7.善行(後編)
私たちは、なぜか大学の図書館にいる。
経緯は……こんな感じ。
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「そういや伊月、あなた、『善行』をしたいって言ってたけど、具体的には何をするつもりなの?」
元凶は何気なく伊月の背中に、何気なく投げかけた言葉が、伊月の足を止めた。
伊月がこっちを、苦笑いしながら、ゆっくりと、振り向いた。
……ぎぎぎ、という音が聞こえた気がした。
「何も考えてなかった、のね?」
こくこく、と伊月は頷いた……。
『善行とは何か?』
本来は、考える必要もない問いには違いない。
でも、伊月はひっかかりを覚えたようだ。
伊月さん
「単純にどうしたらいいのかわかりません」
というのは?
「善行っていうのは、要するに罠にかかった鶴を助けたり、雪で凍える地蔵に自分の笠をかけてあげたりすることなのです」
ずいぶんとメルヘンなたとえだけどそうだね。
「でも、鶴を助けたら鶴の肉を売って生活している猟師のおじさんが泣きを見ます。おじいさんがおばあさんの編んだ笠をそこいらの道端の地蔵にあげたら、おばあさんが悲しんでおじいさんも悲しくなったりするかもしれません」
ああ、そういうことで悩んでいたの。
「どうせやるなら、だれも泣かないことをしたいのです。『正しい』善行をやりたいのです」
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というわけで、伊月は「善行とは何か調べるのです!」と言って図書館に乗り込んだ。
あの伊月が、「今から自分が善行だと思うことを全て試すのです!」と言い出さなかったのは意外だ。
もしかしたら彼女は、自分のイメージよりも結構理詰めの人間なのかもしれない。
しかしまあ、頭でっかちなことだ。
てなわけで、伊月が好きに本を漁っている間、私は図書館一階の歓談スペースで彼女を待っている。
彼女には悪いが、私はここでやらねばならぬことがある。
それは。
「えへへ、盗電~♪」
私は持ち込んだ充電器を図書館のコンセントに刺し、スマホとモバイルバッテリーの充電を開始した。
いまだに寮が停電状態の人間として、絶対にこれだけはしておきたかった。
現代のスマホ社会では、一度インターネットの味を知った人は、もはやインターネット接続環境なしには人間たり得ないのである。
(さて、ネットニュースでも見ますか)
青い鳥のSNSを開くと、昨日の台風に端を発した一連のニュースが並んでいる。
(うわー、ひどい)
土砂崩れだの、空港が使用不能だの、交通が止まってたりだの、そんなニュースを巡回する。
もちろん、大学のWi-Fiで。
伊月が来たのは、ソーシャルゲームのログインボーナスを取り終えたころだ。
「大きい図書館ですね。この地上の情報を効率よくかぐや様に届けるためにも次は『月の複写機』を持ち込みたいものです」
なんか不穏なことを言ってる。こういうときに語尾を付け忘れるのは不安になるのでやめてほしい。
「伊月、スパイ活動もいいけど本来の目的は……」
「そうなのです!いい本を見つけたのです!」
そう言って伊月が差し出した本のタイトルは、『善の研究』だった。
「……読めるの?」
「わかりませんでした!」
いい返事だ。
「というわけで今から外に出て自分が善行だと思うことを片っ端からやろうと思うのです!!」
「パワー系の模範解答ありがとう。でも充電ができるまでちょっと待ってね」
私は苦笑した。
頭でっかちだと思っていたこの娘は、理屈でうまくいかないと判断するや否や、即座に力技に出ることにしたらしい。
「……?やめとけ、とは言わないのですね?」
「どうして」
「だってこれからあたしが『自分が善行だと思ったから』っていう理由だけで好き勝手するんですよ。この『あたしが』ですよ。効率が悪い、とか、人に迷惑がかかる、とかそういうことは言わないんですか?」
おずおず、といったふうに伊月は尋ねてくる。
おもしろいなあ、と思う。
この子はいい子なんだろうな、とも思った。
「伊月、馬鹿なことをやるときに大切なのは、『自分は馬鹿なことをしているなあ』って絶対に考えないことだよ」
我ながらすごく頭の悪いことを言っている。
伊月も「何を言っているんだ」という顔をしている。つらい。
「要は今の伊月にとって大切なことはまず動くことだと思うんだ。それがどんなこ
とであれ、そうだと思う」
我ながらこういう時は口下手だ。ぺらぺらと美辞麗句を並べ立てる都合のいい舌を持って生まれたかった。
「私は伊月が地上にいる間は、自由にしてほしいと思っているんだ。そのために必要なことなら、なんでもしたい。もし、君がこれから『善行』だと思うことをやって、うっかり人に迷惑をかけることになったとしても、その時は一緒に謝るから」
あまりにも長い間口を動かしていて訳が分からなくなってきた。
ええと、ええと。私が言いたかったことは……。
「だから、君はこの地上では自由でいて」
まずったかな…?と思いつつも伊月をちらっと見た。
伊月は、
「それはあたしを抱いたからそう思うの?」
と聞いてきた。
だから、「うん、そう」と答えて、その瞬間、失敗を悟った。
……本の角で殴るのは痛いからやめてほしい。
さっきまで怒っていたせいか、ちょっと顔が赤い伊月の後に続いて、私は図書館を出る。
正直言って、こんなところにはそもそも盗電以外の目的でくる必要はなかったのである。
善行なんてものは、歩行だの恋だの友情だのと同じで、本を読んでやり方を知ってから実行するものではなく、生きてれば普通にできるようになっているものではないだろうか。
社会の中で、大多数の人間は哲学を知らない。
それでも、人は幸福に生きてゆくことができる。
それと同じで、善とは何かと知らなくても、善を行うことはできるのだ。
だって、見ず知らずの子供が井戸に落ちかかっていたら、慌てて駆け寄って助けるのが人の本性なのだから。
伊月は難しく考えすぎだったのである。
……もっとも、口下手で、伊月のやることなすことをすべて見守っていたい私は、それを伊月に教える気はないのだが。
「『正しい善行』ねぇ」
そんなものは存在しえないとわかっていても、見守りたくなるものだ。
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