第四章 星に願いを
1
「ヤーンスまではあとどれくらい?」
エアロタクシーの窓辺から外を覗いていたシンの目がこちらを向く。
「一時間」
朔夜は視線を避けるようにふいと横を向き、そっけなく答えた。
すぐ脇にある窓は外の闇で真っ黒に染められている。
無人タクシーの中に設置されたナビゲーションシステムを見ないと、今どこにいるのかわからないほどの暗闇だ。
時折かなり遠くの方の中空で見え隠れする車のヘッドライトと山の陰からかろうじて見えるほどの街の夜景、そして煙のように窓の外をかすめていく雲が窓から見える景色の全てだった。
しかしもともと朔夜は風景などに興味はなかったので、別段困ることはなかった。朔夜が困っているのはまた別のことだった。
やはり連れてこなければよかったかもしれない。
朔夜は重々しく溜息をつくと、隣で窓の外を見ながらはしゃいでいる少年を忌々しげに見た。
そして後悔という名の感情で膨れあがった脳内を諌めるように心の中で仕方がなかったのだと連呼した。
朔夜がシンとともに帰省するはめになった理由、それは五ヵ月前に夢の中の少女が放った不穏な言葉に端を発していた。
―――でもいなくなればいいって思ったこともあるんだよね
それは夢であると云い切ってしまえば特に何の弊害もない言葉だった。平素とは異なるゆえの態度に不審を覚えた朔夜もそれ以上は何も思わなかった。
しかしそのころからシンの周りで物が落ちたり、ガラスが割れたりという、一歩間違えば死にいたるような事件が頻繁に起きるようになったのだ。
偶然と云ってしまえばそれまでなのだが、かつて朔夜はシンのことをこの世から消えてしまえばいいと思った後ろ暗い前科があった。思い当たる節がある以上、あとでシンが死んだことで自分が感じるだろう心痛を考えると黙殺するわけにもいかなかったのだ。
さらに悪いことには、シンの事件は何故か朔夜がそばにいると全くと云っていいほど起きない。そのため朔夜はシンのそばに始終いるはめになり、そのストレスから人生がかかった試験は目も当てられないくらい散々な結果に終わった。
そして今日から始まる試験休み一週間。朔夜は友人ですらない疫病神と過ごさねばならない。
別に過ごさなくてもよかったのだが、帰ってきたらルームメイトが息絶えていたという状況には遭遇したくなかったのだ。
二十四かける六で百四十四。
百四十四時間。
朔夜は頭の中でシンと過ごす時間を計算して、しばし気が遠くなった。胃潰瘍か神経症で入院することを念頭に入れなければならない。
「やっぱり……嫌なんだろ?」
うだうだと考えを巡らす朔夜にシンはポツリと云った。
窓辺から顔を離し、自分を見つめる少年の方に目を向ける。
朔夜はシンの問いかけにはっきりそうだと云ってしまいたかったのだが、悲しいかな今の彼にそんな言葉を発する資格はない。何しろ、自宅に連れて行かなければならない理由を作ったのは他ならぬ朔夜自身なのだ。
朔夜は腸が煮えくりかえりそうになるのをかろうじて残っていた精神力で抑えると、努めて平静な声で返した。
「別に」
にべもしゃしゃりもない朔夜の答えにシンはちょっと眉をひそめる。
だがすぐに朔夜に人並の答えを求める方が間違いなのだと気ついたらしい。切っていないがために伸びてしまった金色の髪を襟足から掻きあげて、窓に頭を預けるとそのまま目を閉じてしまった。
それまでの問答を忘れたかのような態度。朔夜はむかつきでこわばりそうになる顔をさすりながら、狸寝入りを始めたシンをにらんだ。
髪と同じ色をした琥珀色の睫毛がエアロタクシーのゆるい振動で微かに震えている。目を閉じるとシンの顔は普段よりさらに中性的に見えた。母親であるシャナ・ローランにどことなく似た顔。
朔夜は千年の奇跡と謳われた女性の顔を想起して、同時にシンの発言を思い出した。
―――母が…そうなんだ
シンのその言葉は彼女が
暗澹の五百年中期、地球が派遣した調査研究員たちを有無を云わさず惨殺したと伝えられるかの民族は、地球軍の報復攻撃の前に敢えなく全滅した。
彼らが何故調査員たちを殺したのか、その理由は何もわかっていない。
わかっているのはこの事件唯一の生き残りタスク・シハ・ザーレが衛星連合に投降したこと。
地球が火星を敵と見做すようになったのはそのときの事件がきっかけだったこと。
そしてその事件から火星軌道とその周辺一千万キロメートルは二国の不可侵領域に指定されたということだけだ。
タイタンを主とする木星軌道以外の衛星連合はこのときの攻撃にいまだ憤りを禁じえず、それが今日の反地球体制の基礎を築きあげている。
