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「おはよう、朔」



 朔夜は背後から響いた声に思わず振り返り、即座に後悔した。誰であるかはその馬鹿みたいに明るい声音を聞けばすぐにわかったはずなのに、何故ふりかえったりしたのだろう。

 朔夜は激しい後悔の念にさいなまれながら、小柄な少年を見下ろした。



 シン・ゼン。



 琥珀色のざんばら髪に輝く金の目が印象的な彼は、少女と見紛うばかりのその美貌もさることながら、有名過ぎる苗字で生徒たちの度肝を抜いた。


 年端もいかぬ幼い子供まで知っている地球最大のコングロマリット、アースグループ。ユニオンの牛耳を執り、地球の影の支配者とまで云われる血族、それがライザーだった。

 アースはベリドゥール、グラウ、キラハ、ゼンの四家によって成り立っており、ライザーの姓はグループ総帥直系の三等親以内のみが名乗ることができる。

 現在の総帥はゼン家のルカイヤ。彼女の長男ヨーウィスの第四子がシンだった。


 何年間も引きこもり生活を送っていた朔夜ですらライザーという姓がどれだけ特別なものなのかを知っていた。

 八十六名の生徒の中で最も生活を侵害してくるであろう忌々しい相手が地球一の大企業の御曹司。

 彼と親しくなりたい人間が大挙して部屋に押しかけてくるであろうことを想像するだけで朔夜の気は重くなった。


 シンのことを考えると、はかったようにあの入寮初日の出来事が脳裏をよぎる。記憶しているというその事実だけではらわたが煮えくり返りそうになる。朔夜はあまりの忌々しさに唇を噛み締めた。




 ナーサリーの寮部屋構造はどの部屋も基本的には同じで、中央に浴室、洗面といった共用スペースがあり、そこから二、ないし三の個室に分かれている。

 入寮初日には部屋の取り決めをするため、ルームメイトと連れ立って入るという規則がある。

 部屋の大きさは同じだったが、はじめの取り決めによって互いの性格を知るという意図が込められている。

 そのため、初日は遅刻厳禁とされていた。だが朔夜は遅刻した。

 幼い頃から悩まされ続けていた喘息の薬を自宅に忘れたのが原因だった。



 朔夜の故郷ヤーンスは、サテライトA直通のスペースシャトルが出ている軍本部のほぼ裏にある辺境の街である。

 些細な忘れは長大な遅刻へと転じ、朔夜は集合時間からニ時間も遅れて受付を済ませた。


 サテライトAの第九エリアはナーサリーのためにまるまるあてがわれている。

 トレーニング場もかねた暗澹の五百年屈指のボタニカルガーデンの一角に寮はあった。


 庭園面積を確保するため立地面積をぎりぎりまで削った結果、二十三階建てとなったかつての研究兼観光のための棟。それをそのまま利用した寮の十八階の一室が新たな朔夜の家だった。


 かつての研究施設をリメイクした寮はエレベーターを中心にドーナツ型をしている。

 白と銀のみの無味乾燥なデザインの内装と一定間隔で立ち並ぶ同じ形状がドアのせいで朔夜はどこが自分の部屋なのかさっぱりわからなかった。確認の手立ては扉の脇に申し訳程度にかけられたネームプレートのみ。

 天井から注ぐ人工灯の光を反射して、見えづらいネームプレートを凝視しながら、自室を探して歩いていると、カーブを曲がった向こうに人影があった。それがシン・ライザーだった。



 やや大きめのトランクの上に座り、所在なげに足をぶらつかせる彼を、朔夜は最初女の子だと思っていた。

 濃いピジョンブラッドのベレー帽と、それに合わせた同色のベストとパンツ。雪のように真っ白なスプリングマントが身じろぎするたびにゆらゆらと揺れ、合間から黒光りするロングブーツが見え隠れする。


 何か感じたように顔をあげたシンの、猫のように大きな金の双眸は今もはっきりと覚えている。

 そしてそのまっすぐな視線に云いようのない不安を覚えたことも。




 シンとの出会いの記憶はそれきりで、確か一言二言話したような気がするものの、何も覚えていない。覚えているのは一瞬でも少女だと思っていた少年に目を奪われたことと、それが大層気に障ったことくらいだった。

 今も、よく出来た人形のようと評されるその姿を見るたびに、朔夜の心の中はざわざわと波立ち始める。


 近付かないで欲しい、話しかけないで欲しい。


 ぐちゃぐちゃとした感情の塊がこれまで平静としていた体の内側を這い上がり、泥みたいな質感をともなって咽喉の奥を掻き回す。

 

 それは吐き気がするくらい気持ちの悪い感触で、朔夜はそんなふうな感情を抱かせるシンが大嫌いだった。彼が自分の至近にいる。そのことだけで苛立ちが収まらない。



 朔夜はこれ以上シンの気配を感じることすら耐えられなくて、エントランスの自動ドアを足早にくぐった。



「朔!」



 外に出ると、暖かな春風がふわりと頬を掠めた。まだどこか冷たい、曖昧な質感のそれはサテライトの自動温度管理システムが算出した四月の平均気温だ。このエリアにある植物相フロラに合わせ、気温もそれに準じている。

