[2] 「リュボフ=サンドミェシュ」作戦
モスクワの「最高司令部」は第1ウクライナ正面軍に対して、「リュボフ=サンドミェシュ」作戦の発動を命じた。この攻勢の矢面に立たされたのは、北ウクライナ軍集団(ハルペ上級大将)だった。
「リュボフ=サンドミェシュ」作戦は次のような内容だった。第1親衛戦車軍とバラノフ機動集団(第1親衛騎兵軍団・第25戦車軍団)はスティル河沿いに、ルーツクから南西に向かってリュボフの西方を攻撃する。第3親衛戦車軍(ルイバルコ大将)と第4戦車軍(レリュウシェンコ大将)、ソコロフ機動集団が東方からリュボフへの突破を実施する第38軍と第60軍の後方から啓開することになった。攻撃に先立ち、第1ウクライナ正面軍司令官コーネフ元帥はドイツ軍を欺くため、スタニスラフで南翼への陽動を組織した。
7月13日、第1ウクライナ正面軍の北翼から第3親衛軍と第13軍が前進し、日没までに弱体化した第42軍団(レクナーゲル大将)の陣地を突破して15キロ進出した。
第1親衛戦車軍は第1親衛戦車旅団を先鋒に、第4装甲軍(ネーリング大将)の2個装甲師団(第16・第17)を北方に追いやった。しかし、第16装甲師団は後に包囲網から離脱することに成功した。この師団は西方への長い迂回行軍を行って、リュボフ市の防衛戦に加わった。
北翼では戦局が順調に推移していたのに対し、リュボフへ直接向かう進路にいたにも関わらず、南翼の第38軍と第60軍は第13軍団(ハウフェ大将)の反撃に遭い、戦車部隊が進撃するための回廊を打通できていなかった。第38軍はC軍団支隊(ランゲ少将)の防御を受けて遅滞し、第60軍はコルトフで小さな間隙を空けただけだった。
変転する戦況に速やかに対応するため、コーネフは2個戦車軍(第3親衛・第4)に第60軍の正面にある狭い正面から突進するよう命じた。さらに、第31軍団と第4親衛戦車軍団を支援に出した。数日のうちに、北翼へ変針したソコロフ機動集団が第1親衛戦車軍に追いつき、ドイツ軍の前線に大きく空いた亀裂に向かって突進した。
7月14日早朝、第3親衛戦車軍と第4戦車軍の戦車/自走砲1000両以上がコルトフの回廊に殺到した。この回廊を塞ごうとする第8歩兵師団と第1装甲師団の反撃を退け、ソ連軍の戦車部隊はドイツ軍の砲列の中を突破した。
7月18日、第3親衛戦車軍の先鋒が、北翼へ変針したソコロフ機動集団とリュボフ北東で合流することに成功した。ブロディの周辺に第13軍団を封じ込められた。
7月23日、第1親衛戦車軍はプシェミシルに迫ろうとしていた。北ウクライナ軍集団司令官ハルペ大将は第1装甲軍(ハインリキ上級大将)に撤退を命じざるを得なくなり、ブロディで包囲された第13軍団の救援作戦は中止された。
7月27日、ソ連軍はリュボフを奪回した。コーネフは第3親衛戦車軍に対し、第1親衛戦車軍と合流するために西方へ転進するよう命じた。すなわち、ヴィスワ河へ向かわせたのである。
7月29日、第1親衛戦車軍の先遣部隊は第13軍(プホフ中将)とともに、サンドミェシュの南方でヴィスワ河にかかる小さな橋頭堡を奪取した。それから数日中に、第3親衛戦車軍が後方から追いついてきた。
北ウクライナ軍集団は1か月以上かけて、ハンガリーから戦略予備を集めて第3装甲軍団、第48装甲軍団、第59装甲軍団に編入した。これらの部隊はソ連軍が確保したヴィスワ河の橋頭堡とその周辺に対して、繰り返し攻撃を加えた。
第1ウクライナ正面軍は消耗していたにも関わらず、ドイツ軍の反撃を全て跳ね返し、橋頭堡の確保に成功した。8月16日までに北ウクライナ軍集団の反撃は力を失い始め、第3親衛戦車軍はサンドミェシュを占領して橋頭堡を拡大した。
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