第15話 あたしだけが気がついていなかった

 顔を上げて「彼」の顔をみたときそう思った、気づいてしまった。なんで?なんでこんな時に「自分の『本当の気持ち』」に気がつくの?

 目の前の「彼」は寂しそうに蓋の開いた指輪の箱を差しだして笑顔をみせてくれた。あたしがちゃんと「本当の気持ち」を言えるように、頑張って笑顔でいてくれている。その「本当の気持ち」が自分を選んでくれるものだと信じて次の言葉を待ってくれている。

 そうだ。信じてくれているのは「彼」の方なのだ。信じてくれているからホテルの食事や部屋を取ってくれた。「指輪」を準備してくれた。無駄にならないと信じてくれた。

 だったら、あたしも逃げずに「本当の気持ち」を伝えなくちゃいけない。

「……ご……ごめん……」

 ……情けない。これだけしか言葉を絞り出すことができなかった。あとはうつむいて声を出さずに泣くことしかできなかった。あたしに泣く資格なんかないのに。もっと早く自分の「気持ち」に気がついていたら、こんな無駄をさせなかったのに。

 高柳さんは気がついていた。雅也の彼女も気がついていた。そして、めぐみも気がついてた。だから、堂々と自分の不安を口にしてくれたのだ。


 あたしだけが気がついていなかった。


 ゆっくりと「彼」は箱の蓋を閉じた。

「謝るのは僕の方だよ」

 そう「彼」は言った。

「僕はわがままだから、僕だけを見てくれなくちゃ嫌だ。君が他の人を想いながら結婚してほしくない」

 あたしの足元に腰を下ろして

「ごめん、君と結婚はできない」

と言ってくれた。

「僕たちってやっぱり……セフレだったね」

 苦笑いしながら「彼」が言った。あたしは顔を上げて

「違う!あたしは、あなたの『彼女』だ……った。俊一さんのことを愛してたから……信じて」

 やっとそれだけ言えた。この程度のことしか言えなかった。


 ベッドに朝日が差し込んできた。

 どうやら時間になるとカーテンが自動的に開くらしい。至れり尽くせりだ。

 隣をみてももう誰もいなかった。

「……ダブルベッドにひとりぼっち」独り言ちた。

 外から覗けるとは思わないが、シーツを身体に巻き付けて落ちてる下着を拾いにベッドから下りた。


 家に帰って着替える。多央に借りたドレスをクリーニングに出してからアクセサリーと一緒に返さないと。

 ハンドバッグの中身を取り出す。中から未開封の小箱が出てきた。

「……王女さまは自分の気持ちに正直になったばかりにダイヤの指輪が薄いゴムに変わってしまいました……とさ」

 そういえば

「今度の彼女が四月生まれじゃなかったらどうするつもりなんだろう」

と思ってしまった。たぶん心配するところが違うだろうけど。

 小箱を机の引き出しにしまった。


 紙袋に入ったドレスとアクセサリーを渡しに多央の家の近くの喫茶店に行った。家まで持っていくよ、と電話で言ったのだが、

「旦那に聞かれたくないでしょう」

そう切り返された。見透かされてる。

 指定された喫茶店は多央がちょくちょく通っているお店らしく無理がきくらしい。たしかに個人経営なら本来ならもう閉店時間のはずだ。

 白塗りの壁の小さな一軒家。ぱっと見とても喫茶店に見えない。お店の看板も店頭の灯りも落としていたからなおさらだ。

 おそるおそる入ると「いらっしゃい」の声と「こっちこっち」の声が聞こえた。

 外とは打って変わって木目調の壁に小さなカウンター。その隅に百合の花だと思うけど、それが挿してあるガラスの一輪挿し。木のテーブル席が二卓並んでるだけでいっぱいいっぱいの広さ。たぶん普段はジャズとかが小さく流れているんじゃないかな。そんな感じのするお店。