 朔夜の故郷ヤーンスは北よりの地にあるため、四月はまだ寒い。そのせいか不思議な気分になった。



「朔! 待てよ! 待てってば!」



 天井のスクリーンが演出するスカイブルーの空はからりと晴れ渡っていて、朝日を模した人工太陽が鈍くきらめいている。空気ダクトから流れ込む風とそれに巻かれて花びらがはらはらと降る。

 

 朔夜は漆黒の制服にはりついた花びらを邪険に振り払うと、わずかでもシンと距離をとろうと、足早に歩き続けた。



「待てと云っているだろ!」



 ばたばたと音を立ててシンが走ってくる。

 寮塔りょうとうからのびた石畳の上をあますところなくおおった花弁が、風にまかれてふわりと舞いあがった。

 ほのかに桃色に染まるそれをじりりと踏みにじり朔夜は振り返った。



「ようやく追いついた」



 息ひとつ乱さずににこりと笑う少年に、朔夜は思わず眉根を寄せた。



「何か用?」



 シンの足下から黒ずんだ灰色の敷石の存在が明らかになる。

 こすれた花びらから出た細胞液で濡れたのか、石は艶やかに光っていた。しかしそれは上から降り注いできた花びらによってすぐさまおおわれた。

 絶えることなく零れ落ちる桃色の雪。それは生徒たちの上に、石畳の上に、そしてその周りを囲む新緑の草原の上に舞いおりた。


 シンは何枚かの花弁を髪や服にまといつかせたまま、目を細めて微笑んだ。



「一緒に行こう」



 嫌だ。



 朔夜は頭の中で申し出を全力で拒否した。しかし実際には云えなかった。

 喘息持ちの朔夜が命の綱にしている薬の製造元が、正にアースのものだったからだ。


 ライザーという名があまりにも有名で、また、かの一族は身内をあまり外に出さないことで知らぬものはいないというくらいだったから、シンにはすでに偽者疑惑が浮上していた。


 朔夜も、大企業の御曹司がこんなところにいるはずもなく、またいたとしてももっと特別扱いされているに違いないと思っていたから、そんな疑惑が流れるのも道理と考えていた。

 けれども偽者だという証拠もない以上、朔夜は彼をアースグループのシン・ライザーとして扱わなくてはならない。邪険に扱いすぎて、親に訴えられる可能性も考えなくてはならないのだ。

 シンの性格を考えると、そんなことをするとはとても思えないが、人は得てして裏の面も持っているものだ。油断は出来ない。


 朔夜は重々しく溜息をつくと、何も云わずにそのまま歩き続けた。

 それを肯定と受け取ったのか、シンは安堵したように笑い、その隣に並んだ。


 敷石の周囲にぽつぽつと立つ桜の古木が真っ白な花びらを雪のように散らす。その映像はどこか懐かしいような悲しいような、そんな不確かな感傷を朔夜の中にもたらした。




 特別クラスの起床は毎朝五時。朝食の前に筋力トレーニングを中心とした朝練を行い、食事ののちに授業を受けにいく。

 トレーニングは寮が存在する第九エリアで行われるため、部屋でウェアに着替えてから、直接現地に向かう。


 ただでさえ慣れない早起きで苛立ちが募っているというのに、今現在この世で最も忌避すべき相手とともに会い、あまつさえ一緒に行動してしまったということで、朔夜の機嫌は降下の一途を辿りつづけた。あと少しでも何かがあったのなら、神経は完全に擦り切れ、理性はどこかに消し飛んでしまうかもしれない。


 朔夜は怒鳴り出したい気分をぎりぎりまで抑え、集合場所へと急いだ。シンはそのあとを、尾を振らんばかりの勢いで追ってきた。



「おはよう、シン君、キサラギ君」



「シャオ、おはよう。今日はサラと一緒じゃないのか?」



「サラちゃんは寝坊だよ。今日はわたし、アイナちゃんたちと朝練準備当番だから先に行くの」



 明るい笑い声を立てながら、女子生徒がひらひらと手を振って二人を追い越していく。小走りの彼女たちは、前にいるグループの少女たちの名を呼びながら、光の中を抜けていった。

 上着の下から覗くトレーニングスーツが、時折、陽を反射して鈍い光を放った。


 ナーサリー指定のトレーニングスーツは、体にフィットするようにデザインされているので、体の線がこれでもかというほどよく見える。そのため皆、上着を羽織って出てくるのだが、それでもちょっとした動きの合間、ちょっとした偶然から、それが目に入ってきてしまうことがあり、男子生徒たちはそのたびにひそやかな歓声をあげていた。

 もちろん朔夜とて、例外ではない。去っていく少女たちの後姿を凝視出来ず、どぎまぎしながらうつむいた。

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