問題はその衛星連合から地球を守る軍最高位にいる男の妻が
暗澹時代に全滅した種族が何故地球にいるのか、不明な点も多いが、
このことが真実だとすれば、朔夜は政府さえも裏で牛耳る地球の支配者、ライザー財閥のアキレス腱をつかんだことになる。
もしこのことを知っていることがばれでもすれば、最早死という言葉でさえ遠い存在ではなくなるだろう。
朔夜は早くも微睡みかけている自己申告
本当に関わりあいになんてならなければよかった。
◇
朔夜の故郷ヤーンスは、首都アスガードを抱く中央大陸の極東に位置する街である。
暗澹の五百年末期に活躍した建築家アルフレッド・ヤーンスの名を冠したこの街は、彼が理想とした未来都市の形をとっている。
人口約六百万のこの街は、暗澹の五百年建立の百超ある新興都市の一つで、二千年前の遺跡が数多く残っていることで知られている。
特に神が建立したとされる十二の塔の一つが近くにあり、樹海で阻まれてはいたが観光地として街の税収を支えていた。
黒く塗りたくったような深淵が立ちこめる窓からはその様子を見て取ることは叶わなかったが、朔夜はそこにあるべき情景を容易に思い浮かべることが出来た。
強い磁場が蔓延する樹海に、その奥に埋もれるようにして立ち並ぶ巨塔のごときビル群。
森と街の間に広がるゆるやかな丘陵地帯。そこに咲く色とりどりの花や植物たち。
朔夜は漆黒の水底に沈んだ街を見下ろしながら、今が夜でよかったと痛切に感じた。
昼間であったら今想像したものと同じ景色が目に飛び込んでくるからだ。そうしたらきっと平静ではいられない。無視出来るほど家族のことを忘れたわけではないし、それに見てしまったらますます忘れられなくなる。
朔夜は虚ろな目をして窓を覗くガラスの中の自分に、はっとして視線を逸らした。
街の側にやってきたからなのか、窓の外にはそれまでなかったホバー機能付きの球形電灯が浮かんでいる。
一定間隔ごとに闇夜に浮かぶそれは空に道を描き、街へと車を誘導するように眼下の都市へと伸びていた。
タクシーは電灯の脇に沿うようにして進み、じょじょに高度を下げていく。
青、緑、オレンジ、白。闇夜に広がる街明かり。それらの光は辺りが真っ暗なせいか、とてもまぶしかった。
近付くごとにその明かりは大きさと鮮明さをともなっていく。朱に近い色合いの光を発しながら街の上空を移動する浮遊車の群れ、郊外に集中したビルが放つ青と白の細かい明かり、中心付近に密集する民家から漏れる優しい黄色の光。
それら明かりの集合体は闇の中に円を描き、藍色の深淵をさらに際立たせていた。街が近付くにつれて窓辺は明々と輝き、車内は反対に暗さを増す。
朔夜は顔を二色に染めながら、ゆっくりと近ついてくる光のクレーターをじっと見ていた。
「着いたぞ」
スースーと寝息を立てて眠る少年に揺さぶりをかけると、朔夜はタクシーの中央部分に突き出た卓状の挿入部に学生証スティックを差し込んだ。かちゃりと音を立てて開いた扉から寝ぼけ眼の少年を連れ出す。
「悪い……朔……」
そんなことを云える気力があるんだったら自分の荷物くらい持ってくれ。
朔夜は目尻をこすりながらふらふらと歩くシンに目を遣り、苦虫を噛み潰したような顔をした。
ナーサリーに入学以降初めての試験が終わって、サテライトAを出たときには標準時間でまだ正午前だったはずなのに、現在二人の頭上を覆う空は濃紺一色である。吐く息は白く、満天の星に彩られた空が一時だけ霞む。
朔夜はシャトル発着場がある軍本部周辺の気候との差に思わず身を震わせたが、それと同時に帰ってきたという気分になった。
シンの自走トランクに指示を出し、約八ヵ月ぶりとなる自宅の敷石を踏む。
シンはそのあとから追ってきた。
朔夜が開けた鉄製の門が自動で閉まるのを物珍しそうに眺めている。寒さで眠気が覚めたらしく、先程まで伏せがちだった目はパッチリと見開いている。
「助かった」
指示を出し直し、トランクが自分の後ろについてくるのを確認すると、シンはやおら微笑んだ。
進むたびにともる、外灯の明かりに照らされて敷石の周りに植わった椿が浮かびあがる。
手入れをする人間がいなくなった今でも元気よく咲き誇る赤い花を見て、朔夜は柄にもなく感心した。
「へえ珍しい。今はこういうシステムハウスってなかなかないぞ。すごいな」
ユニオン本部より巨大と謳われるライザー本邸に住んでいたであろう人間が云うといやみにしか聞こえない。朔夜は目を
人の存在を感知して広間の電灯がパッとともる。鉄枠のガラス戸をくぐった先に広がるリビングを見て、朔夜は寒気にも似た酷い違和感を覚えた。
帰ってきたというのにこの感じは何だ?
