第7話 オバQ襲う狼はいねえよ

「入院?」

 父の言葉に現実感が感じられなかった。母はただ泣いているだけでなにも話さない。いや話せないのか。

「先週、病院で検査を受けて……乳ガンだと診断されたそうだ」

 ……乳ガン?より現実感のない言葉が耳に入ってきた。

「……赤ちゃんは?無事なの?」

 父はうなずきながら

「今は無事だ。ただ……」言いにくそうに付け加えた。

「中絶できる二十一週がもうすぐなんだそうだ。ガンの治療は体力がいるから妊娠している状態では治療もままならない。だからそれまでに堕胎するかどうかを決めなくてはいけないそうだ」

 堕胎?あの子もうお腹が大きくなってきてるのに……。

「めぐみは知ってるの?なんて言ってるの?」

「『産む』と言ってる。雅也くんも西嶋さんたちも、もちろん俺たちもあいつに中絶するよう言った。だけど頑として聞き入れないんだ」

 もう知ってるんだ。

「だけど産むなんて無理でしょう。どうする気なの?」

「本人は帝王切開でもいいから産みたいと言ってる。どこから調べたのか妊娠中の治療は可能なはずだからなんとかやってほしいと病院の先生に言ったそうなんだ」

 あの頑固者……。

「中絶できる期限っていつまでなの?」

「今月いっぱいだそうだ」

 年が明けてもう二週間は経っているからあと二週間切っている。

「帝王切開なんてすぐにできるわけじゃないでしょう?いつできるの?」

「……それはよくわからんが」

「三十七週」

 母が泣きながら突然言った。

「普通帝王切開ができるのって三十七週……予定日が六月だからたぶん五月までは無理だと思う」

 それじゃ三カ月間はなにもできないってことなの?妊娠中の治療ってなにができるの?

 なにもわからないことが多すぎる。今までそんなこと考えたことなかったもの。妊娠したら子どもが生まれるなんて当たり前じゃないの?

「とにかくお前にもいろいろやってもらわなくちゃいけないと思う。就職活動とかいろいろと大変だが助けてやってほしい」

「もちろん。あたしにできることはなんでも言って。就活なんて後回しでも構わないんだから」

 頭を下げて頼んできた父に安請け合いをした。正直、年があけても内定が取れていないのは問題だけど、こんな時に身を入れて就職活動なんてできるわけがない。


 結局、一月が過ぎても本人の説得ができなかった。あたしも病院に通い、何度も説得したけど無理だった。ある時、母に向かって

「……子どもを堕ろしても私が助かるとは限らないじゃない」

と、言ったこともあるらしい。

 もう、あたしはあえてなにも言わないことにした。あの子が頑固なのは子どもの頃から知ってる。それに、あたしも母子ともに生きていてほしいと思う。そのためにはどうしても赤ちゃんは堕してほしくない。甘いのかな。

 父には就活なんて後回しでもいいとは言ったがまったくやってないわけではない。三月の卒業までになんとか一社でもいいから内定をもらいたい。だけど今では履歴書の趣味の欄に「就職活動」と書いてもいいくらいの日常行為になってしまった。

 その何社目かわからないくらいの面接の帰りにめぐみが入院している病院に寄った。彼女はもう何回かの抗がん剤治療を繰り返していた。背中まで伸ばした自慢の髪は抜け今はニットの帽子をかぶっている。頬もこころなしかこけている感じだけど、目は活きいきとしている。あたしが部屋に入るなり

「お姉ちゃん、その顔で面接受けたの?」

などと言ってきた。

「その顔とはなんだ。この顔は生まれつきよ」

と悪態をついてベッドの脇の椅子に腰を下ろす。

「だってまさかすっぴんで受けるなんて思わないじゃない」

「……メイクなんてやったことないもの」

 なぜかめぐみは頭を抱えてる。

「信じられない。どうして二十一歳にもなってメイクしたことないの。学校で友だちとかとそんな話しにならなかったの?」

「クラスや部活でもやってる子はいたけど、あたしには関係ないって思ってたから」

「まったく……。ちょっとそこのポーチ取って」

 立ち上がって手洗い場のわきにあったポーチを持ってきた。

「あんたまさかメイクしてるんじゃないでしょうね」

 たしかお医者さんが顔色を見るのにメイクは邪魔だとなにかで読んだことがある。

「やってないよ。……たまにしか」

 やってんじゃん。

 めぐみがポーチを開ける。中を覗きこむが、いったいなにに使うのか見当もつかない。細い筆と口紅を取り出した。

「本当は口紅なんて一番最後につけるもんだけど。とりあえずこれだけ塗っても変わるってことだけみせたげる」

 そう言いながら筆に口紅をちょんちょんとつけ出した。

「口紅って直接つけるんじゃないの」

「それでもいいけど、リップブラシを使ったほうが細かいところも塗れるから」

 口紅をつけたリップブラシをあたしの口元に持ってきた。うう、気色悪い。

「ほら、動かないの。はみだしちゃうでしょう」

 めぐみは迷いなくあたしの唇に紅を差す。ブラシの感触がこそばゆい。もうここまできたらまな板の上の鯉状態。なるようになれだ。

「よし、こんなもんかな。ほら見てみて」

 ポーチの中から小さなスタンドミラーを取り出して渡してきた。おそるおそる鏡の中を覗き込む。

 ……へ?想像では唇だけが異常に浮いちゃうと思っていたけどなんか顔全体が華やいだ感じになってる。なんで?

