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その声を聞くと夕暮れでもないのに、黄昏の寂しげな一瞬が思い出される。
きゅっと痛んだ胸を押さえると、一面ガラス張りのリビングから庭へ出た。
庭はさして広くなかったが、季節ごとに色とりどりの花を咲かせる花壇や、実をつける低木が植えられた小綺麗な園だった。
晩夏とはいえ陽はまだ強く、ぎらぎらした光に当てられた皮膚が早くも汗を滲ませるのを感じた。額にはりついた髪を指で掻き、きょろきょろと辺りを見回す。
リビングのウォールウィンドウを開けると、庭の草取りをしている自走機械がいた。
邪魔をしないよう避けながら庭の端に回ると、サンルームで家族分のシーツが揺れているのが見えた。
光を反射するまばゆい白。
その後ろで灰色がかった淡青色(みずいろ)の影が動くのを見て、ぱあっと顔をほころばせた。
母さん。
小さく呼んで駆けていくと、シーツの影から母親が顔を出した。
ほつれた髪を指の甲で掻き、顔をあげる。
母親はこちらの姿を認めるなり笑顔になった。
どうしたの、朔夜。
体当たりでもするように飛びついた仕事着からは石鹸の香りがした。
ぽかぽかと温かくてふんわりとした太陽の香り。干したてのシーツの匂いだ。
鼻の頭をそれにこすりつけるようにすると、どうしたの、と笑うような声が降りてきた。
透明な光の玉がぱちんぱちんとはじける。音楽のようなその響きにくすくすと笑った。
どうして笑っているの?
温かな匂いがする掌が額をふわりと撫ぜる。具合が悪いときにはいつも触れていてくれていた手だ。陽だまりと石鹸のいい香りが体の中にゆるゆると溶けていく。
嬉しくてたまらないというように母親に抱きついていたが、ふと温かな香りの中にそうでない匂いが混じったのに気がついて顔をあげた。そしてひゅっと息を飲んだ。
朔夜?
母親は抱きしめる手はそのまま、首をかしげて見下ろす。しかしその顔は溶けかけたアイスのように頭部の形を成していなかった。
驚いて離れようとしたが、腕が張りつきでもしたかのように抜けない。
どうしたの?
ぶすぶすと音を立てて頭部が溶けていく。母親は自分の頭が半分なくなっていることに気がつかないのか、先程と同じ調子で声をかけた。
溶けた頭の一部がどろりと垂れて自分の顔や腕にべちゃべちゃとつく。酷い血の臭いがした。
どうしたの?どうしたの?どうしたの?
「―――!!」
夢の中であげた声はそのまま、現実世界の声になった。
朔夜は肩で何度か息をして呼吸が落ち着くのを待つと、おもむろにベッドから降りた。
枕元に浮かぶ時計は午前二時を指している。充分な睡眠をとるには時間が足りないし、かといって朝練まで起き続けているのにも長過ぎる、中途半端な時間だった。
朔夜は大きく溜息を吐くと、よろよろと洗面所へ向かった。
ここ最近、夢見が悪く、朔夜は毎晩のように目が覚めていた。その全てが体の一部が溶けた人間に襲われるという夢で、同時に吐き気をもよおすくらいに強い血の臭いがした。
先日起きた発作を皮切りに突然見始めたこの夢は、それまで見ていた青い街を食い潰すように生まれた。
ゆえがいない夜の世界。それは両親が死んで以来、初めての経験だった。
突如として見なくなった不安から悪夢を見るようになったのかもしれない。朔夜はそう思うことにしていたが、同時にまた別の不安を感じていた。
その不安はシンの頭上目がけて太い枝が落ちてきた事件からずっと引きずっているもので、その後彼が危うい目に遭うたびに、朔夜の神経を波立たせた。
「ゆえ……」
朔夜のつぶやきはしんと静まり返った共用部の廊下に染み入るように溶けていった。
思いのほか大きかった声に、ちょっとだけ首をすくめる。
洗面所でざあざあと流れる水に手を浸して顔を洗いながら、朔夜は最後にゆえと話した日の言葉を思い起こしていた。