朔夜は不安を解消しようとするかのように辺りを見回した。
二本の巨大な円柱から始まる円筒状をなした吹き抜けの居間にそれ自体が明かりとなっている丸天井、壁伝いを這うようにして架かる階段にその階段を支えるように伸びた鉄製の細い柱。
リビングの様子は八ヵ月前と比べて何も変わっていない。
では何故?
その理由はすぐに明らかになった。朔夜は室内のあまりの変化のなさに、家族が生きていたときのことを重ねていたのだ。
―――お帰り、朔夜
リビングの奥のキッチンから後ろで髪をひとくくりにした母親が顔を出す。手についた水をエプロンで丁寧に拭き取り、にこりと微笑むその姿に朔夜は泣きたいような気分になった。
母さん。
―――どうしたの?
優しげに目を細め、小首をかしげる母親に朔夜は顔をゆがめた。
視界が滲むとともに母親の影も揺らいで消える。
朔夜は脳裏から映像を消去しようとするかのように幾度となく目をこすり、ぼやけた画面が元に戻る前に歩きはじめた。
「お前の家、すごいな。このシステムハウスって暗澹後期のものだろ。このメインコンピュータだけでものすごい値打ちものだぞ」
まだ嫌みを云う気か。朔夜は目元をひきつらせつつ、ななめ前の空間を指差した。
「その辺に適当に座って。それとヤーンスはフラグメント時代にイメージされてた未来型モデルっていうコンセプトで設計された街だから、どの家もこんなもの」
ナーサリーに行く前に片付けておいて本当に良かった。シンの質問のほとんどを無視し、朔夜はわずかにくすんだ床を眺め回した。
現在物は全く置かれていなかったが、ひきこもり時代には衣類で埋めつくされていた。
家には備えてあるハウスキーパーマシンがあるはずなのだが、母は緊急時以外のシステムを常時オフにしていたため自動では片付かなかったのだ。
朔夜はシンの顔を見ずに荷物は床にでも置いておけと指示すると、そのままキッチンへ向かった。
どこに何が入っているのかいまだにわからないキッチンから電熱シートと湯沸しを持ってリビングへ戻る。
シンは床を一段切り下げた円形のダイニングで脱いだコートを折りたたんでいる最中だった。朔夜の姿を認め、安堵したように笑う。
「あんた、食いたいもの、何かある?」
云いながら円卓中央の盤に持ってきたシートを敷き、ポットを置く。その様子を向かいに座るシンがそれをしげしげとながめてきた。
骨董品だとでも思っているのだろうか。
「あるもので構わない」
「何もないから訊いてる」
肩をすくめて返すとシンはテーブルに肘をついて考え込むような仕草を見せた。
大きく開いた襟ぐりから覗く鎖骨が妙に艶かしい。同性だとは思えぬその華奢な体つきにうろたえ、朔夜はつと目を逸らした。
「どうしたんだ?」
ポットがしゅんしゅんと音を立てる。陽炎のように揺らめく気体の向こうで小首をかしげるシンを見て、朔夜は頬が熱くなるのを感じた。
「なんでもない……ちょっと…」
脱いだコートを
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