[5] チェコスロヴァキアへの進撃

 1944年夏の東部戦線において、スロヴァキアは独ソ両国にとって戦略的な要衝と目されていた。国内の鉄道網が東カルパチアの前線からボヘミア地方をはじめ、ポーランドやドイツと結ばれていたからである。

 8月29日、ドイツ軍はスロヴァキア政府の依頼を受けて、スロヴァキア国内に進出した。中部山岳地帯に潜伏するパルチザンを制圧することが目的だった。スロヴァキア軍はカルパチア地方を防衛するため、ドイツ軍とともに東部に展開していた。

 第1ウクライナ正面軍の南翼ではポーランド国境を越えて、カルパチア地方にあるドイツ軍陣地を突破してハンガリー東部への到達を主眼とした「カルパチア=ドゥクラ」作戦を開始しようとしていた。第38軍(モスカレンコ中将)が九月初めからカルパチア山脈のドゥクラ峠に攻撃をしかけ、すでにドイツに対する蜂起に乗り出していたスロヴァキア国内のパルチザンと連絡しようという内容だった。

 9月8日、第38軍はクロスノ付近から攻撃を開始した。この攻勢には、チェコスロヴァキア第1軍団も参加していた。ソ連軍の突破が始まると、第1装甲軍(ハインリキ上級大将)は2個装甲師団(第1・第8)の支援を受けて、陣地を保持しようとした。

 第38軍は戦車部隊を投入して陣地の突破を図ったが、ドゥクラ峠を目の前にしてドイツ軍の反撃によって前進を阻まれてしまった。第1親衛騎兵軍団(バラノフ中将)は包囲され、第1ウクライナ正面軍は攻勢を中止せざるを得なくなった。ソ連軍はチェコ第2空挺旅団をスロヴァキアに空輸したものの、ソ連軍が到着する前にパルチザンの蜂起は終息してしまった。

 9月9日、新しく編成された第4ウクライナ正面軍(ペトロフ大将)がスロヴァキア攻勢に加わった。第1親衛軍(グレチコ大将)と第18親衛狙撃軍団(アフォーニン少将)がハンガリー北部に向かって突進した。第1装甲軍とハンガリー第1軍はカルパチア山脈の険しい地形を利用して粘り強い抵抗を続け、第4ウクライナ正面軍の進撃を阻止されてしまった。

 ソ連軍は10月28日までにウジゴロドとルテニアのムカチェヴォを占領したが、スロヴァキアからドイツ軍を一掃することには失敗した。この時までに、第4ウクライナ正面軍はティサ河畔のヒョップで第2ウクライナ正面軍と合流したが、1944年の冬季戦の間はずっと進撃を停止していた。

「バグラチオン」作戦に始まる一連の攻勢で、ソ連軍は北部戦域でニーメン河を越えてバルト諸国から東プロイセン国境まで、中央部の戦域では北ヨーロッパ平原を横断してヴィスワ河の前面に到達した。ドイツ軍はワルシャワの東方とリトアニアで反撃に成功したが、これはソ連軍の兵站線が伸び切ってしまい、そこで進撃が停止したことが主な理由だった。

「バグラチオン」作戦とそれに続く戦略的な成功は、ソ連軍にしても対価なしに得られたわけではなかった。「バグラチオン」作戦と「ルブリン=ブレスト」作戦では233万1000人の兵員が投入されたが、そのうち戦死・行方不明者は17万8507人、負傷者は58万7308人に上った。

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