―――でもいなくなればいいと思ったこともあるんだよね
あれは一体どういうことだろう。
夢だ夢だと思いつつも朔夜はどうしても本気で夢だと思うことが出来ないでいた。
あまりにもリアルな夢だからだろうか。それとも夢だということを心のどこかで信じたくないと思っているからだろうか。
理由はいくら考えてもわからない。それでも二つだけ云えることがあった。
ゆえがその言葉を口にしてからシンへの事故が相次いだこと。四年前からほぼ連日連夜見ていた夢が、事故が始まってからぱったりと見なくなったということだ。
その二つに関連があるのかどうかはわからなかったが、無関係と断定するには些かタイミングが良過ぎた。
やはりゆえが関係しているのだろうか。
朔夜は両手に浸した水を顔に浴びせかけ、目をつむったまま使い捨ての吸水シートを手に取った。
シートは水分に反応してじょじょに溶解していく。溶けていくシート向こうの景色をながめながら、朔夜は大きく息を吐き出した。
もしもゆえの仕業なのだとしたら、そのきっかけを作った自分にも責任がある。
けれども問題は本当にゆえが行ったことなのかということだ。
どんなにリアルな世界に住んでいたとしてもゆえは所詮、夢の中の住人だ。
想像の産物に過ぎない彼女が現実世界にやってこられるはずなどないし、第一アクセスする方法がない。
シンを狙う意図も不明だし、こんなことを大真面目に考える方もどうかしている。
馬鹿馬鹿しい。
朔夜は二枚目のシートを乱暴にボックスから引き出すと、いまだ水滴が残る顔をぬぐった。くしゃりと握り潰した紙は掌の内に質感を残したまま、知覚出来なくなる。
毎度毎度のことながら不思議な感覚だ。
これまで使っていたものが消えるという奇妙な現象になかば感心しながら、部屋に戻ろうと顔をあげた朔夜は、そこから動けなくなった。
「あ……」
鏡に映っているはずの自分の姿がない。
その代わりとでもいうようにそこに映っているのは自分と同じ顔の幼い少年だった。夢の世界でゆえと会っているときの自分と同じ姿をした小さな子供。
「
朔夜は震える声で子供の名を口にした。
恐怖が足や手の先を凍らせる。それ以上の声をあげようにも、朔夜の
―――朔
子供は朔夜の顔をじっと見据えたまま、暗い鏡の中から手を伸ばした。望の手が触れたところから鏡に重たげな波紋が広がり、一面が大きく波打つ。どぷんと音がしてぬらぬらとした銀色の波紋の中心から小さな手が現れた。
怖い。
朔夜の足はあまりの恐怖のため、使い物にならなかった。がくがくと大袈裟に震え、震えたすえに勝手に折れた。がくりと視界が大きく揺らぎ、冷めた床に尻が着く。
「あ…あ……」
朔夜はか細い叫び声をあげると、少しでもその手から逃げようと後退した。
しかしすぐ後ろは壁で、それ以上逃げることが出来ない。背後の壁に体を押しつけたまま、朔夜は震える眼差しで鏡の中から出てくる腕を見上げた。
鏡の中から覗く腕は朔夜を探すように左右に動く。
そしてしゃがみこんだまま動けなくなっている朔夜を見つけて手を止めた。
五本の指が昆虫の
幻覚だというのは分かっているはずなのに怖くて怖くてどうしようもなかった。
発狂しそうなほどの恐怖が物凄い圧迫感をともなって体の周りを覆う。
夢なのか、現実なのか。朔夜にはすでにそれを判断出来る力はなかった。
―――朔
ぎゅるりと変な音がして鏡の中から肩先と顔が現れた。望の顔は鏡の向こうに見えていたときと違って、何かに濡れていた。虚ろな眼差しがこちらを凝視する。
―――どうして
濡れていた部分の顔がどろどろと溶け始める。泥のような黒い何かがぼとぼとと洗面所に落ち、白かったそこをあっという間に汚した。
頭部はほとんどその黒い何かで覆われていて、かろうじて侵食を免れている右目だけがぎょろぎょろと輝いていた。
―――どうして僕を置いていったの?
