたのだが、途中ではっと我に返り慌てて待ったをかけた。
「何だ?」
シンは話の腰を折られたせいか、不服そうな顔をした。
「すぐバレるような嘘をつくのはどうかと思う。
「体外受精に決まってる。皮膚からだって卵子は作れるんだぞ」
シンの答えを聞きながら、自分たちはいったい何を話しているんだろうかと遠いところで思った。訊いておいて何だが、今更ながら羞恥心が込み上げてくる。
朔夜は納得したことにした。
「……じゃあそういうことにしておく。でもあんた前、
「性染色体や生体反応については父が知っていた。おれが生まれる前に調べたか、母から訊いたのかはわからないが。そのほかのことは夢で見た」
「夢? 云ってる意味わかんないし。説明したいなら、もっと分かりやすいように云ってくれない?」
「云っても信じないぞ」
シンはにこりと笑ってみせた。余裕すら感じられるその表情に朔夜は何だか馬鹿にされたような気分になってむっとする。
「云えよ」
天井から注ぐ光がシンの髪にリングをかける。くせが強い割に光沢があるその髪をうなじから掻きあげ、シンは最早温もりなど存在しないまでに冷め切った珈琲を口に含んだ。
「本能ってあるだろ。経験や学習を踏まえなくてもその状況になれば連鎖的に反応する行動様式。それが一番近いと思う。本能行動する生物は普通教えられなくても出来たり、わかったりする。そんな感じのものを夢で見るんだ」
それは思春期特有の過剰な自己愛が発露した結果の妄想ではないのか。
朔夜はそう思ったが、口には出さなかった。
映像は違えど、朔夜も夢を見るのだ。桜の枝が落下してきた一件以来、見ることは出来なくなっていたが、それまでは毎晩のように夢を見ていた。
ゆえはどうしているだろう。
朔夜は無人の街にたった一人残された少女を想った。
青い
ゆえがいなければ今の自分は確実になかった。
ひきこもりの途中で死んでいたかもしれないし、世の中に出ようとも思わず今もなお非生産的な行動を続けていたか、どちらか一つだ。
ゆえの存在は悲しみのあまりに作りあげた自身の幻想という可能性もあったが、それでも朔夜は彼女を忘れることが出来なかった。
たとえその存在が幻想だとしても何かにすがりたいという気持ちが捨てられなかったのだ。それが甘えと云われようとも、幼くして天涯孤独の身となった朔夜には手放すことなど出来ない大切なものだった。
こいつにも似たような思いがあるのかもしれない
朔夜は火星について嬉しそうに語る少年を見て、親近感にも似た情動がわきおこるのを感じた。
他人に対してそんな感情を抱くなんてこれまでだったら考えられないことだったが、不思議なことに怒りや苛立ちを覚えることはない。
もしかして心を許し始めているのだろうか。
朔夜はちろりと少年を盗み見て、ぞっとしたように体を震わせた。
シンはそれに敏感に反応し、寒いのか、などと訊いてくる。
「……あ、まあ……。……そういえば、あんた腹すかないの?」
曖昧に返しながら朔夜は強制的に話題の向きを変えた。
これ以上聞くと引き返しが利かなくなるような気がしたのだ。
早くこいつとの縁を切らなければ。
朔夜は苦味しかない珈琲を一気に飲み干すと、シンに何か頼もうと盛んに働きかけた。
シンは不審感たっぷりの表情で朔夜を見たのち、何かを考えるように黙り込み、顔をあげてにっこり笑った。
「ラーメンがいい」
その庶民的過ぎる食べ物と唐突さが何やら恐ろしい。
朔夜は本当にラーメンが好きなんだと云うシンを疑心に満ちたまなざしで見ながら、注文した。
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