「なかなかいい感じでしょう。これだけでも面接官の印象がだいぶ違うはずだから、やらないと損だよ」

 リップブラシをティッシュでぬぐいながら自慢げに語る。

「あ……ありがとう」

 お礼を言うあたしをめぐみがじっと見てる。

「どうしたの?」

 問いかける。しばらくして返事があった。

「……まさくん、取らないでね」

 ビックリした。まさかまだ気にしているなんて思わなかった。あたしが告られたのはもう五年も前なのに。

「なに言ってんの。妊娠がわかってあいつがうちに来た時、あたしのことなんて全然見てなかったじゃない。次の日の朝に会った時だってあんたばかりみて話をしてたでしょう。あいつが見てるのはあんただけだし、あいつを幸せにできるのはあんただけなんだから弱気にならないの」

 あたしの言葉にうすく笑いながらうなずいてくれた。

「……でもさひどいと思わない。私みたいな貧乳に乳ガンなんてダブルパンチじゃない。しこりを見つけた時なんの冗談かと思ったよ」

 めぐみはそう言いながら胸を押さえる。第二次成長期になって身体に丸みがおびても胸だけはほとんど成長しなかったと事あるごとに文句を言ってたっけ。

「まさくんがお姉ちゃんを気に入ってたのは胸が大きいっていうのもあるんだよ」

 ……!マジか?思わず胸を隠す。

「本人そんなことないって言うだろうけど私にはわかるよ。あいつ絶対巨乳好き」

 断定しためぐみがくすくす笑っていると部屋の引き戸が開いた。振り返ると雅也が入ってきた。どうやら仕事が終わってまっすぐ病院に来たようだ。

 あたしはめぐみに

「口紅、落として来る」

と囁いてから部屋を出た。後ろでめぐみがなにか言ってたけど聞いちゃいなかった。この顔を他の人に見られたくないからとっとと落とさなくちゃ。


「やっぱり落ちなかったでしょう」

 あたしの唇にリムーバーを染み込ませたコットンをあてながらめぐみはそう言った。

 もっと早く言ってよ。化粧室で石鹸をつかって顔を何度洗っても全然落ちなかった。それどころかかえって口紅が広がってとんでもない顔になって病室に戻って泣きついた。二人から爆笑された。悔しい。

「それにゴシゴシこすっちゃダメだよ。口紅がかえって残っちゃうし、唇も荒れて大変なことになっちゃうよ」

 妹は説教しながら少しずつ丁寧に口紅を落としてくれた。その間、部屋の隅に置いた椅子に座って下を向いて笑いをかみ殺している男がいた。

「お宅の旦那さんはかなり無礼ではないでしょうか?」

 あたしはその男を親指で指しながら文句を言った。めぐみは

「まさくん、失礼だよ。お姉ちゃん知らなかったんだから笑っちゃかわいそうだよ」

と、雅也をたしなめてくれる。だがクツクツという小さな笑い声はやみそうにない。ムカつく。

 口紅を取りおわってから

「ありがとう。じゃあそろそろ帰るね」

と立ち上がった。

「ええ、まだいいじゃない」めぐみが世にも残念そうな声で言う。

「だってお邪魔でしょう。あたしだって帰って夕飯を作るのを手伝わないと」

 バイト代から生活費を出しているとはいってもしょせん微々たるもの。あとは肉体労働で支払わないと。

「もう少しいいじゃん。まさくんに送らせるからさ」

「ええ?やだよ。送り狼になったらどうすんのさ」

「オバQ襲う狼はいねえよ。犬じゃないんだから」

 後ろから反論が返って来る。誰がオバQじゃ。

「……『オバキュー』ってなに?」

 部屋の中でいちばんの年下が聞いてきた。そういえばなんで「オバケのQ太郎」を知ってるんだろう?