言下に朔夜の脳裏は青く染まった。
その青を下敷きに、細切れの映像が次々と現れる。
眼前を覆う沢山の黒い木々。青銀に輝く朽ちかけた塔。ぼろぼろの階段。薄闇色の瓦礫。荒廃した街。
深い紺色に染まった夜空には目がおかしくなりそうなほどの大量の星がまたたいている。そして中天には月が貼りつけられていた。異様なまでに巨大な月。
冷たい金色の光を放ち、下界を
「う…あ…あ……」
朔夜は叫び声をあげて、前屈みに倒れ込んだ。
眩暈がするほど激しい頭痛が幾度となくこめかみを貫く。
知らないはずなのに知っている、既視感をともなった恐怖。体にまといつくそれをどうすればいいかわからず、朔夜はパニックに陥った。
不安が内部で黒い荒波を立て、皮膚の穴に針を突き刺すような鋭い圧迫感が外から体を押し潰す。朔夜は頭を抱え込んだまま、体をまるめるように洗面所の下で震えていた。
怖い。
意味も分からないのにただ怖い。意識ははちきれてしまうくらいにぴんと張りつめ、その緊張感から満足に呼吸をすることも出来なかった。突き落とされる寸前に味わうような凍りついた恐怖。
怖い。
頭を抱えた両手に力を入れ、ぎゅっと身を硬くしたそのとき、何か暖かいものがふわりと体を包み込んだ。
熱いわけではない、
じょじょに軽くなっていく体。恐怖も陽にあてられた雪のようにたちまち溶解した。
―――朔夜
クリームがかった白い光の中で誰かが呼んでいる。その声は冷え切っていた体の奥底を温かい感情で満たし、青に染まっていた脳裏を白に塗り替えた。
―――ずっと一緒だよ
光が弾け、体も意識も全てが飲み込まれる。
優しい匂いのする柔らかな光。
その光は頻繁に熱を出していた幼いころ、母親が額に乗せた掌と同じ感じがした。訳もないのに泣きたくなるような優しさと心地よさ。
朔夜は光の中に溢れるその感覚に後押しされるようにゆっくりと目を開けた。
光が透明感を増し、じょじょに青白い色彩を帯びていく。それまで目をつむっているという意識は全くなかったにもかかわらず、それを特に変だとは思わなかった。
「――朔……?」
霞で覆われた視界の中に金色の髪の少年がいる。
朔夜はそれを認識するや否や、がばりと跳ね起きた。
状況も把握出来ていないうちから急いで少年と距離を取り、洗面所の端へと逃げる。
記憶はあとから明確になっていき、朔夜は天敵であるはずの少年に抱きしめられていたことを思い出した。またたく間に顔面が火のように熱くなり、あわてて顔を両の手で覆う。
「朔……」
シンは自分の腕から脱兎のごとく逃げ出した朔夜の姿を見て、困ったような顔をした。
それから少しだけ悲しそうな表情で
「待てよ」
声をかけたのは何となくだった。だからシンがいぶかしげな顔をして振り返ったとき、朔夜は戸惑った。
こういうとき、何と云ったらいいのだろう。構うなと突っぱねるか、それともありがとうと礼を云うか。
しかし礼を云うにしても一体何に対して謝辞を述べればいいのかがわからなかった。
呼び止めたわりに何も云い出さない朔夜にシンは眉をひそめた。
「朔?」
声をかけられても朔夜は口をぱくぱくと動かすだけで何も云わなかった。そして軽いパニックになった挙句、口から飛び出してきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「あんた、一体、何?」
朔夜は心の中が白くなるのを感じた。
云いたいことはこんなことじゃないのに、と考えながらも今更謝ることは出来ないと思い、裏を読まれないために強めの口調で続ける。
「今のは……? 今のは何なんだよ…」
もう部屋に戻ってくれ。
シンをこの空間から早く追い出したくて、朔夜は語気荒くまくし立てた。
それは結局図書館の前で放った暴言と同じ種のものになってしまって、朔夜の心痛は余計増した。
理不尽な怒りであることは前回同様わかっていたから、顔も直視出来ない。
云いたいことだけ云ってしまうと後が続かなくなって、朔夜はその場に立ち往生していた。
ショックを受けてでも何でもいいから早くいなくなってくれ。
朔夜は洗面所の床を凝視したまま、視界の真上にぎりぎり見えるシンの足がなくなってくれることを祈った。しかし事態はそう上手くは運ばず、シンはなかなかいなくならなかった。
緊迫した空気が肌をびりびりと刺す。
そして
「朔……」
その声は何かを決意したようないつもより強めの声だった。
朔夜はびくんと体を震わせると、恐る恐る顔をあげた。
天井から降り注ぐ黄色がかった人工灯の明かりがシンの姿を浮き彫りにする。
制服ではないその姿に何故かどきりとしていると、シンは首をかしげるふうにしてから眉根を寄せた。
「来てくれ」
それは有無を云わさぬ口調だった。朔夜は口を開きながらも結局閉じた。
浴室の扉を映し込んだ鏡はその姿をはっきりととらえている。朔夜はシンの部屋に入る直前に一瞬だけ鏡の方を見た。
先程とは違い、そこには見慣れた自身の姿が映されている。波紋を描くことも、そこに映っている人物が出てくるような気配もない。
朔夜はほっとしながらもどこか薄ら寒い気分を味わいながら、足早に洗面所を通り過ぎた。
自分が去ったあとに鏡の中からまた
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