涼しくなってきましたねと彼女は言った
I田㊙/あいだまるひ
涼しくなってきましたねと彼女は言った
その声は、海の桟橋の先で釣りをしていた僕の後ろから、いきなり聞こえた。
「朝夕は、涼しくなってきましたね」
「そうですね」
僕以外に釣り人はいない。
後ろに立っているこの女性は、どうやら酔狂にも桟橋の先で釣りをしている僕のところまで、てくてくと歩いてきて話しかけてきたようだ。
声色からして、僕より年はいくつか下だろう。
僕は振り返らず、餌をつけながら答える。
「もう、夜も鈴虫が鳴いているしね」
「あたし、こんなに田舎に住んでるのに、鈴虫とコオロギの声知らなくて、鈴虫の鳴き声かと思ってたものがコオロギの鳴き声だよって、お父さんに言われました」
「実は僕もどっちがどっちだか知らないんだ」
「ふふっ」
彼女は優しく笑った。
僕は竿を振って、海の上に浮かぶ浮きの動きをじっと見つめる。
「魚は、いっぱい釣れていますか?」
「アイナメと、カサゴくらいかな。そんなにいっぱいは釣れてないよ」
「そうですか」
少しの沈黙。
沈黙は、嫌いではない。
そもそも僕は、一人になりたいと思った時に、この人があまり来ない桟橋から一人で竿を振るのだ。
だから予想外に話しかけられて、僕は平静を装ってはいたが、少しびっくりしていた。
僕は人見知りなのだ。
もう時間も夕方に差し掛かり、ゆっくりと空は赤みを帯びていき、紫や赤や黄色の雲が空を彩っていた。
僕はこの時間の空と海が好きだ。
太陽は沈み、そして空は明るさに別れを告げて、星は我らの時間だとばかりに我先に光り出す準備をする。海の色は次第に底抜けに
昼に生きるでもなく夜に生きるでもなく、ふらふらと世捨て人のように生きている僕は、このどちらにも光ることの出来ない隙間の時間と同じだ。
この時間があるということは、僕は生きていてもいいということなのだと、そう思えるのだ。
彼女は、僕に話しかけるわけでもなく、後ろにいた。
気配はするので、帰ってはいないのだろうと思っていた。
「鈴虫や土手の向ふは相模灘」
浮きが沈んで、僕がフッキングしようとしたときに、彼女はいきなり俳句を
「えっ?」
「あ、ごめんなさい」
あまり大きな魚ではなかったようで、割とするすると引き寄せられる。
フグの稚魚だった。
「かわいい」
「そう? 欲しい?」
その時僕は、初めて彼女の方を振り返った。
彼女の姿は時代錯誤も
僕は一瞬言葉を失ってしまう。
「びっくりしました? ギャルが話しかけて?」
「いや…」
「実はこの格好、あたしのお母さんの恰好で…」
「あ、うん…」
「見た時にこれだって思って…」
彼女は急に恥ずかしがりながら、もごもごと口ごもる。
「お兄さん、いつもこの場所で釣りしてますよね?」
「まあ、うん…」
「私、話しかけたかったんだけど、勇気がなくて…、でもこの格好なら私が私じゃないから…だから、えっと、その…」
もじもじと恥ずかしがる彼女は、どう見ても
「うん、明日またいるから…。今度は普通の
と。
彼女は大きく頷くと、
「じゃあ、また明日!」
と元気に帰って行った。
彼女が口にした鈴虫の句は、正岡子規の俳句だった。
彼女がどういう思いで僕に話しかけてきたにせよ、彼女のことは一生忘れることはないだろう。そしてあの俳句も。
涼しくなってきましたねと彼女は言った I田㊙/あいだまるひ @aidamaruhi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます