[4] ワルシャワ蜂起

 ポーランドは1939年9月に自国が独ソ両軍に分割されて以来、亡命政府がイギリスの首都ロンドンに疎開していた。亡命政府は独ソ戦の進展により、ソ連軍が国内で対独戦を開始する時点で、国内での全面的蜂起を指令することを決定していた。

 1944年7月末には、蜂起の機が熟したように思えた。第1白ロシア正面軍が首都ワルシャワに接近しており、市の東側は砲兵の射程内に入っていたのである。モスクワ放送は7月29日、次のような放送をポーランド語で伝えた。

「ワルシャワの住民へ告ぐ。行動の時が来た。ワルシャワの街路で家屋、工場、商店で戦うことによって、我々は最後の解放の時期を早めるとともに、国の富と同胞の生命を守ることができよう」

 蜂起決行の政治的な理由ははっきりしていた。ポーランド亡命政府は自力で首都を解放することで、ソ連の支配を阻止するつもりだった。すでに7月23日には、ポーランド南東部のルブリンで親ソ派の新政府「ポーランド国民解放委員会」が樹立していた。ロンドンの亡命政府が何の行動も起こさなければ、親ソ派は当然、自分たちこそがポーランドの指導者なりと主張するだろう。

 8月1日午後5時、亡命政府はワルシャワに潜伏する国内軍(AK)に対して「テンペスト」作戦を実行するよう指令を出した。3万8000人の兵士が一斉に市内で蜂起した。蜂起は順調に推移した。国内軍は旧市街地と市中心部を押さえ、電話局の確保にも成功したが、市の東部はドイツ軍がソ連軍とヴィスワ河を挟んで対峙していたために確保できなかった。しかし前線の有望な状況から、国内軍司令官ボル=コモロフスキ将軍はソ連軍の協力が得られれば、あと数日でワルシャワを解放できると期待していた。

 連合国は国内軍のワルシャワ蜂起を支援するため、武器や物資を空中から投下する作戦を進めようとしていた。チャーチルは落下傘による補給作戦のために、ソ連領内の飛行場を連合国の空軍が使用できるようモスクワに求めた。

 8月9日、スターリンはロンドンのポーランド亡命政府に対して「ソ連としては蜂起した人民を支援する所存だ」と約束した。ただ現在、我が軍はドイツ軍の反撃を受けていると主張した。政治的な理由から見れば、スターリンがワルシャワの国内軍を支援する気が無かったのは疑いのない事実である。国内軍は米英連合国に支援されたロンドンの亡命政府に忠誠を誓っており、スターリンは9月中旬までチャーチルの要請に許可を出さなかった。スターリンにとってドイツとポーランドが互いに消耗することは政治的に好都合だったのである。

 国内軍は必死の抵抗を見せたが、勝ち目はほとんど無かった。ドイツ軍はワルシャワの蜂起を鎮圧するため、バッハ=ツェレフスキー少将率いる武装SS部隊を投入した。ドイツ軍の火砲と空襲を受けながら、地下室や下水道に立てこもった国内軍の兵士たちはなおも奮戦を続けた。ドイツ軍は街のブロックをしらみ潰しに押さえながら、ワルシャワの旧市街を奪還した。

 在ソのポーランド第1軍(ベルリング中将)はワルシャワ郊外の都市プラガの占領を試みたが、兵力は十分ではなかった。ドイツ軍の抵抗は頑強で、ポーランド第1軍は大きな損害を被った。第1軍司令官ベルリング中将はワルシャワ進撃の許可を何度も求めたが、ついには第1軍司令官を解任されてしまった。

 10月2日、ワルシャワで蜂起した国内軍は降伏した。国内軍は将兵1万5000人の戦死者を出した。民間人も20万人が犠牲になった。捕虜たちはゲットーの跡地に建設された強制収容施設に送り込まれた。無慈悲な2つの全体主義国家に挟まれた国内のポーランド人たちは西方にも東方にも、いっさい幻想を抱けなかった。

 ワルシャワで蜂起が起こっている間、第1白ロシア正面軍は8月中旬まで、ドイツ軍からの反撃に備えてマグヌジェフ橋頭堡の守備に専念し、ナレフ河の渡河点を押さえようとした。今後の作戦を容易にするための発起点を確保しておこうという考えに基づいたものだった。ソ連軍がヴィスワ河の橋頭堡を突破するための十分な兵力を蓄えるには、さらに3か月を必要とした。

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