 その奥のテーブルに座っている多央の前に座って紙袋を差し出す。

「ありがとう。助かった」

 多央は黙ってそれを受け取って隣の椅子に無造作に置いた。

 お店のマスターとおぼしき白髪交じりの男性がお冷とコーヒーを二人分持ってきた。

「コーヒーでいいでしょう?」

 多央は有無を言わせなかった。あたしも異議はない。

「じゃあ多央ちゃん、話しが終わったら奥に声をかけてよ」

 マスターは多央にそう言うと店の奥に引っ込んだ。どうやら奥が自宅らしい。

「さて、何があった?」

 その声を皮切りに、あたしはホテルであったことを包み隠さず話した。

 あたしの話しの要領が悪いのか小一時間はかかってしまった。コーヒーもお冷もとっくになくなってる。

 多央はその間、ひと言も口をはさまなかった。そして、あたしの話しが終わると

「バカたれ」

と言った。

 なにが馬鹿だったのだろう。きっと全部なんだろう……。

「それでどうするつもりなの、これから」

 多央の問いかけへの答えは決まっている。

「なにも……。今まで通りだよ。義理の弟と姉。甥と伯母としてこれからもつきあうだけだよ」

「それだと、別れた意味がないんじゃない?」

「意味はあるよ。あたしのことを好きでいてくれた人をこれ以上、裏切らずにすんだもの。もし、あのままなにも問い質されずに指輪を差しだされたら喜んで受け取っていたわ」

「その方がお互い幸せだったでしょう」

「でも……どこかで、あたしは自分の気持ちに気がついたと思う。その時に結婚してたら今よりももっと苦しんでいたと思う。だって、あたしには返せるものがなにもないもの」

「……返せたと思ってるの?」

 首を横に振る。

「レストランのディナーに部屋代。指輪だって無理に買わせてしまってる。……だけどそれよりも、この一年、彼の時間を無駄にさせてしまったことに比べたら全然返せてると思ってないよ」

 多央は小さくため息をついた。

「とにかく、過ぎたことをとやかく言っても仕方ない。……あんた、西嶋がうまくいって結婚までしたらどうするの?」

「向こうしだいだね。奥さんに遠慮して疎遠になるんだったらそれもよし。あたしが決めることじゃないよ」

「西嶋に……告白したら?」

 あたしはお腹を抑えながら

「無理に決まってるじゃない」

とだけ答えた。

「……なかったことにだって、できるでしょう」

「……それよりも多央あんた、あたしが雅也のことを好きだったって気がついていたでしょう?いつから?」

 あたしは話題を逸らすことにした。

「いつからかな?あんたがめぐみちゃんたちのことを相談してきた時にはなんとなくわかってたと思うよ」

「それって高校生のころじゃない。もっと早く言ってよ」

「なんとなくだしね。それにそんなこと言ったってムキになって反論されるに決まってるもの」

「だったら、めぐみたちのことを応援したのはなぜなの?」

 多央はお冷やのグラスの中に入ってる小さな氷を口に含んだ。

「頑張っている人を応援するのは当然じゃない」

「あたしは頑張ってなかったからね」

 氷をガリッと噛む音がした。

「違うよ。あんたが頑張ってめぐみちゃんたちを応援してたから、あんたのことを応援してたんだよ」

 予想外の言葉にどう反応していいかわからない。

「だとしたら今のあたしは応援される資格はないね。あっちもこっちも逃げてばかりだもの」

 やっとそれだけ言えた。

「なに言ってんの。今だって応援してるからこうやって話しを聞いてるんじゃない」

 多央はそう言ってあたしの顔にグッと自分の顔を近づけた。

「なんかあったら絶対知らせなさいよ、変に気を回したりしないで。友だちなんだからね」

 うん、知ってる。

「それよりも恵子、あんた前カレの連絡先どうしてるの?」

 そんなの決まってるじゃない。

「もちろん消去してるよ。向こうから連絡きても着信拒否に設定してるし。彼には自宅の番号は知らせてないからかかってくることはないでしょう」

「店はバレてんじゃん」

「そうなんだよね。……辞めるしかないかな」

 天井を仰いで考える。

「一切、絶つつもりなんだ」

 コクリと頷く。多央は少し笑顔になって

「でも案外なにもないかもよ」

と言った。

「そうだといいけど……」ボソリとつぶやいた。

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