 結局、面会時間いっぱいの二十時まで話し込んでしまった。

「必ず我が姉を無事に家まで送り届けるように」

と、めぐみの命令を受けたので雅也はあたしと帰ることになった。

「……さっきは申し訳ない」

 帰り道、雅也はあたしが謝ったのを怪訝な顔をして問い直して来る。

「なにが?」

「送り狼って言っちゃったこと」

「ああ」

 納得したように

「別にいいよ。こっちだってオバQ扱いしたんだから。お互いさまだ」

 そう言ってくれた。

 ふとあたしは足を止めた。

「どうした?」

 雅也が聞いて来る。

「ここだよね。あんたたちの人生が変わった場所は」

 駅から雅也の家のちょうど中間。なんの変哲もない住宅街の歩道。建て売りでちょっと個性的な家の中から灯が漏れている。ここで雅也はあたしに告白してくれ、あたしがふり、めぐみと雅也がなぜかつきあいはじめた場所。それから五年。まさかその場所に義姉と義弟として歩くことになるなんて想像もしなかった。

「……そうだな。そりゃ送り狼を怖がるのはわかるよ」

 雅也があたしと同じ方向を向きながら言った。

「……?」

「だって告白したってことは一度は異性としてみてるってことだもんな。その気持ちがいつぶり返すかと考えたらこうやって二人っきりになるのは気が気じゃないだろうし」

 今はどう思ってるのよ。そう聞きたい衝動をなんとか抑えた。

「めぐみだってそうだと思う。あいつ今でも俺が宮中と一緒になるんじゃないかって考えてる」

「……めぐみがそんなこと言ったの?」

「言ってない。でもそう考えてるのはわかる」

 雅也がこちらを振り返り答えた。

「だからわざわざ、こうやって宮中を送らせるように仕向けたんだと思う。『私はあなたたちを信じてますよ』って」

 めぐみがそんなふうに考えていたとは思わなかった。時折、不安にかられてあたしに言ってくるんもんだとばかり思ってたのに。あの子のことなにもわかってなかったんだ、あたし。

「だから俺はあいつの信頼に応える。結婚前は宮中だけじゃなくて他の女性とも話さないようにしてた。今は話しはしても親しげになったりならないようにしてる。どこまでできてるか自信はないけど」

 彼が歩き出す。あたしもその後をついていく。

「……でもさ、やっぱり若いほうがいいでしょう」からかい気味にそう聞いてみる。

「当たり前さ」こちらを横目で見ながら彼が答える。

「宮中だって十分若いけど、めぐみには敵わないもんな。あの時、乗り換えて正解だったわ」

「ひどいなあ。でも、あたしもあんたをふって正解だったと思ってるよ」

 あたしは少し早歩きをして彼に並んだ。

「そうだな。あたしもつきあうんだったら若いのにしようかな」

「だったらうちの息子なんかいかがですか?」

 もう二人の赤ん坊の性別はわかってる。男の子だ。

「いいねえ。でも伯母と甥っ子って結婚できなかったよね」

「え、そうなの?そいつは良かった。父親と同い年の彼女なんていくらなんでも息子がかわいそうだ」

「だったら勧めるんじゃないよ」

 そうやって話しているうちに雅也の家に到着した。

「じゃあ」

 雅也が手を挙げて家の中に入ろうとする。

「おいこらちょっと待て」

「はい?」

 あたしの言葉に雅也が怪訝そうに反応する。

「あんた、めぐみからなにか頼まれたんじゃなかったっけ?」

 そうあたしを「無事に家まで送り届ける」ように言われてる。

「ああ、そうだった」

 しぶしぶ踵を返した。

「ほら、行こうぜ」

 あたしの傍らをすり抜けて先に行く。

「ところで、なんでオバQになってたんだ」

「めぐみがメイクの効果を教えてくれるって言って口紅だけ引いてくれたのよ。それでお手洗いで落とそうとしたらあんな顔になっちゃったの」

「なんでメイクのことを教わることになったんだよ」

「面接にすっぴんで行ったのが信じられなかったらしいよ」

 雅也は思わずといった感じで立ち止まって。

「そりゃ俺も信じられんわ。まだ面接に行ってたのか」

 そっちか。

「だって内定がもらえなかったら続けるしかないでしょう。あんたみたいにコネなんて持ってないのよ」

「普通は三月まで無理だったら就職は諦めてフリーターになるんじゃないの?」

 その質問に答えようとする前に

「ところで短大の卒業式っていつなの?」

 そう聞いてきた。

「たしか火曜日だったと思うから十五日じゃなかったかな。最近、学校に行ってないし」

「やっぱり着物とか着るの?」

「そんな面倒くさいもの着るわけないじゃん。もう十日だよ。今から準備する時間もないし、このコートとスーツで済ませようと思ってるよ」

 コートの襟首をつまんでそう言った。

「ええ?もうちょっとファッションに気を配ったほうがいいんじゃないか。学生生活最後の日にあまりにも適当すぎないか。もしかしてメイクもしないつもり?」

「あんたにとやかく言われたくない。そんな実にならないものに手間とかお金とかかけられないよ」

「いや、せめてお前はきれいでいてくれないと告った俺の立場がないじゃん」

「あんたの立場なんかなおさらどうでもいいわ!」

 そんな罵り合いをしながらも彼は無事に送り届けてくれた。そして……翌日、二〇一一年三月十一日。後に東日本大震災と呼ばれる地震が起きた。

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